Boy Meets Girl
「side TACT」

6.邂逅
 
 下卑たネオンを潜り、薄暗いスタンドバーに紛れ込む。こんなところまでVIP扱いをされるのはゴメンだ。僕はバーテンに震える声でカクテルを頼む。

 ドライマティーニは、大好きなムービースターの好んだ銘柄だった。アルコールなんか口にしたことがない癖に、背伸びをするのは危険だ。そう知ったのは、グラスを一気 に飲み干した後だ。後悔と引き換えに今、焼け爛れる喉越しを味わっている。

「あンた、お酒初めて?」
 僕の肩を叩いて腰をおろしたのは、さっぱりとした ショートボブの女の子だった。
「未成年だから。アルコールはこの"オリジナル"では 初めてだ」
 小声で彼女に返事した。
「オリジナルかぁ……さすがレプリカのお客サマは違うね」
「え?なに?」一瞬ドキリとして彼女を見つめた。
「僕をヴィジターって知ってるの?」
「えぇ……こないだモニターで流れてた」
 彼女は、細いシガレに(二十世紀まで流行していた嗜好品。旧日本では煙草と表記されていた)火をつけながら、
「いつものジンバック頂戴!」とだけ叫んだ。
 どこの席も、我こそはと言わんばかりにデカい声で喋るから、妙な遠慮をするとオーダーが通らないのだ。

「モニター?」僕は繰り返す。
「うん、オリジナル滞在一週間のお客サマだって聞いた」
 彼女はグラスを受け取り僕のグラスにカチリとあてる。
「あたしはキリエ。あンたは?」
「僕はタクト。クラシックなんかで指揮者が振ってる、あの指揮棒と同じ名前」
「ゴメン、あたし、古典音楽って詳しくないんだ……」
 微笑みながら視線を彷徨わせる彼女はキリエ。ゆらゆらと揺れながらシガレの煙を吐き出している。

 酔いのせいだと思った。普段なら見知らぬ人と、会話なんてできないのに。まして、出会ったばかりの女の子と。
 人見知りの激しい僕が、酒の力でだんだんとその場になじみ、やがて大声で笑いながら、キリエとたわいない会話を続けていた。
「おかしいなぁ、キミって。 なんだか初めて会った気がしないんだよ」
 僕はカリカリに焼けたピザに、ぱくつきながら涙を流す。楽しい時に流れる涙は、とても良いと先生から聞いたことがある。そう、涙は悲しい時だけのものじゃないと。僕はキリエとの会話が楽しい。いや、初めて会った女の子がキリエでよかったと思う。彼女はレプリカの僕をVIP扱いはしない。

「おかしいのはタクトのほうだよ。好きなヒトと抱き合うことは普通のコトなの。オリジナルでは。ううん、昔から恋や愛情の証なのに。タクトはないの?」
 キリエが僕の肩を叩きながら足を組替える。スカートの裾から伸びた足の白さ。陽にあたらない内側がちらっと見えた時、いいようのない焦燥感に駆られた。早鐘のような動悸…… 僕の心臓は検査で合格したはずなのに?

「ねぇ、ひょっとして、タクトってしたことないの?」
「したことないって? なにを?」
「セックスよ」
 彼女が発したその言葉は、レプリカで聞くそれよりも艶かしさを感じた。
「それって……」僕は唐突な話の流れに口ごもった。
「あちらじゃ、セクスって辞書に載ってるかもよ? 知らないの?」
「いや、知ってるけど、僕は……経験したコトが……ない」

 予想外の水溜りのようで惨めだった。あの日常で女の子と直接会うこともなければ、抱きたいという感情が起こることも僕の体には無縁だった。少なくとも感情の部分では起こりえない。
「ふぅん……」
 彼女はゆらゆらと、体を揺すりながらシガレを吸っている。その唇から漏れる煙は、僕を包みながら天井に昇っていく。

 そこで会話はプツンと途絶えた。 どちらともなくミュートしたまま。ただ、キリエの揺らすグラスの氷だけが、僕らを繋ぎとめた。

 キリエは僕を、幼稚な男だと思ってるのだろう。見た目は大人同様だが、ココロは未発達なことを。恋も愛情も、ましてや愛しさの訳すら知らないまま生きてきたことを。少なくとも「好きなヒト」すらいない事実を。僕は昂揚感から引きずり下ろされるまま、恥じるだけだった。

 コトン。
 グラスをカウンターに置く音が耳に入った。
 沈黙を破ったのはキリエだった。
「タクト、おいで」

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