アスワンの王子
海岸の2 砂浜の村2







 小屋で見た地図を思い出しながら旅を続けるのは簡単だった。川沿いに下ればいい。川は幅も深さも大したことはなかった。川岸にもすぐ降りることが出来る。水は澄んでおり、飲料水には苦労しなかった。
 日が暮れかけた頃、一件の宿屋が目に入った。木材を組み合わせて作られた建物がいかにも旅の疲れを取り去ってくれそうだった。
(ここに泊まろうかな?)
 暖かい寝床、温かい食事、暖かい風呂。それらが恋しくなったのだ。考えれば、怪奇じみた冒険の旅が続き、まともな宿屋に泊まってはいなかった。
 思案していると、中から1人の男が出てきた。壮年と言うには少しくたびれていたが、初老にはまだ達していない。
「どうしたね、旅のお嬢さん」
 年齢にふさわしくなく、男の瞳はきらきらと青年のように輝いていた。視線が吸い込まれる。
「どうして、わたしが旅人だと?」
「見かけない顔は全て旅人だよ」と、男は言った。
「泊まりたいんですけど、ここは高いんですか?」
「高くはないよ。けれど、お嬢さんなら、ただでもいい。それどころか、お金を手にすることが出来るよ」
 キヒヒヒ、と奇妙な笑い方をする。
 そうか、ここは売春宿なのか。とっさに悟ったヨウシャは「わたし、プロなんです」と、まだ交換せずに手元に残しておいた売札を男に見せた。
「ほう。だが、ここは現金のみだ。何の許可もないただの旅の宿さ。女を世話することに関しては『もぐり』だ。だが、女は、旅の男には必要だ。わかるね」
 辛く厳しい行程には確かになぐさめが必要だとヨウシャは思った。
 ただし、それが女を抱くこととイコールなのかというと、ヨウシャは違うと思う。心を通わせる相手こそが必要なのだ。けれど、そういう相手のいない長く辛い一人旅だったら、どうだろうか? せめて夜のひとときを、うわべだけだとわかっていても肌を重ねる相手がいくばくかの湿り気をもたらせてくれるだろう。
「はい。わたしも旅をしていますから」
「ほう。旅の女にも男が必要か」
「はい」
「うん、いい子だ。では、泊めてあげよう。ただし、今日は客がおらん。だから、あんたも商売にはならんだろう」
「ずっと野宿でした。泊まれるだけで嬉しいです」
「よし、ようし、いい子だ。だが、男の客がいなければあんたがプロであろうともタダで泊めるわけにはいかん。あるいは、俺に抱かれるかね?」
「抱いて下さい」と、ヨウシャは言った。
 奇跡の鼠の下着が、ヨウシャの性感帯を攻め始めていたのだ。性欲が高まっている。性欲の程度を奇跡の鼠の下着は敏感に察知して、ヨウシャに刺激をくわえる。放っておけば究極のオナニーへと導かれるのだった。それぐらいなら、男と愛し合いたい。
「うん、お前は本当によい子だ。では、お入り」

 宿の主人のセックスは、旅の道中で体験したような怪奇じみたものではなく、普通でまともだった。恋人のアクアロスを思い出させた。
 だが、性技は絶妙だった。指と手によるしなやかな愛撫、ツボをはずさない舌使い。緩急わきまえた腰の振り方。
「すごい、すごいわ〜!」
 人間らしいノーマルなセックスが十分恍惚を引き出すことをヨウシャは知った。
「当たり前だ。大勢の売春婦を統括しているんだ。教育もしている。女の身体は隅から隅まで知っているよ」
 男は礼だと言って、膨れ上がった革袋を差し出した。なかにはたくさんの売札が入っていた。
「これをやろう」
「これ。。。どうして、こんなものを? ここにはないんじゃなかったの?」
「昔、旅の女がおいていったものだ」
「宿泊料の代わりに?」
「バカ言え。こんなもの俺が持っていてもお金に換えらるものか。ここまで旅してきて、死んだんだよ。荷物を整理していたら、これが出てきた。売春婦という感じでもなかったが、ここで寝泊まりするうちに、旅の目的も忘れてセックスに狂うようになった。やがて寝ることも食べることもなくなり、やつれた身体で、それでも男あさりをやめない。やがて衰弱して死んだ」
 ヨウシャは、あ、と思った。きっと、わたしと同じ目的で旅をしていたんだ。
