遥かな草原の香り
=13=     

 

「ねえ、ジャム、今日はお茶して帰ろうよ。試験も終わったことだし」
 アヤメが今日も誘ってくれる。でも、あたしはそんな気になかなかなれなかった。フルダのことが気がかりだったからだ。

 フルダはあたしをもとの世界に送り届けてくれた。最後の力を振り絞って。
「これは僕の力じゃない。僕にはそんなパワーは残されていない。君自身の力で移動しているんだ。ただ僕は、君を誘導しているに過ぎないんだ。僕の誘導がどんなふうになされているか、それによって君自身がどう力を操っているのか、それを自覚できたとき、君は君自身の意思によってこの力を最大限発揮できるようになるよ」
 時空の狭間をこの世界に向けて突進するあたしに、彼は最後の言葉を伝えてきた。

 ラストメッセージをあたしに残して、フルダの命は果てた....そう思えれば気も楽だったろう。でも、あたしにはどうしてもそうは思えなかった。
 老人となり果てた彼がその後どう暮らしているのかあたしには知る由もない。
 絵を描き、伝説を残す。それが残された仕事だと彼は言った。それをやり終えて、安らかな眠りについたのだろうか? ううん、そうは思えない。過酷な運命がまだまだフルダを待っているってことが、なんとなく、でも、はっきりと、わかる。
 もしそうなら、あたしも一緒に、フルダと戦いたい……。

 こちらの世界に戻ってきたあたしは、黒死鳥との戦ったことがまるで嘘のように、普通の女子高生に戻ってしまった。時間もさほど経過していないように思う。
 迂闊といえば迂闊なのだけど、あたしがいつ、あの世界に旅立ったのか、実はよく覚えていない。毎日をダラダラと、ぬるま湯につかったような生活をしていたからだ。
 毎日がさほど代わり映えしないこちらの世界。あたしが「行方不明になった」などという騒ぎはどうやらなかったようだ。もしかしたら、同じ日に戻ってきたのかもしれない。それどころか、屋上での不思議な体験すら、誰も語ろうとはしなかった。あたしが向こうの世界に飛び込む原因になったあの現象すらも、もはや現実だったのか幻だったのか、あたしにすらわからなくなりかけていた。

 だからといって、記憶が消える訳じゃない。かつてのようにクラスメイト達と無邪気にはしゃげなかった。
「ごめん、ちょっとそんな気には……」
「付き合い悪いのね」
「ごめんね、本当に」
「ま、それはいいわよ。でも、元気ないじゃん」
「うん」

 フルダのことを思うとはしゃいでばかりもいられない。だから元気がないように見えるのかもしれない。けれど、本当はそうじゃない。
 彼からの想念が再びあたしを呼ぶような気がするからだ。だからあたしはそれを待っている。
 ただし、彼からのメッセージはそれほど強くないだろう。あたしは神経をとぎすましそれを受け取ってあげなくてはならない。ふとしたことで聞き逃がすことは許されないのだ。友達との遊びに嬌声をあげている場合じゃないのだ。

 もう一度、逢いたい。
 あたしは出来るだけ気持ちのいい場所に身を置き、この世界ではあまり感じることのない大自然から供給されるパワーを精一杯受け止めながら、フルダから送られてくるであろうメッセージを待った。
 職員室を除けば、幸い学校は比較的ましな場所だった。少なくとも学校にいる間なら、フルダからのおそらく微弱であろうメッセージを受け取ることが出来るだろう。
 学校の次に良さそうな場所は、自宅の自分の部屋。

 こちらの世界に戻されたとき、あたしが持っていたものや身に付けていたものも、一緒についてきた。全て元通りだ。だから、日常生活には支障をきたさなかった。もし制服を無くしてしまっていたら、親にどう言い訳すればいいのだろうなんて、バカなことを考えられるのも、何もかも元通りになったからだろう。「お小遣いが欲しくてブルセラショップに売りました」と言う自分と、それを聞く親の顔を思い浮かべると、笑えてしまう。
 元通りは良かったものの、余計なものも増えた。戦闘コスチュームだ。こんなエロい服装、これも親に知られたくない。悩んだ挙句、タンスの引き出しの奥のほうに放り込んでいた。

