アスワンの王子
海岸の5 伝説に埋もれて2






 ヨウシャとハナウは、お互いの体を求め合う、熱いひと時を過ごした。
 ハナウはハアハアと肩で息をしながら、床に仰向けに寝転がる。土の冷んやりした感触が背中に触れて心地よかった。
 ヨウシャと身体をむさぼりあいながら、実はハナウは、ヨウシャの息遣いとは異なる何かを感じていた。いわゆる、人の気配、というやつだ。
 硬く、かつ、よくしなる植物で編み上げられた壁は、地底のため風雨に気を使う必要がないため、密閉状態ではない。そこここに隙間が開いていたため、ハナウはそこに誰かのいる気配を察知したのだった。それでも、そこに「誰がいるのか」まではわからない。
 それがわかったのは、彼女が壁に身を隠すのをやめ、部屋にそっと入ってきたからだ。彼女はどうやら、ヨウシャとハナウの行為が終わるを待っていたらしかった。
 「イーシャ!」と、ハナウが叫んだ。
 名前を呼ばれた長い髪の少女は、わずかに頬を震わせた。
 「ずっと、見ていたのか?」
 とがめるようなニュアンスを含んだハナウの言葉に、彼女はコクンと頷く。
 「最初、聞いたことのない声が聞こえました。なんだろうと思って覗くと、見たことのない女の人とハナウが交じっている。直感的に、見ちゃいけない、そんなふうに感じたわ。でも、目を離せなかったの」
 イーシャの告白に頷いたハナウは、次にヨウシャを見た。
 「かまわないわ」とでも言いたげなヨウシャの柔らかな笑みに、ハナウはホッとした。
 「なんか、すごかった」と、イーシャがつぶやいた。
 「うん、すごかった。俺たちは今までいったい何をしていたんだろうって考えさせられるよ。あんなに熱くて激しくて気持ちよかったのは初めてだ」
 「そうね」と、イーシャが言った。
 

 考えてみれば、不思議な関係だなとヨウシャは思った。さっきまでお互いの身体をむさぼりあっていたヨウシャとハナウ。しかし、このふたりは恋人でもなんでもない。いわば行きずりの関係である。一方、この二人の行為を見ていたイーシャは、ハナウのことを少なからず好いているようにヨウシャには思えた。
 (わたしだったら、嫉妬心のために、平穏な気持ちではいられないな。それとも、刺激を受けて自分も仲間に入り、3Pになるかしら)
 いずれにしても、もの陰からそっと見ているだけ、なんてことはヨウシャにはできそうもない。
 そして、おそらくは家主らしい老人。彼にはヨウシャとハナウが、今どうなっているのか、簡単に想像出来たろう。それをなるがままに放置しておいた。そして、それが終わるころになってノコノコやってきたのだ。
 「軽く何か食べよう。酒もある」と、老人は言った。
 「はい、お手伝いします」と、イーシャが立ち上がった。
 こうして小さな宴が始まった。
 ヨウシャは旅の途中で酒を口にすることもわずかながらにあったけれども、今日のように若干のつまみが用意されたのは初めてだった。それらを囲んで4人が座ると、なんともいえない懐かしい気分になる。優しい家族と団欒しているようでもあり、また、昔からの気のおけない友人が旧交を温めているようでもあった。
 「僕は」と、ハナウが言った。
 「ヨウシャとしたような熱くて深いセックスを、これからはしたい」
 老人がハナウをにらんだ。
 「ええ、わかってますよ。それが掟に反することはね。でも、こんな掟、間違っている。ただ、機械的にたくさんの女性と交わっても、心が通わない。でも、ヨウシャとのセックスは、心のそこから気持ちよかった」
 「はい。伝わってきました。見ていてドキドキしました」と、イーシャが言った。
 「出来れば、みんなにこんなセックスのあり方を伝えてあげたいとも思う」
 ハナウは恐る恐る老人を見た。
 「自分だけならともかく、周りを巻き込んで掟破りをするなどけしからん」
 今にもそう叫びそうな老人の険しい表情に、ヨウシャはぎくりとした。でも、ハナウの言っていることのほうが正しいとヨウシャには思えた。
 「事情を知らないよそ者だから言えるのかもしれないけれど、わたしもハナウが正しいと思うの」
 「うむ」と、老人は大きく頷いた。再び顔を上げたとき、老人の顔から険しさは消えていた。
 「わしらは、間違いを犯してきたのかもしれないなあ」
 「そんな、間違いなんてことはないと思います。そうしなければ、村は滅んでいたんですから」
 遠くを見つめるような目で、イーシャが言った。それは見ようとしても見えない、ただ思いをめぐらすことしか出来ない遥かな伝説に注がれた視線かもしれないとヨウシャは思った。
 「いいや、間違っていたのだよ。人が集まって村になる。村に人が集まってくるんじゃない。人の気持ちを無視した村なぞ、その存在そのものが滅んでいる。どうして今まで気が付かなかったのだろう…」
 老人はうなだれた。
 「どうしてこんなことになったの? なぜ、悪魔なんかと契約したの? どうして悪魔が神の使いなの?」
 お酒が回ってきたせいもあるのだろう。ヨウシャの想いが口から溢れて出た。