「その女が持っていたお金は、宿代にもらったよ。ここで客を取って稼いだ金だ。だが、それまでにも、随分稼いでたんだなあ。こんなに売札を持っていた」
「死んだんですね」
「そう、死んだよ。アスワンの都へ行くと言っていたがなあ。いい女だった。旅の目的がなければ、嫁にしたかった。だが、どうせ男に狂って死なすぐらいなら、無理にでも旅をやめさせてここで俺の女にするんっだった」
「あなたは、結婚していないの?」
「売春宿の主が結婚してどうする。女達は少なからず俺に惚れているんだ。そして、誉められたい、気に入られたいと仕事に励む。だから、俺が結婚してしまえば、女達は出て行くよ」
「そんなものなのですか?」
「ああ、そうだ」
 男はヨウシャから身を離した。
「さあ、おまえも旅の身だ。早く休みなさい。明日はとびきり元気の出る朝食をご馳走しよう。食べたらすぐに旅に出るんだ。ぐずぐずしていてはいけない。なぜなら、お前さんには、以前ここでセックスに狂って死んでいった女と同じ匂いがする。ぼやぼやしていたら、お前もそうなってしまいそうな気がするんだよ」
「はい」
「ところで、おまえはどこに行くんだ?」
「はい、わたしもアスワンの都へ」
「そうか。ならば、少し下ったところにある橋を渡りなさい。ここは河の右岸だ。だが、アスワンの都へ行くには左岸に渡らなければならない。橋はこれが最後だ。だが、この先は川幅が急に広くなる。それは大海のごとしだ。もう泳いではわたれなくなる。わかったな」
「はい」
 どこか得体の知れない親父だと思っていたが、心根の優しい親切な男だった。もっともそれは、肌を重ねた瞬間に理解していたが。
「河を下って、あとは海岸にそって行けば、アスワンの都だ。だが、途中に恐ろしい村がある。見た目はただの砂浜だが、実は村だ。そして、そこは恐怖のどん底にある。気をつけるがいい」
「きょ、恐怖のどん底?」
「ああ、そうだ」
「それは、どんな?」
「知らん。人づてに聞いた話だ。信憑性はない。だが、気をつけなさい」
 それまで何となく陽気な表情を崩さなかった主人は、この時だけ暗い目をした。もしかしたら、親しい人がその村に出かけて、戻らなかったのかも知れないとヨウシャは思った。
「そうだ。あんたと一緒にいた猫、あれはあんたの猫か?」
 妙になつかれて、ただ付いてきているだけ、そう言おうとしたが、「連れていってあげる」と約束したことを思いだし、「そうです」と答えた。
「そうか。ならば、エサを与えておこう。猫はいい。猫はいいぞ。きっと恐怖のどん底から救ってくれる」
「ほ、本当?」
「いや、これも人づてに聞いた話だ。だが、嘘ではないらしい」

 朝、表に出てみると、ハックンは朝の陽射しを浴びながら、すやすやと眠っていた。とても穏やかな表情だった。
 そばには木をくりぬいて作った食器があった。エサを満タンにいれれば、ゆうに5回分くらいの量になりそうだ。
「ほお、たっぷり入れておいたのに、すっかり食べている。この猫はいい猫だ」
「ほら、起きて」
 ヨウシャが揺すると、ハックンはニャオンと鳴いて目を覚ました。すぐに寄り添い、頬をすりつけてくる。
「じゃあ、行ってきます。昨日はどうもありがとう」
「また帰りによりなさい」
 こうしてヨウシャは新たな旅に出た。

 道は河につかず離れず下流へとつながっていた。
 橋を渡ると、男が言ったとおり急に川幅が広くなった。
 大海のごとしは大げさではなく、半日も歩くと向こう岸が見えなくなった。
 土地は肥えているらしく、いくつもの小さな部落があり、畑があった。時々行き交う人とすれ違った。これまでの無人の荒野と違い、土地に根付いた生活があるようだった。部落が散在していて大きな集落がないのは、自然が厳しくないからだと思った。ヨウシャが住んでいたところでは人々がまさしく肌を寄せ合って助け合わないと暮らしていけない。
 ちょっと大きめの集落には、旅人を相手に商売する茶屋があった。
 売札交換所があったので、そこで換金をしてから茶屋に寄った。
 若い娘、といってもヨウシャよりいくつか年上らしいが、美しい女がヨウシャを迎えた。
「あなた、さっき売札交換所へ行ったでしょう?」
 どこで見ていたのだろう。
