遥かな草原の香り
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「ジャム、行こうか?」
 あたしはアヤメに誘われて、放課後のひとときを今日も屋上で過ごすことにした。
 ペッタンコの学生カバンを手に、アヤメの背中を目で捉えながら、階段を上る。ゆっくりと、けれども軽い足取りで。
 屋上は安らぎの場だ。
 クラブ活動をしていないあたしにとっては、6時間目が終わった後の時間は全てから解き放たれたパラダイス。塾に通わなくてはならない日もあるし、家に戻れば家族との生活もある。けれども帰宅までのわずかな時間ながらも屋上で過ごす放課後は、他の何ものにも煩わされたりしないのだ。そこには気の合う仲間しかいない。ううん、もちろん色々な人がいるけれど、それぞれが好きな人と好きなようにひと時を過ごしている。ここではもうクラスも係も何もない。
 あたし達のように何人かで過ごす生徒もいれば、一人でたたずんでいる少女もいる。どのように過ごすかは自分次第。本当の自由がゆるされたわずかな空間と時間なのだ。

 あたしはここで本当の自由を学んだ。
 屋上というと教師の目を逃れてタバコを吸う場だったり、イジメやカツアゲが行われる現場だったりする事が多いらしいく、ほとんどの学校では生徒の出入が禁止されているという。
 ここでもかつてはそうだった。
 だけど、一日中閉鎖された空間に閉じ込められて息が詰まりそうになった先輩達が、屋上への自由を勝ち取ったのだ。
 それ以来、屋上は生徒会の管理下に置かれている。「なにかあったら直ちに再び閉鎖する」という条件の下に。
 だからここでは、学校側からにらまれるような行為は一切行われていない。規律と引き換えの自由だった。
 障害物に遮られることなく流れる風に身体をなぶられながらボーっと視線を漂わせ陽を浴びていると幸福を感じる。万が一ここがロックアウトされたらなどと想像すると耐え難くなる。それほど屋上というのは開放感に満ち、晴れやかな気分にさせてくれるのである。

 だからといって、不良たちは屋上に来ない、というのでは決してなかった。彼らだって屋上にたむろしている。不良的な行動をしないだけである。どこへ行ってもなんとなく居場所のないそういう連中にとって屋上は格好のくつろぎの場であり、仲間同士のふれあいの場所でもあった。
 かくいうあたしも、そんな不良の一員なのだろう。
 あたしの所属するグループはまじめな生徒達に危害を加えることもないし、他のグループと対立することもない。一般生徒のようにピリピリせず怠惰な風情を装い学校生活とか成績とかいうものには無頓着。どうでもいいようなことを話題にして喋り、気が向いたときだけしか行動しない。ダラダラした割合ラクな集まりだった。客観的には「ものごとにまじめに取り組まないやつら」という烙印をもらった、すなわち不良グループのひとつということであるらしい。
 でも、本当はあくせくしていないだけなんだ。ただそれが、時として「やらなくてはいけないことに真面目に取り組まない」ということになるのだ。だけど、アクセクしていったい何になるのだとあたしは思うぞ。
 いや、そんなことはどうでもいい。この屋上では色々な価値観が認められているんだから。

「あれ、何かな?」
 唐突にアヤメが西の空を指さして言った。
 あたしはその時、手すりに持たれてグラウンドを見下ろしながら、神経は唇に集中させていた。購買で買ってきた紙パックジュースに突っ込んだストローから、残り少なくなった液体を一生懸命すすっていたのだ。
 あたしはアヤメが示す方角に顔を向けた。



 そこには、とても空に浮かぶことの出来る物体とは思えないものがあった。黒い固まりがあった。存在感タップリに空に鎮座していた。
「うぐ」
 喉から食道へと辿っていたジュースを思わず戻しそうになる。
 空に浮かんだブラックホール。
 そんな印象を受けた。
 実物のブラックホールなんて見たことないし、ブラックホールを見たからといって飲みかけのジュースを戻してしまうなんてことがあるのかどうかはわからない。
 むしろ、感覚的なものだ。
 一目見ただけで気が滅入りそうな、鬱々とした黒さ。息が詰まるほどの禍々しさ。それがあたしにとっさにブラックホールという単語を思い浮かばせたのだ。
 黒い固まりは視界に入りきれないほど延々とした広がりをみせているのではない。確かに空の一部をそれが占めているのだと認識できる程度の大きさだから、あたしの視界にはその物体とその背後にある青空の両方があった。
 つかみどころがなく茫洋としているようでいて、空とそれとの境界線は妙にはっきりとしている。
 確かな質量を感じるのだから、雲ではなくて物体なのだろう。
 遠くに見えたそれは、どんどん近づいてきた。近づくほどに、スピードを増してくるような気がする。
「やだ、気持ち悪い」
 アヤメは顔を背けた。
 あたしはそのおぞましさに背筋に爪を立てられたような気がした。それも氷で出来た爪だ。気味が悪いが目を背ける事も出来ない。視線を外したその瞬間に、襲われてしまうような恐怖がよぎるからだ。襲われる、というより、あの黒い不気味な物体の一部に取り込まれてしまうと表現した方が正確かもしれない。そういう光景が脳裏に浮かぶ。