 「神と悪魔について、話してやろう」と、老人は言った。
 「悪魔が神の使いである、というのは、ここや周辺のいくつかの村の考え方であって、普遍なものではないんじゃよ。単に、実際に存在して手を下すものを悪魔といい、この世の絶対的なバランスのことを神と言っているに過ぎない。しかし、悪魔すらバランスの一部でしかない」
 「何を言ってるのか、よくわからないわ」と、ヨウシャ。
 「最後まで聞きなさい。そうすればわかる」
 圧倒的な迫力で言われて、ヨウシャはたじろいだ。その鬼気せまる表情はまさしく老人こそ悪魔のようだった。
 「はい、ごめんなさい」
 「いいかい? 神というのは実在する何かではない。大宇宙の法則、人智ではどうしよもない普遍のことじゃ。それに人は『神』という人格を与え、恐れ崇めたのじゃ。なぜか? 所詮、太刀打ちできぬものだからじゃ。
 しかし、『悪魔』なら、これに手を加えることができる。しかし、大宇宙の法則というのは、バランスの上に成り立っておる。手を加えると、どこかで反作用があるのじゃ。これを『悪魔に魂を売る』という。別に魂に限るわけじゃない。例えに過ぎん。この村の場合は、厄災から逃れることと、地底に沈められることが、交換条件、すなわちバランスだったんじゃよ。
 悪魔は人に何らかの恩恵をもたらす。けれど、それは恩恵だけじゃない。どこかでバランスが保たれる。神に逆らって一方的に何かを為すんじゃない。だから、悪魔は神の手先なのじゃ。
 だがな、『悪魔』すら神と同様、そのような存在など本当はありはしないのかもしれない。自然界、すなわち大宇宙の法則に逆らい、かつ、人智以上の力を行使するものを『悪魔』と言い習わしているに過ぎないんじゃよ。それに、わしらは悪魔と接見できぬ。これは魔師と呼ばれる特殊能力者にしかできん。ならばこう考えることも出来る。悪魔は存在しない。魔師が自ら持つ特殊能力を駆使して金を稼ぐために、悪魔という存在をでっち上げたのだ。とね」
 「本当は、どうなの?」と、容赦は訊いた。
 特殊能力、魔術、呪い、その他不可思議なこと。ヨウシャはこれまでに少なからずそれらにかかわってきている。それどころか、自分の運命だって翻弄されている。
 なにしろヨウシャは、自分に責任のない運命のために、そして放っておけば性奴と化し朽ち果ててしまう運命に立ち向かうために、こうして旅をしているのだから。
 「本当のことは何もわからん」と、老人は言った。「しかし、これだけは言える。神だの悪魔だのというのは、人が平穏に暮らすために作り出された概念でしかない。『悪魔に頼み事をするのは魂と引き換えだ』というのは、他力本願でことを進めようとする事への戒めじゃ。何事も自らの力で為さなければ、その代償はとてつもなく大きく、辛く、苦しいものになる。そういう教えなのじゃ」
 「でも、この村は悪魔に頼ってしまった?」
 ショックを受けたように、ハナウはつぶやき、そのまま口を閉ざすことが出来なかった。
 「先祖を恨んではならん。先祖が悪魔と契約しなければ、この村は未だにいつ訪れるともわからない自然災害と、それによる飢饉に怯えて暮らさねばならんかったはずじゃ。それが地底の村の苦悩に変わっただけじゃ。苦しさは何も変わらん。自らの力でこれからそれを立ち退かせればよい。先祖は我々になんの不利益ももたらしておらんぞ」

