Boy Meets Girl |
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あとがき | |
BMG-boy meets girl- あとがき…のようなもの 2002年1月より3ヶ月の間、ご贔屓頂きありがとうゴザイマス。 タクトとキリエのかくも短いロマンスは、いつの間にか過ぎ去っていく「思春期」を匂わせながら、わたしの中で発酵していました。 それまで、短い散文形式のものなら書いたことはありましたが、物語と意識して構築した初めての作品でもありました。 なんだってそうだと思うんですが…走り出す勇気もさることながら、走り続ける勇気、そして完走しきる勇気…って結構大変なことなんだなぁって改めて実感した次第です。 一冊の本が、読む人によって、そして、その年代によって幾通りもの答えがあるように。 「BMG」も色んな読み方が可能かと思われます。タクトとキリエの二人の視点から物語は「同時間経緯」で書かれていますが(ただし、9・記憶は除く) ■タクト→キリエ→タクト…とリピートしたり ■タクト→キリエと交互に一話ずつ、あるいは ■キリエだけ。タクトだけでも可能。 こうして書きあがってみると、意外にこのメビウス構造は、物語のテーマ(双子・二つの地球・オリジナルとレプリカなど)を包括しているようにも思いました。 わたしの書くロマンスの殆どの根底にあるのが 終わってもそれは嘘ではない ということです。 たとえば、死はその体においての終焉を意味します。しかし、そこに宿る魂までも途絶える訳ではありません。(極論ではありますが) ひょっとして、目に見えるものだけが真実ではないんじゃないか? それこそが、わたしの求めるアンバランスな幸せの形なのではないだろうか? 死を神聖化してる訳ではありません。 短かったけれども、タクトは知りたかった「ラヴとセクス」をキリエから感じ、キリエもまた(タクトの知らない秘密を負ってしまったけれど)「義務ではないセックス」をタクトから感じたのではないでしょうか? もう、味わうことのできない「思春期への郷愁」を二人に感じると同時に。惹かれあうのに時間も距離も無きに等しいことを思わずにはいられません。 恋はするものではなくて落ちるもの だという名言は、誰のものだったでしょうか? こうして完結した今では、反省も多々あります。例えばタクトとクラスメイトの会話であるとか、キリエの周辺の旧地球の生活など…書き込むところはもっとあったのではないか? ということです。 いつか…そう遠くない未来。今と違った形でタクトとキリエの明日を書いてみたいなぁ…とも思います。 ちなみに「キリエ編」では意図的な表記がしてあります。(十五歳→十五才) 実際漢字でしゃべる訳じゃないのですが、キリエがあまり学校に行ってないこと、そして年齢の若さをイメージさせる為に、意図的に表記しましたことを付け加えておきます。 おそらく、作者の意図と読者の意図のズレから生じる「ハプニング」こそが何より面白いのだろうから。そんな誤解の生まれることすら、書くわたしには大きな楽しみだったり致します。あぁ…無責任とは言わないで(笑) 読んで…その胸に残った思いこそが、なによりの真実だと思いませんか? 常に「感じること」が大事だとわたしは思っています。きっとそれこそが読書の醍醐味じゃないだろうか? とさえも(オオゲサ) ふらりと。 街角の本屋さんを覗くように。多少お暇のある方、気長なお方(笑)今少しお付き合いくださるとサイワイにございます。 飲みすぎたせいか、少々おしゃべりが過ぎたようです。おや、新しい招待状がきたようですね…次の興行は…? ピチカートファイブ 「美しい星」を聴きながら。 2002年3月吉日 遠井 未遥 |