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フルダは窓を開けた。 さっきテレビの画面で見たように、この研究所は町を見下ろす小高い丘の上にある。町は明るい陽光に照らされてイキイキと輝いていた。ビデオで見た町は、上空を二つの死鳥に覆われ、深い影の下に沈んでいたが、今はそうではない。人も自転車もバイクも車も、確かに活発に動いていた。 きっとこの中には、何時までに配達をしなくちゃと焦りながら必死でハンドルを握っているトラックの運転手もいれば、失恋に張り裂けそうな胸を抱えて、でも必死で涙をこらえている少女もいるのだろう。 あたしは、なんだかジンと来た。 町並みは遠くへ向かって続いている。ずっと遠く、視界の限界あたりに海が見える。そこは工業地帯らしく、煙を吐き出す煙突がいくつもにょきにょき立っていた。そのせいか、霞んではっきりとはわからないけれど、高層ビルらしきものもある。あ、もしかしたら、あれは観覧車かしら。港には船も出入りしている。 視線を右の方へ移していくと、視界の限界がくっきりと浮かび上がり、さらに首を回すと、それは徐々に高くなっていく山の稜線だった。この世界はさらにあの山の向こうにも続いているのだろう。 右へ右へと、高くなる稜線を追っていくが、90度右を向いたところで、山並みは自分たちがいる研究所の壁の向こうに消える。山様はさらに険しく高くなって、この研究所の裏に続いているように思えた。 あたしがそう言うと、フルダは「そのとおりだよ」と返事した。 「研究所のある丘は、実は裾野の一部でしかない。ここからは見えないけれど、ちょうど僕たちの背中方向に、標高6300メートルの山が屹立しているんだ」 「へえ〜」と、あたしは答えた。えっと、富士山って何メートルだったっけ。エベレストはどうだっけ。標高6300メートルがどれくらいのものなのか、にわかに判断できかねた。 「3000メートルくらいまでは、高原だったり森林だったり湖沼だったりして、普通に車で走れる道もあるし、ハイキングとかレジャーのための施設も整備されているけれど、そこから先へいく人はそうはいない」 「立ち入り禁止なの?」 「いや、そういうわけじゃないけど、とにかく道らしい道がないんだよ。それに、『神域』とも呼ばれていて、みだりに立ち入る場所じゃないともされている」 「じゃあ、神に携わる人は、入ったりするの?」 「うん。その通りだ。それと、信心深い人もね。一応、誰でも行けるところに『前社』があって、そこで拝めばご利益は同じということになってるけれど、信心深い人は本殿まで、険しい道を登ったりするよ。だけど、さすがに遊びで行く人はいない。みんな、神を拝むために行くところだし、道だって『踏み後』程度のもので木々も鬱蒼としてるし、まさしく幽玄というか、ああ、ここに神がいるんだなあって感じがするよ」 「するよ、って。フルダは行ったことがあるの?」 フルダはメモに「そこに仲間がいる」と、書いた。 あたしが何か喋ろうとすると、人差し指を唇に当てて、「シッ」というポーズをした。 あたしは、「盗聴器?」と、メモに書いた。 「その通り」 「じゃあ、これまでのあたし達の会話も、聞かれていたんじゃない?」 あたし達の筆談は続く。 「それは計算の上。僕がいなくなっても、『突然の失踪』ではなく『裏切り』だと、研究所には認識させておきたい」 「どうして?」 「考えを異にする人間が、別の行動をとって、効果をあげれば研究所も政府も認めざるを得ないだろう? 僕が失踪して、いつのまにか問題が解決して、オカルトで片付けられたんじゃ、本当の解決にならない。裏切り者だと思われた者が、実は物事の本質を捉えていてきちんと解決した、つまり裏切りではなかった、周りの人間の理解が足らなかったんだ、という結論に導きたいんだ。それに、ヤマモ博士には僕の行動を知っておいて欲しいしね」 あたしは「なるほど」とペンをそっと走らせた。 「さあ、行くよ」と、今度はフルダは、心から心へと話しかけてきた。 あ、そうか。あたし達は、テレパシーともいうべきもので、お互い会話ができるのだ。 だったら、どうして筆談なんかしたんだろう? 「それも計算の上。万が一、盗聴器なんかがしかけられてなかったとしたら? せめて紙で残していかなくては」 「だったら筆談なんかせずに、最初から声に出しておけばいいじゃん」 「盗聴器があったとしたら? そんなことをしたら、ここを抜け出す前に速攻でとっつかまっちまうだろ?」 「そっか」 |
