「う〜。キツイキツイ。本当にきついわよ。この取材スケジュールって、いったい……」 あたしはほとんど寝ていない。寝ていないけれど、朝、7時集合である。なにしろ、中学校の林間学校の同行取材なのだ。 「ほら。しっかり!」 キツネがカメラ収納用の銀箱を渡してくれる。中身がギッシリ詰まっているわけではないが、徹夜明けのこの身にはきつい。カメラバックそのものが重いのだ。 「じゃ、頼んだよ。俺は帰って寝るから」 「……の、やろ〜」 キツネの後姿を睨みつけたところで、声がかかった。先生のうちの1人だ。中年というには早いが、いわゆる若手の先生というわけでもない。それなりの教師経験は積んでいそうで、しっかりとした信念の持ち主ではないかと見受けられるのだが、あたしの眼力なんて怪しいものだ。今回の林間学校は、新1年生のオリエンテーション合宿でもあるわけだが、どこかのクラスを担当するわけでもなく、かといって全体を統括しているわけでもない。いわば、あたしのような半端ものの相手役といったところか。彼よりもずっと若い、どちらかというと着任したばかりで頼りなさそうな教師が生徒にあれこれ指示しているのだから、案外この男、誰からも頼りにされていないのかもしれない。 「ええと、助手の水方さんでしたね」 誰のことかと思ったが、あたしのことである。見事に偽名だ。いったいわたしゃ、いくつの名前を持つことになるのやら。 「はい。おはようございます」 確か、山本先生といった。取材先ではターゲットの名前を一度聞いたら忘れちゃならんのは鉄則である。 「1号車へどうぞ」 「あ、はい、ありがとうございます」 あたしの役どころは、カメラマンの助手である。こういった学校行事には、行事中のスナップ写真や記念写真を撮るため、写真屋が同行する。普通は1人だが、機材などを積み込んで自分の車で移動するため、バス車中などのスナップはない。そこで、あたしが助手として同行し、アシスタントとして走り回るほか、本来の写真屋ではカバーしきれない部分をフォローするのだ。 ……という建前である。学校は閉鎖的な場所だから、雑誌の取材なんぞ認めてくれない。そこで、「きめ細かいサービスをするには助手は不可欠なんですよ。もちろん料金は従来どおり。割り増しは一切いただきません」という理屈をつけて、学校側に助手の同行を認めさせたのだ。 本来の写真屋にはもちろん事情を話してある。袖の下を渡して、あたしを助手として同行させるかわりに、取材であることは学校側には一切言わないでくれと頼み込んだ。 これだけの下準備の末、あたしはいよいよ学校現場に乗り込んだ、というわけだ。 |
あたしがヘロヘロなのは、別に下準備が忙しかったからではない。こういったこまごましたことは編集部でしてくれる。ならばなぜ昨夜ほとんど寝ていないかというと、乱交喫茶の取材だったからである。 キツネと一緒に例のマスターの店を訪ね、一晩中エッチしまくり。 相手がキツネだけなら、たいしたことはない。お互いの身体も性癖も隅々まで知り抜いている。体力温存のための手抜きだって、たとえ見物人がいたとしても、それと見破られることは無いだろう。 けど、「乱交喫茶」である。キツネだけとセックスして、それで終りというわけにはいかない。 その場限りのお相手は、もちろんあたしの事情など知らない。それに、自分で言うのもなんだけれど、あたしはそこそこイイオンナだから、みんな夢中になってくる。しかもそれなりのテクニシャンとくるから、あたしもついついその気になって、気合が入ってしまった。 そう、みんなそれなりにテクニシャンなのだ。 あたしだって相当遊んでいるけれど、なかなかこれだけの相手にはお目にかかれない。 しかも、セックスパートナーは次から次へとチェンジしていくし、その都度、のめりこんじゃわないとどうにもならない状況で、そりゃあもうバテますって。 アソコがまだ乾かないうちに、つい先日までは小学生で、セックスなんて授業で習ったことしか知らないよていうおぼこい連中と同じバスに乗るってんだから、ちょっとは罪悪感というか違和感があるんだけれど、それはまた別の話。 あたしはバスの中で半ば目を閉じながらまぶしい朝日を避け、そして、昨夜のセックスについて思い返していた。 何人かと連続で相手したあと、あたしは軽いアルコールを飲みながら、常連客の1人と少し会話する機会を得た。そこで、疑問をぶつけたのだ。 「みなさん、すごいテクニシャンですよね。これだけ女を楽しませる技巧を持ってたら、こんなとこに来なくったって、女の人に不自由しないんじゃないですか?」