 ある日引き出しから嫌な臭いが漂ってくることに気が付いた。臭いのもとは戦闘服だった。
 こっちの世界に戻ってから身につけていないのに、どうして汚れるんだろう?
 そう思いながら洗濯をした。
 真っ黒な汁が流れ出た。
 単に洗ったときの水が汚れていただけではない。目には見えないけれど、とても汚らしいものがそこから発散されたのだ。
 綺麗になった戦闘服を身につけてみてあたしは直感的に悟った。
 あたしの部屋は、ホンのわずかづつだけれど、毎日浄化されていってたんだ。持ち込んだ戦闘服が、汚いものを全て吸収して。
 あたしの部屋にはパワーの微粒子のようなものが明らかに増えていたし、身体にまとわりつくべとべとした嫌な空気は減っていた。
 それならばタンスの奥に直し込んだりせずに、部屋に放置すればもっと効果が高いのではないか? けれど、親の目に触れても困るので、ベッドの下に放り込んでおいた。

 そのうち、「身につけてたら、もっと気持ちいいだろうし、留守中に親に見つかる心配も無い」と思い直した。あんな格好で学校には来れないけれど、パンティだけなら問題ないだろう。お風呂のついでに洗濯をすればすぐ乾くので(というより、ほとんど濡れない)、最近では毎日はいている。
 体育の着替えの時に女の子達に見つかって恥ずかしかったけれど、彼女たちの評判は悪くない。「かっこいい」とか「うわあ、大胆」とか、そんな感じだった。男の子達には知られたくないけどね。
 あっちの世界で闘っているときは感じなかった食い込みがちょっと気になるけど、それもフルダの指でいたずらされているようで心地いい。
 というか、フルダがまだ生きていて、あたしに何かを語りかけようとしている、と感じるのだ。

「ねえ、ジャムってばあ!」
「あ、ごめんごめん」
「考え事? 何か心配事でもあるの? 聞いてあげるよ」
「聞いてもらうような心配事はないけど、お茶、しようか?」
「ほんと?」
 アヤメが嬉しそうに笑う。
「そのかわり、缶モノだよ。ソレ持って、屋上、行こ」
「ま、しょうがないわね」
 自分の部屋も相当清められてきたが、それでも学校にはかなわない。なぜ、学校がいいのか、そして、どうして職員室だけがダメなのか、はっきりした理由はわからない。でも、他所とはっきり違うのは、「大人の数が少ない」ということだ。そう思うと、職員室だけがダメ、というのも納得できた。
 あたしたち高校生が清いだとか美しいだとか大それたことを言うつもりはない。奇麗事だけで毎日過ごしているわけじゃないし、子どものように純粋でもない。打算も計略も怠慢も諦めも失望もある。
 でも、それでもおそらくは、「大人よりはまだマシ」なのだろう。
 屋上たむろにはしばらくご無沙汰だったが、思えば「屋上」は学校の中では一番「上等」な場所ではなかろうか。
「しょうがねえ。おごってやるよ」
 購買部に立ち寄り、アヤメのポケットマネーで買ってもらったオレンジジュースを持って、屋上に出た。
 汗ばむ陽気が夏の到来を告げていた。

 あたしもアヤメも無口だった。
 お互い顔を見合わせて、微笑みあう。もし、あたしが何か重大な悩みを抱えていたとしても、友達のこの笑顔で全て溶けてしまっていただろう。
「何もかも」と、アヤメが言って、缶を掲げた。
 カンパイのつもりなのだろう。
 あたしも「何もかも」と言って、缶のへりをコツンと押し当てた。
 嬉しかった。「何もかも」自分が一緒に背負ってあげるよ、と言われたみたいで。
 あたし自身の悩みだったら、本当にそれだけで、全てが救われたに違いない。心の底からそう思う。
 けれど、フルダのことは、あたし自身のことじゃあない。

 カンパイの後は、また無口になる。太陽が徐々に西に傾き、屋上をぐるりと取り囲んだ柵に身体を預けているあたし達に太陽が正対する。鼻の頭をじりりと焦がす。
 ジュースのリップを開け、喉に流し込む。いつのまにこんなに喉が渇いていたんだろう。冷たくて甘い液体が食道から胃に染みわたった。

 あたしが飲み干すのを待って、アヤメはあたしの背後から密着してきた。
「なによ。暑苦しいじゃないの」
 何を思ったか、彼女の手があたしの太股に触れる。どうやらスカートの裾をつかんでいるらしい。
「え? なに?」
「ねえ、パンティー見せて」
 あたしは驚いて、振り返りつつ彼女の手を払った。
「なによ、いきなり。女くせに、女の子のが見たいの?」
「だって、着替えの時にマジマジとみれないでしょ」
「なんで見たいのよ、自分のを見たらいいじゃない」
「わたし、そういうの履いたことないし、かっこいいなと思って」
 セクシーな下着に憧れる気持、それは、わかる。でも、アヤメにだけ見せるのならともかく、屋上には他の生徒達だっているのだ。ここで「はい、どうぞ」というわけにはいかない。
「やあよ」
「じゃあ、さわるだけ」
「え? 触るって?」
 アヤメは服の上から下着のラインを確かめるように指を這わせてきた。