あたしはフルダに連れられて、研究所を正面玄関から後にした。 「おや、ハタナさん、どちらに? あれ? そのお嬢さんは?」 屈託のない笑顔で、玄関横の詰め所から、守衛さんが話しかけてくる。 「ちょっとした知り合いの子でね。僕の仕事の見学に来ていたんだ」 「なんだ。彼女、じゃないんですね」 「だったらいいんだけどなあ。ま、僕はマジでお嫁さんに欲しいと思ってるんだが、この子はどう思ってるんだか。とにかく駅まで送ってくよ」 「じゃあ、戻りは2時間後くらい……」 軽口を叩きながら、フルダは素早い所作であたしの唇を奪った。 「お!」 守衛さんが声を詰まらせた。はやしたてようとして、それはあまりにも品が無いと思ったのか、途中で思いとどまった。そんな感じだ。 思わずあたしは、甘いキスに酔いそうになったけれど、次の瞬間、フルダはあたしの手を引いて、ダッと走り出した。 「逃げるぞ。キミの入館は記録されてない。守衛に不審に思われる前にさっさといかなくちゃな」 駐車場に停めてあったスポーツタイプの車に乗り込むと、フルダはキーをまわしてエンジンを始動させ、ひょいとハンドルを切って車をスタートさせた。加速Gを背中に感じながら、あたしはフルダに訊いた。 「じゃあ、今のキスも、計算の上?」 「計算のように見せかけて、将来のお嫁さん候補の唇を首尾よく奪う作戦!」 「ほんと?」 「さあねえ。この子がどう思ってるかだよねえ」 フルダは左手をハンドルから離し、ポンとあたしの頭に手をおいて、ほんの一瞬だけ、撫でてくれた。フルダがこちらを向いたような気がして、あたしは視線をフルダに向けたけれど、もうその時は、フルダは正面を向いてハンドルを取っていた。 |
この町は、最初にフルダに召還されて行った世界とは随分違っていた。そこは科学が発達していないわけでもないのに、そこにはなにか不可思議な力が漂っていたし、住む人もみんなそういう力の中で自然体で生きていたように思う。懐かしさすら含んでいた。実際に過去に自分が見たり感じたりしたことを懐かしむのとは少し違う。見たり感じたりしてはいないのに、細胞の奥に染み付いている何かをじんわりと感じさせるような懐かしさだった。 しかし、この世界はそうではなかった。科学や技術といったものは、あたしが本来いた世界とあまり変わらないように思えた。そういえば、最初にフルダに召還されたとき、あたしに与えられた部屋は、未来SFに出てくるような装置が、さりげなく壁に配されていたりした。でも、こちらの研究室は、ただの普通の部屋だった。 この世界にも、あたしは懐かしさを感じる。けれどそれは、細胞の奥底に潜むなにかと共鳴したというようなものではなく、もっと現実的な懐かしさだ。猥雑で俗っぽく、目の前のことにアタフタするような雰囲気が空気に染み付いている。それはまさしく、本来あたしがいた世界だった。毎日、学校へ通っていたあたしの日常そのものの匂いがした。 けれども、完全にそれと同一ではなかった。あたしの住む世界にあった、どちらかというと好きになれないもの、汚いもの、いやあな感じのするもの。そんなどす黒い気配だけがより濃く漂っている。まるでそれらを抽出して、煮詰めたような。 ここにあるのは、あたしのいたあの場所よりも、時間的には未来に思えた。そして、その時間経過とともに、悪いものだけが増幅されているような気がするのだ。だからこそ、まだそれが薄かったあたしの世界が、懐かしく思えるのだろう。 「もう、つけられてる」 ミラーを見ながら、フルダが呟いた。 「あたしにキスして、ごまかしたんじゃないの?」 「この世は猜疑心と悪意に包まれている。