と。 「梓さんだって、すごかったですよ」 「ん、まあね……そうかもしれないけど、……ちょっとは自信はあるんですけどね」 「なまじテクニックがあるから、特定の相手とだけでは楽しめない。そうじゃないんですか?」 いや、そんなことはないです。あたしは確かにちょっと淫乱というか、すぐ寝ちゃう女ですけど、技巧を楽しむというのはキツネだけで満たされています。ちょっと気に入った男とは寝てみたいと思うけれど、別にセックスのためのセックスがしたいわけじゃなくて……。 なんてこと、こんなところに来て、言えるわけが無かった。 困った末、「自分では気がつかなかったけれど、そうなのかもしれませんね」と返事した。 特定のパートナーとのセックスを、日々を重ねることに寄ってそれぞれの好むスタイルへと昇華させていくのと違い、乱交パーティはその場限りの戯れだ。 だから、腕を磨かないと、何度か通ってくるうち、誰も相手にしてくれなくなる。 一方、テクニックを労すれば労するほど、とんでもない技術を身に付けた女性が寄って来るようになる。最高の快感を味わうことができる。 その男は、そんな風に解説をしてくれた。 「そこまでしないと、ダメなんですか?」 「……そうですよ……」 なぜ乱交喫茶でテクニックが必要なのかを語ってくれた男は、それまでの流暢な語りから一変して、言葉が途切れ途切れになった。 「……みんな、努力、してるんです……」 男は飲みかけのグラスを脇に押しやり、コーヒーを注文し、タバコに火をつけた。そして、コーヒーが出されると、ミルクも砂糖も入れずに、受け取ったカップをそのまま唇のへりに押し当てた。 「あなたは、どうやってこの男を快感の虜にしてやろうとか、自分の技術を見せ付けてやろうとか、そういうことは考えないんですね」 「え、ええ、まあ」 どう答えていいかわからなかった。 男の質問の意図が読めなかったのだ。 「どうせセックス好きですから、夢中になってやってるだけですし」 「…そうですか……。僕は、そういう人は、こういうところに来ちゃ、……いけないと思うんですよ……」 「え? は?」 セックスが好きで、夢中になってやるだけ。どうしてそういう人が乱交喫茶に来てはいけないのか。わたしにはさっぱりわからなかった。ポカンとしてると、男が教えてくれた。それはとても悲しい話だった。 |
努力をしなくても、物事をスムーズに運ぶことができる人。いわゆる、器用な人、要領のいい人、頭のいい人、IQの高い人、そういう人はどこの分野にもいる。 とても叶わない。 特に仕事をしているとそう感じることがある。男はそう言った。 例えばキーボード入力。ブラインドタッチで流れるように入力できる人の手元からは、軽快なタッチ音が事務所中に響く。その人は別に自分の技術を見せびらかそうと思ってやっているのではない。普通に仕事をしているだけである。 しかし、キーボードを見ながら、そして時々画面を確かめながら、しかも左右それぞれの人差し指でしか入力できない人のタッチ音は明らかに違う。それだけで、「できない奴」ということになる。 思えば、学校時代から色々なことで差をつけられて来た。運動もそう、勉強もそう、人への気配りや思いやりも、そう。 いつしか、できる奴、できない奴のレッテルを貼られ、それが年月とともに顕著化していく。 最初は簡単な音符をリコーダーやハーモニカで追えるか追えないかだったのが、いずれピアノ伴奏の役割を与えられるか、トライアングルをチンと鳴らすだけの立場になるのか別れてしまう。 「僕なんて、いつ、何をやっても、いわばトライアングルでチン、な男なわけですよ」 何のとりえも無い。ひとつも他人と比べて秀でたものがない。いつも烏合の衆の1人。女にだって、もてない。セックスしようとすれば、こういうところに来るしかない。 「ここだって、世の中と何もかわらないですけどね。でも、世間と違うところは、セックスの相手に不自由しない人は、こういうところに来る必要がないということですよ。もし乱交のようなことがしたければ、自分でパーティーを主宰すれば済みますしね」 とはいえ、あなただって、ここでやっていくために、セックスの腕を磨いて、それなりになったんでしょう? あたしはそう訊いた。 「セックスと、走り幅跳びは違いますから」 トライアングルの次は走り幅跳びか。最初、その例の意味がわからなかったが、ようするにこういうことらしい。 走り幅跳びには、歴然とその飛距離が結果として残り、その結果によって評価される。