 ヨウシャはあてがわれた寝室で、明日からのことを考えていた。
 ハナウは、村の男たちをセックスをしてほしいと頼んできた。あの情熱的で気持ちのいいセックスを出来るだけたくさんの男たちに味合わせてあげたいというのだ。
 「いわばキミはセックスの伝道師、というわけだね」
 それでこの村を救えるのなら、そうしてあげたいとヨウシャは思う。けれど、自分には時間がない。セックスに溺れて性奴に成り果ててしまうまでに、アスワンの王子と肉体を交え、運命を解放しなくてはならないのだ。
 考え込んでいると、老人が助け舟を出してくれた。
 「無理を言ってはいかん。このお嬢さんは何かの目的を持って旅をしておられるのじゃ」
 「しかし、長老!」
 「運命は自ら切り拓け! それが神と悪魔の教えぞ!」
 老人は一括した。ハナウはうなだれた。
 (助かった)
 そうヨウシャは思った。けれど同時に、このままお世話になりっぱなしでいいのだろうか、とも思った。
 第一、旅立つためには、はぐれたままになっている白猫のハックンを探さなければならない。いっしょに行くと約束したのだ。おいていくわけにはいかない。
 さらに、どうやったら元に戻れるのか、そのことも教わらなくてはならない。
 地底の人々は、地底に落ち込んだ自分に食事や寝床を与えてくれた。何のお礼も為しに旅立つことなど出来なかった。
 明日、老人に相談しようとヨウシャは思った。ハナウは老人のことを「長老」と呼んでいた。きっと知恵のある人なのだろう。
 自分はなるべく早いうちに旅に出なくてはならない。けれど、それまでの短い間に、いったい何が出来るのか。あの長老なら、ヒントを与えてくれそうだった。

 ヨウシャは目覚めると、リビングに赴いた。老人は胡座をかいて座り、ゆったりと茶を飲んでいた。カップからは湯気がほんのりと浮かび、空気中を漂い、やがて消えていく。
 ヨウシャは老人の前に背筋を伸ばして座った。
 「お願いがあります」
 「うむ。言うてみなさい」
 ヨウシャは説明をした。
 老人は「わかった」といった。ハックンはすぐに見つかるだろうとのことだった。村人総出で探すと約束してくれた。地底からの脱出方法も教えてくれることになった。
 「そのかわり」と、老人は言った。
 「そのかわり?」
 「村の男すべてとは言わん。せめて、10人。若い男たちと寝てやってくれないか。彼らに、セックスの悦びを教えてやって欲しいんじゃ。ハナウの話を聞いて、わしは、儀式として掟の中でセックスをさせるのは、不憫に思えてきたのじゃ」
 10人。おそらく、二日か三日。それくらいなら、大丈夫だろうとヨウシャは思った。
 「そして、もうひとつ。旅のお嬢さん、あんたは妊娠しておる。ここで子供を産んでいってくだされ」
 「え?」
 ヨウシャは耳を疑った。
 「今、なん、て?」
 「妊娠しておるといった。聞こえなかったか?」
 に、妊娠? ヨウシャは蒼くなった。冗談じゃないと思った。これまでヨウシャは、妊婦の絶対的な心得ともいえる「自分をいたわる」などという行為から無縁の旅を続けてきた。これからもきっとハードな道程が続くに違いない。
 妊娠、それはイコール旅の終焉を意味していた。
 「そ、そんな……」
 「大丈夫じゃ。ここで生んでいったらいい」
 老人はこともなげに言うが、ここで生むということは280日もの間、滞在することになる。そんなに長い間一ヶ所にとどまっていれば、きっとヨウシャは運命に飲み込まれてしまうだろう。
 だけど、と、ヨウシャは思う。子供を無事産まずに、性奴になりはてて朽ちてしまうということは、このお腹の中にいる子供まで道連れにすることを意味する。それはできない。ならば、耐え忍ぶしかないのか?
 「安心すればいい。ここは安らかな場所じゃ。ベテランの産婆もおる。すべて任せておきなさい。そして、無事子供を産んだあとは、旅を続ければいい。生まれた赤子は誰の子でもない、この村の子として我々が育てよう。もちろん、会いたくなったらいつでも訪ねてくればいい。この村はお嬢さんの訪問を歓迎するぞ」
 ヨウシャは、自分の運命について老人に説明することにした。
 何もかもを打ち明ければ、きっとこの老人は最良の道を指し示してくれるに違いない。ヨウシャは、いつのまにかこの老人に対して絶対的な信頼を寄せていることに気がついた。