 ぐんぐん近づいてきたそれは、あたしたちのいる屋上の真上に達した。空の全てを覆ってしまうほどの巨大さだった。
 ゴオ、と、風の駆け抜ける音。
 バッサバッサという、翼の音。
 鳥?
 地の果てから、全ての世界を包み込むような、そんな強烈な音だった。
 恐怖が全身を包む。身じろぎひとつ出来なかった。
 銃口を向けられたとか、こわもてのお兄さん達に取り囲まれたとか、そういう具体的な恐怖じゃない。人間の奥底に沈んでいる潜在的な恐怖を無理矢理ひきずり出し、増幅した、どうあがいても逃れようのない恐怖。
 あちこちから叫声がわきあがる。
 悲鳴。
 叫び声。
 泣き声。
 屋上にいた生徒達は、逃げまどい、階段室への入り口に殺到した。
 足がすくんでしまって、その場にしゃがみ込むものもいた。
 うずくまった生徒に逃げる者の足がからまった。転倒事故が起こり、それが障害物となって押し寄せる生徒が次々もんどりうった。
 あたしはボンヤリと「ああ、ちゃんと逃げたり走ったりすることが出来るコもいるんだ」と意識の隅のほうで考えていた。
 あたしはさっぱり身体が動かない。
 ううん、動かないんじゃない。あの黒い物体から視線をそらせずにいるだけなんだ。
 使命感に近いものが「目を逸らしてはいけない」とあたしに命令していた。
 それは天の声?
 それとも、ただの思い込み?

 やがて屋上には、逃げ去る事が出来ずにこけたりうずくまったりした者だけが取り残された。
 あたしは一瞬だけ鳥から視線をはずす事が出来た。だから屋上の様子をチラと確認する事が出来たのだが。
 なぜ鳥を凝視せねばならないという不可解な義務感から解放されたのだろう?
 その答えはすぐにわかった。黒い固まりからあれほど強烈に発していた毒々しい気配が消えたからだ。恐怖から解放された身体は自由に動かす事が出来た。
 その巨大な黒い鳥は、収縮しはじめた。
 躯体の中央部分が空に向かってへこんだ。そのへこみに向かって吸い取られるように、おぞましい黒い鳥は小さくなっていった。まるである一点に向かって収束していくように。
 あっという間にそれは空に吸い込まれて消えてしまった。その空は渦巻き状になっていた。
 渦巻きに吸い込まれた?  なぜあたしに空が渦巻状の空間を作っていることを認識できたかというと、そこは確かに渦潮や竜巻のような状態になっていたからだ。しかし、水や空気などの物質がぐるぐると回っていたわけではない。空間がよじれていたとでも言えばいいだろうか。
 いつもの空ではない。あの世色とでもいうのだろうか。無彩色のグラデーションが円を描きながら中心部分に向かって吸い込まれているのだ。
 周りの色々なものがその中心に向かって飛んでいった。
 瓦とか、電柱とか、看板とか、自転車とか、車とか。
 そして、あたしも。

 引っ張られる、という感覚はなかった。
 ごく自然にフワリと宙に浮き、まるで無重力の中を漂っているかのようにあたしは確実に渦の中心に向かっていた。
 上空から、屋上が見える。再び右往左往しはじめた生徒達。相変わらずうずくまったままのクラスメイト。あたしと同じ制服を着た彼ら彼女らは誰一人として空を見上げていなかった。
 そうか、あたしだけが、空を見ていたあたしだけが、まるで選ばれたかのように、宙を舞っているのだ。
 何故か妙に冷静にそんなことを考えていた。
 渦の中心は吐き気をもよおすような派手な無彩色が、秩序なく、しかし一定方向にうごめいていた。
 やがて、暗闇。
 本当に暗闇だったのか、あたしがただ意識を失ってしまったのか、よくわからない。多分両方だろう。
 



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