(やだ、感じる!)
 あたしは身体をくねらせた。
「もしかして、感じた?」
「バカ」
 妙な動きをしたら、感じていることがばれてしまう。あたしはなるべく身体を硬直させた。それがいけなかった。神経が思わず触られているところに集中してしまった。
「ああん」
 ちいさく声が漏れた。戦闘服のせいで、ただでさえ気持ちよくなっているのだ。そして、アヤメの指使いは心地よい。
「えい」
 アヤメとしてはちょっとしたいたずらのつもりだったのだろう。横の部分をつまんであたしのTバックを引っ張り上げた。
「いやあん、食い込む。感じるウ」
 自分でも信じられないほどの色っぽい声を上げてしまった。アヤメもびっくりして手を止めた。
 その時。
「ジャム、聞こえるか?」
 あたしの中に直接呼びかけてきた、フルダの声。
 まさか。
 きっと、フルダのことばかり気にしていたから、声が聞こえたような気がしただけだろう。空耳だ。
「ジャム、聞こえるか?」
 繰り返し、聞こえた。
 間違いない。それは次元を超えた、フルダからのメッセージだった。

「ジャム、聞こえるか?」
 遥か遠くから、でも、はっきりと、あたしの心の中に届いた。
「聞こえる! 何度も繰り返さなくても、ちゃんと」
 アヤメはいつの間にかあたしへの悪戯をやめていた。あたしの様子が変化したことを見抜いたのだろうか? 特に何かを不審がっている様子はなく、あたしと同じように手すりにもたれて、あたしと並んで太陽に顔を向け、目を細めていた。
 自分の気持ちがあたしに伝わったことがわかって、安心したのかもしれない。
「今更君を呼ぶなんて迷惑かも知れないけれど、来てくれないか? 助けてくれ」
「行く!」とあたしは即答した。

 待っていた。この日が来るのを。
 待っていた。フルダに再び呼ばれるこの日を。
 信じていた。フルダが朽ち果ててなどいないってことを。

 呼ばれた先にあるもの、それは戦いだと理解していた。けれど、彼に会いたかった。
 戦闘は、おそらく前より過酷なものになるであろうこともわかっていた。だけど、彼と一緒に戦いたかった。
「ねえ、どうしたの?」
「君が倒したはずの黒死鳥が生きている。おまけにもうひとつ、白死鳥までいるんだ」
「なにそれ?」
「僕ともう一度闘ってくれるか?」
「いいわ。どこ?」
「誘導する。けれど、敵が強大なんだ。僕は君を跳ばすために力を使うわけには行かない。跳べるね、自分自身の力で」
「うん。きっと大丈夫。あたしのまわりの全てが味方してくれるような気がする。ていうか、そう確信できる」
 あれからあたし自身何かトレーニングをしたというわけでもない。けれど、跳べると感じた。身近にある戦闘服とフルダにもらったシャープペンシルから、あたしはずっとパワーをもらい続けていたんだとこの時初めて実感した。
「あなたは、大丈夫なの?」
「ああ。詳しくは会ってから説明するよ。ともかく、もう老人なんかじゃない。蘇った。パワーもアップした。けれど、それでもまだ力不足なんだ」
「わかった。行くわ」

「召還する!」
 力強くフルダが叫んだ。それは脳髄の奥にまでビンビン響いた。
「まって。戦闘服、ここにはない。家にいったん戻らないと」
「その必要はないよ。君が跳べば必要なものは付いてくる。君の力がとてつもなく増幅しているのが僕にはわかる。さあ」
「うん」

 あたしは「ごめん、先に帰るね」と、アヤメに言った。
「うん」とだけアヤメは返事した。顔は太陽に向けたまま。
「今日は、ありがとう」と、あたしはアヤメの背中に声を浴びせた。
「なんかわからないけど、ふっきれたんだね」
「そうよ!」
 あたしの返事には、元気が迸っていた。

「じゃ、おいで!」
 フルダの声が再び脳髄に突き刺さる。
 同時に。
 あらゆる感覚の喪失感。
 めくるめく恍惚と引っ張られるような引き裂かれるような感覚。
 この世でもあの世でもない、おそらくどこにも所属しないであろう時空間を、あたしは精神も身体もねじられながら突き進んだ。
 異様な感覚だったが、苦痛は全くない。それどころか、快感……。
 誰かの力を借りているのではない、自分自身の意思と力で、確かにあたしはある一点をめざしていた。

 フルダ……
 すぐ、会えるね。

つづく

 



[ホーム] [14]を読む