 全てを聞いた老人は、しばらく考え込んだ。手元のカップの中身を飲み干したあとも、じっとその底を見つめていた。もはやカップには何も入っていないはずだ。だが、老人にしか見えない何かがそこにはあるかのようだった。
 「ひとつだけ方法はあるが。。。」と、やがて老人はつぶやいた。
 陰鬱な表情でボソリと言う老人に、ヨウシャはもはやかける言葉をもたなかった。
 「そなたの赤子を、そう、イーシャのお腹に移そう。そして、ハナウとイーシャの子供として育てるのじゃ」
 まだお腹の中にいる赤ちゃんを、別の女性のお腹に移す。そんなことが出来るのだろうか。ヨウシャは驚愕した。そしてまた、赤子に危険はないのだろうかという不安も生まれた。
 「そんなことが。。。?」
 「いささかしんどいが、何とかやってみよう。お嬢さんは、そのあと旅を続ければいい」
 老人はもはや多くを語らなかった。

 老人は準備に入るからと、後のことをハナウに任せた。ヨウシャがするべきことは、ハナウが連れて来た村の若い男たちと、次から次へと濃いセックスをすることだけだった。3日間かかって15人の男たちとセックスをした。その様子は女たちも見学にきた。ヨウシャの熱く激しく執拗な指づかいや舌づかいは、見ているだけの女たちも興奮させた。女たちはたまらなくなって、自分がもっとも好意を持っている男のところへ赴き、儀式ではないセックスに興じた。その間にハックンは無事保護された。
 老人の準備が整い、ヨウシャははじめてこの村に落っこちてきたときに気を失っていた場所につれてこられた。周りの地面から一段高くなった台には、既にイーシャが横たわっていた。傍らには3日ぶりに見る老人がいた。最後に見た老人と比べて随分と憔悴した様子が見てとれる。
 「薬草で眠っているだけだから、心配は要らないよ。キミもこの薬を飲むといい。夢の中に遊んでいるうちに全ては終わるからね。恐怖も何もない」
 老人の横で静かに立っている中年男が言った。優しい声だった。それは、子守唄代わりに幼児に聞かせる昔話を語っているかのような口調だった。
 ヨウシャは中年男からカップを手渡された。ドロリとした緑色の液体が入っていた。
 飲み干すと、たちまち意識がなくなった。


 ヨウシャは地上に戻ってきた。
 白猫のハックンは、ヨウシャから少し離れたところで、全身をぶるぶると震わせている。地底湖を脱出してきたので、ずぶ濡れなのだ。身体を震わせて毛についた雫を跳ね飛ばそうとしているのだった。ヨウシャは思い切って裸になった。太陽は海岸線をカッと照らしつけている。砂浜に干しておけば、あっという間に乾くだろう。
 ヨウシャは砂浜にひざを抱えて座り、どれくらいの遠さかわからないほどの向こうに横たわる水平線とすぐそばで現実感タップリにはしゃいでいるハックンを交互に見比べながら、地底での出来事を思い出していた。涙が出た。あの老人は既にこの世の人ではないことが理解できた。死を確認したわけではなかったけれど、命のともし火が消えたことが理解できた。

