=6= |
---|
言ってから「しまった」と思ったが、覆水盆に還らず。 いくら「しまった」と感じても、相変わらず私は憤然とした表情をしている。ここで取り繕ったり詫びたりしても、私の顔を見ればそれが本心じゃないことくらいすぐにわかる。 交渉決裂! 退席! この場の私にふさわしい行動はそれしかないと思い、席を立った。感情を荒立てているなどと思われたくなくて、私は努めて静かに足を進めた。 退出した私に、妻と真人が黙ってついてきてくれた事が最大の救いだった。 |
玄関から外に出ると、妻が「あなた」と言い、息子が「お父さん」と呟いた。 「すまんな。お前たちの立場を無くしてしまった。これまで毎日お詫びに通った事も無駄にしてしまった」 「お父さん、ごめんなさい」 息子が私に、初めて謝った。 いじめの発端なんておそらく些細なものだ。深く物事を考えて、「こいつを自殺に追い込んでやろう」などと思っていじめをするやつはいない。しかし、それはとても浅薄なことだ。人の気持ちに思いを馳せることが出来なかったために物事をここまで大きくしてしまった。 息子はそのことに始めて気が付いたようだ。 ごめんなさいと言葉を紡ぐ息子は、とても小さく見えた。私は息子が哀れに思えた。 「いいんだ。もういいんだ」と、私は言った。「今日で、この件は終りにしよう。明日から新しい生活を始めよう」 「でも、僕は・・・」 「お前は何もしなくていい。悪いことをしたという自覚があるのなら、同じ過ちを今後犯さなければいい。死んだものはしょうがない。戻ってこないんだよ」 そして私は、少し考えてから付け加えた。やはり言っておこうと思ったのだ。 「死を選んだのは本人だ。お前が殺したわけじゃない」 私のこの言葉を取り違えると怖いなと思うが、今の息子がそうする恐れはほとんどないだろう。いや、たとえそうなったとしても、私は自分の息子に、自分の生きる道、進むべき方向を早く見つけて欲しかった。いつまでも死者にとらわれて欲しくない。 死を選んだのは本人だ。私の息子が殺したわけじゃない。 |
一足遅れて、堀内とその家族も蓑田家を辞したらしく、玄関前の道路でやりとりをしている私達のところにやってきた。 「すいません、うちの主人が・・・」 妻がさっそく謝った。 「いや、いいんです、いいんですよ」 堀内は私と似たような気持だったらしい。ただ、彼に従っていた堀内の妻は、少し私を睨んでいた。 「何もかも台無しにしてくれて」とでも言いたそうだった。 もっともだ。私も「何もかも台無しにしてしまった」と思っているのだ。 「これで、決裂ですね」と、堀内は笑い、タバコに火をつけた。 「申し訳ない」と、私は頭を下げた。 「いや、これで多分よかったんでしょう。決裂、でいいんですよ」 「そうでしょうか?」と、妻が言った。 妻の台詞に堀内は反応せず、しばらく何か考えていたようだったが、彼の口から出た言葉はまるで違った内容だった。 「そうだ、萩原さん、ちょっと一杯やっていきませんか」 「そうですね」 蓑田家の中がいま、どのような様子になっているのか気にならないではなかったが、今さら戻ってもどうにもならないだろう。あの玄関の内部は、静まり返っているのか、修羅場になっているのか。さっぱり想像が出来ない。ともあれ、「許す」のひとことを切望していた倉敷のおばさんには最悪の結果になってしまった。これで永遠にその言葉を聞くことはないに違いない。が、それも自業自得だ。自分の発言が原因なのだから。 「駅の周辺にそういうお店もあるでしょう」 堀内に促されて、我々2家族6人は、ゆっくりと動き始めた。 堀内が咥えていたタバコを地面に捨て、足で踏みつけた。 そのときだ。 いつ玄関から外にでてきていたのか、蓑田が我々の背中に叫んだ。 「ちょっと、待ってください」 「え?」 「あなた方はいったい毎日、何をしにここに来ていたのですか? 詫びる為ですか? 息子の冥福を祈るためですか?」 突然なにを言い出すのだろうと、私は不思議に思った。 我々は既に決裂している。何の目的で日参していたかなど、彼にはもはや関係ないはずだった。 「あなたは今、何を捨てました? 人の家の玄関先にタバコを捨てるなんて、所詮あなたがたの詫びや祈りの気持なんて、その程度の軽さだったんだと思い知りましたよ」 なるほど、捨て台詞を浴びせに来のか。で、たまたま堀内がタバコのポイ捨てをする現場を見てしまった。 ここぞとばかりにけちをつける。 ああ、この男もその程度のものだったんだと私は理解した。 「気にしなさんな」と、私は振り返ろうとする堀内に言った。 堀内は今しがた自分の捨てたタバコを拾い上げ、「申し訳ありませんでした」と蓑田に向かって頭をきちんと下げた。 私は複雑な思いがした。 人の家の玄関先にタバコを捨てるなど確かにけしからん行為である。だが、だからといって、それにかこつけて毎晩霊前に手を合わせに来ていたことまで否定しなくてもいいだろう。 こんな根性の親に育てられた子だったら、なるほど、いじめで自殺するよなと私は本気で考えた。いや、それ以前に、だからこそいじめられたんだよ、と言いたくなった。 頭を下げている堀内を、蓑田はなおも罵倒した。 「あんたみたいな親に育てられた子だから、いじめなんてするんだよ」 やれやれ。 |