しかし、セックスはそうではない。多少不器用でも、多少他人より時間がかかっても、行き着くところに行き着きさえすれば、それは誠意として通じるし、また人それぞれの個性となって認められる。しかし、走り幅跳びは、最初の着地点が全てであって、もう一歩先が認められるわけでも、やり直しが訊くわけでもない。 「だけど、マラソン大会とか、1番最後まで諦めずに走ってきた子が、拍手で迎えられたりするじゃないですか?」 「それは、がんばりが認められただけですよ。拍手で迎えてくれる連中は、ビリの子より先にゴールしている。『おまえはダメな奴なのに、よくがんばった』ってね。拍手で迎えてもらったって、表彰台には立てませんしね」 よくまあここまで卑屈になれたものだと思うが、一度自分が「なにをやってもダメなやつ」と思ってしまえば、こんなもんかもしれない。 あたしだって、OLをしてればきっと似たようなものだ。 たまたまライター業につくことができたから、「これはあたしでなくては書けない」なんて自負を持てるのかもしれない。 もちろん、それだって「あたしの文才は世界一」だなんてことはこれっぽちも思っちゃいない。「こういう切り口で勝負できるのはあたしだけ」という部分だけが、あたしの自信を支えている。昔のはやり歌にもあった。「ナンバーワンじゃなくて、オンリーワン」っていうフレーズ。 乱交喫茶に来る連中は、セックスの世界でだけは、「オンリーワン」になれるのかもしれない。そもそもセックスにナンバーワンだなんて、意味ないもんね。1番長持ちしたから、1番早くイカせたから、1番デカイから、1番濡れるから……そんなこと、セックスの濃さには何の関係もない。 あたしは「ごめんなさい」と、その男性に言った。「楽しみに来られたでしょうに、つまらない会話に付き合わせてしまって、気分を害されたでしょ?」 「いえ、気にしないでください。でも、そういう心遣いができることなんかにも、僕は嫉妬してしまうんですよ。ずっと気配りが足らないって言われてきましたから」 男は寂しそうに笑って、それからあたしを抱きしめた。最初はそっと、そして、少しずつ、きつく。 あたしは男に身を任せた。 唇を奪われたところまでは覚えている。 でも、そのあとのことは、めくるめく快感の中に取り込まれてしまって、具体的な行為を覚えていない。 慣れ親しんだキツネとのセックスでもこんなにはならない。それほどすごいところに連れて行かれてしまった。 |
バスが揺れた。そして、停まった。目を開くと、この先が渋滞しているのだとわかった。 生徒達はそんなこととは無関係に、あれやこれやと楽しそうに会話をしている。中にはむっつりとした顔で外を眺めているのもいるけれど、概ね騒がしい。狭い座席ながらも器用にトランプで遊ぶやつらもいて、一喜一憂が伝わってくる。彼らにポーカーフェイスは無縁だ。 最後尾の5人掛けの席の真ん中に山本先生。そして、補助席の1番前に、クラス担任の橋爪先生。この先生はおそらく50前後。今は静かだが、バスが出発して30分くらい、しゃべり続けていた。これからのスケジュールとか、注意事項とか、役割分担とか。責任感は強そうだが、何か中身がない。言葉の多い人間はどうしても中身が薄く感じられるのだが、それは偏見。しかし、なんらかの本質に基づいてしゃべっているのか、うわべだけなのかはすぐにわかる。クラス担任は後者、うわべだけの薄っぺらい人間のように思えた。 その原因はすぐにわかった。 あれをしなさい、これをしなさいと言うだけで、なぜそうしなくてはならないのかを全く語らないからだ。 サービスエリアについたらトイレに行きなさい、到着したらバスを降りて整列しなさい、施設の人に挨拶しなさい、入所式はどこそこでするから5分前集合厳守しなさい、忘れ物係はバスの車内を点検してから運転手さんにお礼をいいなさい……。 これでは生徒ではない、家畜だ。そうあたしは感じた。 与えられた干草を食べなさい、水を飲んだら牛舎の外に出なさい、指示に従って牛舎に戻りなさい……。牛たちは、なぜこんなことをさせられているのか教えられない。やがて肉になるのか、乳をしぼられるのか、わかっていない。品質の良い製品にするために、人間の都合で動かされているだけだ。これとなんら変わらないような気がした。 生徒達は、そんな下らないお話を聞かされたにもかかわらず、元気だ。 カメラマン助手としては、そういう姿をフィルムに納めなくてはならない。あたしは一眼レフを手に、席を立った。 |