 赤子をヨウシャの身体からイーシャに移す施術は、二人が眠っている間に終わっていた。ほぼ二人は同時に目を覚ました。
 「不思議ね、このお腹には、もう赤ちゃんがいるのね」と、イーシャが言った。
 「ごめんね。わたしの運命のために、結局あなたがわたしの赤ちゃんを背負うことになってしまって」
 「ううん。長老は間違いなく『ハナウ』の赤ちゃんだって言った。だったら、わたし、育てるわ」
 「あ、そういえば、長老、は?」
 「長老は、施術を終えて、姿が見えなくなりました」と、最初から老人の横に静かに佇んでいた中年男が答えた。
 「そう」
 わけもなく、ヨウシャは悲しい気持ちになった。理由はわからなかった。
 その後、ヨウシャはハナウに導かれて、地底湖のほとりに連れて行かれた。馬とも豚ともつかない不思議な動物の背中に揺られて、3時間ほどの工程だった。ハナウはこの動物を「ライガー」と言った。種の名前なのか固有名詞なのかはわからなかった。湖のほとりには、ハックンが待っていた。ヨウシャの姿を見つけると、ぴょんぴょんと跳ねて悦びを表現した。
 ライガーを水際で降りて、湖のほとりに立つ。湖は洞窟の奥深くに広々と水をたたえていた。本当は「洞窟の奥」ではなく、こここそが地上と洞窟を結ぶ唯一の場所、「入り口」なのだ。手を浸すと切れそうなほど澄んだ湖水は神秘的で、この先に現実世界である「地上」があるとは思えなかった。
 湖は先に進むほど洞窟の天井が低くなっており、やがて水に没している。つまり、潜らなくては先へ進むことが出来ない。しかし湖畔からでは、どの程度の深さに潜り、どれくらい泳げば再び「空気のある世界」が開けるのか、窺い知ることは出来なかった。
 「先へ先へと進むのね?」と、ヨウシャはハナウに問うた。
 「そうだ」と、ハナウは答えた。
 「わかったわ」
 覚悟を決めるより他になかった。旅立ちを決意して赤ちゃんをイーシャに移す施術を施してもらい、ハックンまで捜索してもらった。ここで尻込みするわけには行かない。第一、ここでじっとしていたのでは性奴となって果ててしまう。それぐらいなら、湖に挑戦しよう。ここで果てるのなら、湖で果てても同じだ。いや、きっと泳ぎきってみせる。
 決意を固めたとき、ハックンが鳴いた。いつものような甘える声ではない。はっきりと響く泣き声は、何者かに向かって叫んでいるようだった。
 ハックンの声に呼応したように、静まり返っていた湖面がざわめいた。聞きなれない音がこだました。俗に「地鳴り」などというけれど、この時ヨウシャが耳にしたのはまさしく「水鳴り」だった。
 水鳴りは徐々に密度を増して耳に届くようになり、やがて湖面がぷくりと膨れ上がり、そこには巨大なくらげが現れた。
 くらげの頭はちょうど雨の日に差す傘くらいの大きさだった。ヨウシャもハナウも目を丸くした。
 「こ、こんなくらげが、この湖にいたなんて。。。」
 ハナウはあっけにとられている。
 「もしかしたら、他にも水棲動物がいるかもしれない。魚も採れるかもしれない」などとぶつぶつつぶやく。
 白猫のハックンは、ぴょんと、くらげの頭に飛び乗り、そして、傘の下にもぐりこんだ。
 (そうか!)
 ヨウシャは気づいた。くらげの傘の下にもぐりこめば、そこにある空気を吸うことが出来る。呼吸が出来る。そうして湖を泳ぎきればいいのだ。
 そういえば、と、ヨウシャは思い出す。この村にくる途中、「海岸の村は恐怖のどん底だが、白猫がいれば救われる」という噂を聞いたことを。きっと白猫は、くらげを呼んだり、意識を通わせたりすることが出来るんだ。
 にゃにゃん、にゃにゃん。
 ハックンはヨウシャに向かって鳴いた。早く来いと言わんばかりだ。
 「さよなら。短い間だったけれど、ありがとう」
 ヨウシャはハナウにそう言うと、湖に飛び込んだ。そして、くらげの傘の下まで泳いだ。くらげはヨウシャとハックンを自らの傘の下で保護しながら、ゆっくりと湖に身を静めていった。ハナウはヨウシャが完全に湖面の下へ潜るまで、手を振っていてくれた。
 くらげの傘の下の空気を吸いながらどれくらい湖の中を進んだだろうか。くらげが浮上するままに従い、ヨウシャとハックンは再び湖面に顔を出した。そこは、地上から穿たれた大きな竪穴の底だった。不完全ではあるけれども湖面から地上へは階段状の細い道が設けられていた。階段と言うよりも、長い年月を通じて人に踏み固められ、階段状になっただけだろう。段差は不規則で、崩れかかっているところもある。おそらく時々は地上からこのルートを辿って湖面にやってくる人がいるのだろう。その目的が水浴びなのか釣りなのか、ヨウシャには知る由もない。
 地上に出たヨウシャは、おそらく既に他界しているであろう老人のことを考えた。

 悪魔と取引をした魔師とは、あの老人その人に違いない、とヨウシャは感じている。
 そして、海岸の村は、安寧と引き換えに、地下に沈められた。そこで老人が悟ったのは、世界の大真理、宇宙のおおいなるバランスだった。「結局、何も変わらなかったんだ」と。
 悪魔との取引の代償は大きかった。
 老人は後悔したであろう。二度とそのようなことはしないと誓ったりもしたであろう。にもかかわらず、老人は再び悪魔と契約をした。ヨウシャを再び旅立たせるために。ヨウシャのお腹の子を、イーシャへと移すために。自らの命を代償として。
 ヨウシャが目覚めたとき老人がそばにいなかったことも、後のことをハナウに任せて見送りに来てくれなかったことも、これで説明がつく。もはや老人はこの世に存在しないのだ。
 老人が自らの魂と引き換えに悪魔と契約したのか、それとも、「悪魔の存在」などなく、実は老人こそが特殊能力者で、全ての力を使いきってその能力を行使したのか、ヨウシャにはわからない。
 わかっているのは、老人が自らの命と引き換えに、ヨウシャの命の幸を願ってくれたことだけだ。
 太陽の日にさらされてすっかり乾いた衣服を身に着けると、ヨウシャは前方をしっかりと見据えた。
 「行くわよ、ハックン」

 

 
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