私と堀内は妻と子をそれぞれ先に帰宅させ、駅周辺で適当な店を探した。 カラオケ主体のスナックや大型の居酒屋チェーンはあったが、いまいちしっくりこなかった。 何本かの通りを行ったりきたりして、ようやく我々の雰囲気にそぐいそうな一軒を見つけた。暖簾にも壁にも夜が染み付いていた。毎夜、多くのサラリーマンが、憩いのひと時を過ごしているのだろう。10席ばかりのカウンターだけの店で、割烹着を着たおかみさんが一人で店を切り盛りしている。かと思うと、高校生かと思われるような女の子が、買い物から戻ってきた。手にはコンビニエンスストアのビニールバック。中から取り出したのは氷だった。 こんな小さな店にある製氷機なんて、その能力もたかだかしれているのだろうなと思った。 中ジョッキのビールを飲みながら、壁に貼り付けられたメニューから何となくさばの煮つけと手作りコロッケを注文する。湯葉のポン酢という品書きが目に付き、それも追加した。 |
一足遅れて、堀内が注文したチューハイライムが差し出された。私は先に喉を潤していたが、あらためてジョッキの淵をカチンと合わせた。 「お疲れ様でした」 どちらともなく、声を掛け合う。 「転勤とは、タイミングが良かったですね」と、堀内。 「いや、上司に今回の事が漏れたらしくて、友人を自殺に追い込んだ子供の親だからと左遷されてしまいました」 「そうでしたか。いや、それはある意味お気の毒だが、ラッキーでしたよ」 「がっくりきてます、正直言って。これでも一応出世頭でしたから」 「なあに、仕事なんてどこで何をやったって食っていけます。親の仕事の都合と言う正当な理由で転校できることの方がよほど幸せだ。許してもくれない、心を開いてもくれない、そんな相手の親のところへ、毎夜毎夜詫びに通うなんてことをしてたら、子供達の心が歪んでしまいますよ。そのことの方が私は心配です。自分のやったことの責任を痛感するのは大切なことだとは思いますが、それも詫びの気持が相手に通じてこそです。人の心と心のふれあいだけが氷を溶かしてゆくんです。おっと、偉そうなことを言いましたね」 「いじめは良くないことです。けれど、どこにだって存在することも確かでしょう? いじめた方は責められ、自ら死を選んだ方は尊大な態度をとり続ける。納得いかないですよ」 「それはまあ、無理もない話だとは思いますけどね」 無理もないと言われて、そりゃあそうか、と私は思った。我が子に先立たれて平気でいられる親などいるまい。 「あの中の山中さんとは、子供が幼稚園の頃からのお付き合いでね。子供を通じて両親が知り合ったわけですが、親同士も友人関係を築いていたんです。で、今回のことでも何度も話し合っていたんですが、『うちの子は転校させることにしました』って言うと、裏切り者、逃げるのか、って罵倒されましたよ。それで、今までの人間関係もパーです」 「ほう、それはまた・・・」 「今までのこと全てを清算したつもりで、何もなかったような顔をして、普通に生きていくのかってね」 「過ぎてしまったことは仕方ないでしょう。何もなかったような顔もなにもない。前を向いていなければ生きていけない。私はそう思いますけどね」 「いや、山中さんは『言い過ぎました』と謝ってから、こう言ったんですよ。『あなた方家族が羨ましい』ってね」 「羨ましい?」 「不況でね。引越しの費用さえ出ないんだそうです」 「ああ、なるほど。あなたに対する妬みだったんですか」 「まあ妬みだったんでしょうけれど・・・・荻原さんは、随分とものをはっきりとお言いになる」 妻にもそのようなことを言われた事がある。が、思ったこと、感じたこと、気が付いたことは意思表明しておくべきだろう。黙っていても何も前に進まない。 「羨ましい反面、恐くもあります」 「あはは、私が恐いですか?」 「いえ、あなたのそういう生き様が、ね。随分と敵も多いでしょう。気が付いてはおられないと思いますが」 「関係ないですよ。人が私をどう思おうとね。自分を殺してまで人に合わせたり、人に好かれようとする、そのことの方が不思議です」 「お羨ましいです」 |
結局堀内は何を言いたかったのか良くわからなかった。あるいは、何でも良かったのかもしれない。だとすれば加害者の会の中の、いわばハズレ者同士、何らかの意識を共有したかっただけなのだろう。 |
帰宅すると、真人は既に入浴を終え、自室に戻っていた。あとは寝るだけ、という状態だろう。 妻は「堀内さん、なんだって?」と、話を向けてきた。 「ああ、別にたいしたことじゃない」と、私は答えた。 「こっちはそうじゃなかったわ」 「そうじゃなかったって言うと?」 「菊村さんから電話があったの」 「で、なんて?」 「あれから大変だったんですよ、って」 「だろうな。俺も口を滑らせてから『しまった』って思ったよ」 「振り出し以前に戻った、なんて言われたわ」 「そうか。だけど、今さらどうしようもないな」 「そちらは遠方へ行かれるからいいかもしれないが、補償問題も含めてこれから代表として話し合う立場にもなって欲しい。とも愚痴っていたわよ」 「うん」 ある部分、「もう知ったことか」という気持になりかけていた私だったが、そう言われると心が痛む。代表としては暗澹たる思いだろう。 「ちょっと、電話しておくよ」 「そうね」 |
私は菊村に電話をした。 かといって、私は蓑田君の父親に対する気持が変わったわけではない。菊村氏に申し訳ないと感じたからだ。 電話ではいくつかやり取りを交わしただけだが、「萩原さんの暴言については、そちらで詫びておいてくださいよ」ということになってしまった。 いまさら謝罪してもどうにもならないだろうとは思う。しかし、大人の判断として私は頭を下げに行こうと思う。それで菊村氏の気持ちが少しでも収まるのならそれでいい。 明日、私は昼間のうちに1人で行くことにした。夜になるとまた皆が集まってくる。それまでに形をつけておかなくては意味がない。 |