あの守衛がチクったんだろう」 「素早いのね」 「おかしいと思ったらすぐに報告をし、対応する。それにより自分が『よく気付く』男で『職務に忠実』な『仕事の出来る奴』という評価を得る。私は何もやましいことはしていませんよとばかりに『清廉潔白』を強く主張する。そういう世界なんだ」 そうか、と思った。 あたしは、すぐに気がついた。 「それって、白……」 「そうだ。白死鳥の白とは、そういう見かけの美しさを現してるんだと思う」 狭い路地に入ったあたし達の車は、何度か角を曲がった。 振り返っても、つけている車はない。 「まいたの?」 「まさか。向こうは確実にセンサーでこちらの位置を押さえている。ドライビングテクニックの差で、距離が少し開いただけだ。つっても、俺の運転が上手いわけじゃない。多分、追手はオートドライブなんだろう。マニュアルどおりの運転しかできない。だから、差がつくだけだ」 「そのかわり、絶対事故は起こさないとか?」 「その通り。つまり、俺の運転は事故の可能性がある、ということだ」 「ひやあ〜」 言ってる傍から、ゴミ箱として使われているのであろう大型ポリバケツをひっかける。乾いた音がしてポリバケツが吹っ飛んだ。振り返ると、裂け目を大きく開いた大型ポリバケツは道の真ん中に転がり出ていた。 「ラッキー。あれを排除するのに、追手はまた時間を食う」 フルダの住居に着く。そこは、とても主任上級研究員なる肩書きがある者の住む場所とは思えない、古ぼけたモルタル二階建てのアパートだった。 フルダはロックもせずに車から走り出る。あたしもそれに続く。 外階段から2階に駆け上がり、最初の扉に突進するフルダ。こんなことを予想して、カギもかけていなかったのだろう。ドアを開けてすぐのところに、大きな登山用のザックがふたつおいてあった。 あたしとフルダはそれらをひとつずつ背負い、素早くUターン。 特に会話を交わさなくても、あたしにはフルダが次にどういう行動をとろうとしているのか、脳髄にビンビン伝わってくる。 アパート前の小さな広場には、あたし達が乗り捨てた車があるが、次にフルダが飛び乗ったのは、その隣においてあったジープタイプのワゴン車だ。 あたしも転がり込むように乗り込む。 フルダはキーを差し込んで回し、エンジンを吹かすと、あっという間に出発した。 「これでもう大丈夫だ。この車にはセンサーは取り付けられていない」 間もなく片側2車線の広い道に出る。細い路地を右に左に身体を振り回されていたあたしは、ようやくシートと背中がフィットするのを感じた。 「すぐそこのコンビニにでも寄ろう。ザックの中にも飲み物は入っているが、冷えてるわけじゃないからね」 「うん!」 あたしは笑顔で答えた。 |
コンビニで飲み物とスナックを仕入れたあたし達は、快適なドライブをしている。目指すは本殿だ。 「レジでドキッとしたよ。あたし、この世界のお金、持ってないから」 「ああ、僕も持ってない。けれど、カードがあるからね。ハタナの所持品にあったんだよ。でも、多分、研究所から出てしまったから、もうすぐ登録抹消で使えなくなるだろうな」 「そんなんで、大丈夫なの、この先?」 「ああ、大丈夫だ。仲間がいる」 前にもフルダはそう言った。きっと、信頼できる人たちなのだろう。 「この車も、彼らのルートで買った。神職ルートでの買い物だから、僕のこともとやかく聞かれなかったし、研究所ルートで買ったはずのさっきのハタナの車のように、センサーなんかもついてない」 「マフィアルートとか、そういうのもあるの?」 あたしはふざけて訊いた。 「そんなのはないけど、まあヤクザとか裏世界の人たちも、一応表向きの仕事はしてるからなあ。そっちから買うんだろうな」 まじめに答えるフルダに、いまさらジョークで訊いただけよとは言えなかったけれど、そのかわり、頭に浮かんだひとつの疑問について質問した。 「買い物って、そんなに色んなルートがあるの? だったら、車屋さんだけでも、何件もあるってこと?」 「いや、車屋に区別はないけど、一定以上の金額の買い物や、カードの作成とかには、ルートといって、身分証明が必要なんだ。ここでは全ての国民のありとあらゆるデータが当局に保管されていて、その身分や収入によって、買えるものが決まっていたり、金額の上限があったりする。個人情報は他人に対しては保護されているけれど、政府には筒抜けだ。ただ、神職というのはもっとも犯しがたい領域ということになってるから、神職であれば、所持金の範囲内であれば何でも買える」 「なんだかそれって、神的なものは、敬っておきさえすれば、それでOKみたいに聞こえる」 「そのとおり。僕たちはそれを隠れ蓑にしてるんだけどね」 |