 女の口調がどこかきついように思えたので、身体を売る女を軽蔑しているのだとヨウシャは感じた。
「あなたには関係のない事よ」
「ふふ、ひとのことをとやかく言うつもりはないわ。でも、忠告。全部お金に換えた?」
「換えたわよ」
「ならいいわ。この先で身体を売るときは必ずお金をもらいなさい。無事売札をお金に出来るのはここが最後よ」
「え? どうして? きちんと登録して、売札で代金をもらわないと法に反するんでしょう?」
「売札の偽物が出回ってるの。だから、すべて犯罪者扱いよ。もっとも、売札が使えなくなったせいで、売春の秩序も何もなくなってしまって、危険なことになってるわ。だから、無事旅を続けたければ、身体を売るのもやめた方がいいわね」
「ありがとう、気をつけるわ」
 女の視線は、きついものから優しいものへと変わっていた。心配してくれていたのだ。
「ところで、どこへ行くの?」
「アスワンの、都」
「そう、なら遠回りになるけれど、この先の分かれ道で『焦りの田園』と書いてある方に行った方がいいわ。『砂浜の村』へ行ってはダメ。恐怖のどん底があるもの」
 また、恐怖のどん底、だ。
 砂浜の村とは、いったいどんなところだろう。
 しかし、迂回路があって安全に旅が出来るなら、それに越したことはない。
「どれくらい、遠回りになるの?」
「さあ。3倍とも30倍とも、あるいは300倍とも言われてるわ」
「え? はっきりしていないの?」
「そうよ。どこまで行っても果てしない田園風景。旅人はその風景に、ちっとも先へ進んでいないと焦るのよ。だから、『焦りの田園』と呼ばれているの。危険なところじゃないけれど、あまりにも同じ風景が続くものだからみんな頭がおかしくなって、そこを旅してきた人達は正確な日数を覚えていないのよ」
 ヨウシャには時間がない。とてもそんな悠長に構えていられない。
「でも、わたしにはこの子がいるから」と、ヨウシャは足もとで丸くなっているハックンを見ていった。
「ああ、猫ちゃんね。猫が恐怖から救ってくれるって言う人は確かにいるけれど、でも」
「でも?」
「信じていいのかどうか、本当のことは誰も知らないわ」
「それを言うなら、じゃあ、恐怖のどん底って何?」
「それは、恐怖のどん底よ。言葉の通りよ」
「あなたは、何か知っているの?」
「いいえ。何も知らないわ」
 本当は知っていて隠しているのか、それとも本当に知らないのか、ヨウシャには判断できなかった。
「でも、知っていたら、きっと怖くて何も言えないと思うの。この村に一人だけ砂浜の村から無事に戻ってきた人がいるけれど、口がきけなくなったのよ。身も心もズタズタで、顔をひきつらせながらただ『あうあう』と言うばかりよ」
 なるほど、そのことが「恐怖のどん底」伝説の源になっているのかとヨウシャは思った。
「ね、悪いことは言わないから、焦りの田園を通って行きなさい」
 ここで意見交換をしてもこれ以上の情報を手に入れることは出来ないだろう。そう思ったヨウシャは「はい、わかりました」と答えた。
 けれど、遠回りする気など毛頭なかった。
 思えばこれまでも奇跡のような出来事のおかげでいくつかの困難を乗り越えてきたのだ。そして、今回は猫のハックンがいる。なんとかなる。勇気を持てば、なんとかなる。
 ヨウシャは自分を励ました。
 どうせ放っておけば、セックスの虜になって朽ち果てて死んでしまう身体である。自分は生きるために旅に出たのだ。強い意志を持って。
 よし、なんとかなるぞ。

 この日の夜は野宿をした。野宿といっても、旅人のために儲けられた無人小屋を利用した。村落が点在するために旅人の往来もそこそこあり、扉を開けると5〜6人の男達がごろごろしていた。
「女はあっちだ。もっとも、輪姦されたければ、ここで寝ろよ」
 ぶっきらぼうに1人の男が言い放つと、下品な笑いが部屋中に満ちた。
 幸い性欲は感じなかった。昨日泊まった宿の主にたっぷりと可愛がってもらったおかげだった。まだその余韻でオナニーすることもできそうだ。それほど素晴らしいセックスだった。
 男が指さした方には細い廊下があり、両側に扉が並んでいた。