「あれが、前社だよ」 森林以外には何もない。そんな地を蹂躙するが如く両側4車線の道は続いていた。登り勾配はきついけれど、広大な裾野を従えている山で、山岳道路のようにヘアピンカーブを繰り返して高度をかせぐ必要もなさそうだった。多少のカーブはあるものの、ゆったりと、実にゆったりと道は続いている。 やがて、その社の屋根部分が見えてきた。それが実は3階建ての建物に相当するくらいに高さであり、横幅はあたしが通う高校の校舎くらいはあるらしいとわかったのは、道路の終端、料金所ブースに辿り着いてからだった。 前社というから、小さな祠のようなものを想像していたあたしだけれど、それは実に立派な神殿だった。 料金所から神殿の正面までも、相当な距離がある。そこは玉砂利を敷き詰めた広大な広場で、400メートルトラックを擁した陸上競技場を5つくらいは設置できそうだ。端のほうに、警備員に誘導されたのか、整然と観光バスが並んでいる。20台くらいはいるだろう。この他に自家用車が100台近くは停まっていたろうか。しかし、それらが広場を狭く感じさせるということは全く無かった。とにかく広大なのだ。 しかし場所が山裾の傾斜地である。広場もこれまで走ってきた道と同じく、神殿に向かってずっと上り坂になっていた。大社造と呼ばれる建築様式をどこかで耳にしたことがあるけれど、それと少し似ているような気がした。でも、あたしがいた世界の日本のそれとはかすかに違うようでもある。なにか違和感があるのだ。神殿と聞いて、ギリシャの遺跡のようなものを思い浮かべたせいかもしれない。フルダの言う本殿だの前社だのの単語に、日本的なイメージを思い浮かべなかったではないが、神殿という言葉に惑わされたのだろうか? それとも、神域独特のえもいわれぬ雰囲気というか空気に、圧倒されてしまったのかもしれない。 「ハタナさん、ついに……」 「ああ、来たよ」 「隣の娘さんは、例の?」 「ああ」 料金所の係員とのわずかのやりとりの後、あたし達はゲートを通過した。 「本殿まで、一般の人は歩かなくちゃいけないけれど、関係者は車で上がれる」 「それって、なんだかずるい」 「物資の運搬とかもあるんだ。だが、酷い道だ。舌、噛むなよ」 玉砂利の美しい広場から外れると、そこはまさしく踏み固められたガレ場だった。タイヤの轍がついているので、どうやら道らしいとわかるけれど、路肩も弱そうだし、雑草や潅木が道の真ん中に茂っているし、穴には水が溜まっていた。 歩いているのとさほど変わらないスピードなのに、ジープはガッコンガッコン上下左右に揺れる。前後にも揺れる。 つんのめりそうになる車をハンドルで必死で制御しながら、フルダは「ハイキングコースの方がよほど整備されている」と嘆いた。 「前社の威容に圧倒されたかもしれないけど、あれは参拝者に威厳を示すために年々建て増しされたり装飾されたものだ。本殿は質素なものさ。近所にわずかな檀家を抱える町の片隅の寺社のようなものを思い浮かべればいい」 「はい」 「今夜はそこで1泊して、明日は奥社へ向かう」 「奥社? まだ先があるのね」 「本殿の先は、当局や研究所の手はまるで及ばないから、飛ぼう。能力は維持してるね?」 「もちろん!」 はりきって答えた。自分の能力を駆使して、フルダやその仲間たちの役に立ち、死鳥をやっつけるのだ。あたしはワクワクしていた。 けれど、この時のあたしは、すっかり源力を失っていることを、まだ自覚していなかった。 |
つづく |