「空」と書かれた札が下がった扉を開ける。狭いながら個室だった。ヨウシャは札を裏返して中に入る。鍵などなかったが、どうやらこの中に男が進入して悪戯を仕掛けることはないようだった。ひとつのマナーである。
 ぐっすりと眠った。目が覚めて部屋を出る。大部屋にはもう誰もいなかった。小屋の外でハックンの鳴き声が聞こえた。
 小屋の外には石造りのかまどがあり、残り火がくすぶっていた。傍らの枝を突っ込んで燃えカスを集めると、パチパチと小さな炎があがる。そこに枝を放り込んで火を大きくし、お湯を沸かした。紅茶を作った。乾燥肉をかじりながら紅茶を飲む。身体の中に力が湧いてきた。ハックンにも乾燥肉を分け与える。その間に何人かの女が小屋を出てどこかに旅立っていった。なぜか声を掛け合わなかった。
 そうして、歩くこと半日。
 「これより先、砂浜の村」
 そう書かれた板きれが、路上に落ちていた。
 もともとはきちんと足が付けられ立っていた提示なのだろう。だが、誰もていれするものが無く、やがて文字が書かれた板きれが取り残されたに違いない。
 足もとが硬い土から、砂浜に変わろうとしていた。少し先にはきらきらと陽光を反射する大海原があった。一歩踏み出すと、途端に歩きにくくなった。砂に足を取られるのだ。
「ねえ、ハックン。とにかく波打ち際まで行きましょう」
「にゃおおん」
「恐怖のどん底があるんだって。守ってね」
「なあ〜」
 一歩、二歩。
 砂はどんどん深くなり、歩くのが困難だ。
 ヨイショッという感じで足をあげ、そしてゆっくり足をおろす。
 ズボッ、ズボッ。
 どれだけ慎重にゆっくり足をおろしても、砂に埋まってしまう。進めば進むほど、それは深くなる。
(こんなんで海岸までたどり着けるのかしら)
 ざっと目測して、あと100歩くらいの距離だ。
 ヨウシャはハックンを見てギョッとした。足がない。
 いや、足の全てが砂に呑まれて、地上にあるのは胴体と頭だけになっていたのだ。
 そして、自分も膝まで砂の中にいる。
「ふう、まいったな」
 ひとりごちて海を眺めると、妙だった。
 波打ち際がない。
 海面に波は立っている。だが、寄せては返す波打ち際が無く、海岸線は一定だった。ある場所を境にそれよりこっちへ波はやってこないし、それより向こう側の砂浜も見えることがない。 まるで堤防が儲けられたように、同じ場所で波は留まっていた。
 急に深くなっている場所があって、そこから先が海になっているのだろうか? 単に海岸線が傾斜していないだけなのだろうか?色々と想像は出来るけれど、気色が悪いことは確かだった。
 さらに一歩進むと、ズボーッと砂が大きな音を立てて、なんとヨウシャの腰まで埋まってしまった。
「きゃー! やだ! ナニヨコレー!」
 両手を突いて身体を引っぱり出そうとする。だが、突いた手がまた砂に埋もれる。
 ヨウシャは焦った。
 焦れば焦るほど、身体が深く潜っていく。
 腰まで埋まって止まったのではなく、抵抗が大きくなって沈む速度が極端に遅くなっただけだと気が付いた。もがけばもがくほど、身体は吸い込まれていく。
「いやああああー」
 叫ぶのと、引き返すことを決意するのが同時だった。だが、決意は少しばかり遅かったようだ。
 ゴボゴボと砂の奥に引きずり込まれながら、「恐怖のどん底」の「どん底」とは、砂浜の奥深くのことだったのかと思い当たった。
 胸の膨らみで一旦停止したもののそれも一瞬で、砂がどんどんわき上がってくる。 そう、もう砂の中に自分の身体が沈んでいくという感覚はない。砂が下からわき上がって自分を飲み込んでいくような錯覚に陥っていた。
 肩が、首が、顎が....。
 息が出来ない! 苦しい!
 恐怖に苦しみが伴ったとき、鼻がふさがっていることに気が付くた。
「ハックン!」
 叫んだ口の中に、砂がなだれ込んでくる。
 ハックンは無事なの?
 視界の隅に、ハックンが砂に飲み込まれる瞬間が写った。水面に小石を投げ込んだときのように、ポチャンといった感じでハックンが消えた。
 そして、ヨウシャは視界を完全に失った。

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