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目覚めて、目指す。
ストーリーの大きな流れは極めて単純な物語ですが、ここではいくつか自分に課したテーマがありました。
ひとつは、恋愛感情の登場しないストーリーであること。もちろん性的な描写は一切ありません。
もうひとつは、殺人・暴力等、それに類する場面がないこと。
逆に言えば、殺人に発展しかねない憎悪や、セックス描写を含む恋愛シーン、暴力。これらの存在しない小説というのは極めてまれであると思う、ということです。
それらは小説を描く上で本当に必要不可欠なのでしょうか?
その疑問に自ら「必ずしも必要ではない」と答える形で生まれたのがこのお話です。
青春なんて、本当に些細なことに、喜怒哀楽を抱くものであり、ドラマじみた大がかりな展開が青春の日常に転がっているわけなど無く、にもかかわらず微妙に心が揺れ動く繊細な季節だと思うのです。
それら課題とは別に、どうしても描いてみたかったシーンがあります。
音楽を奏でる光景です。
結局僕は従来のありふれたバンドスタイル(ここでは「ダイス」が演じています)を否定することは出来ませんでしたが、「ハーモニカ、ギター、ピアノ」という構成のコンサートを観たとき、心の一番深いところまで届くそのピュアな音達と、音の一部でありながらしっかりと詞の意味を頭の中で結ばせてくれるボーカルが、ダイスのような従来形のバンド編成を否定せざるを得ないぐらいのショックと感動を受けたのです。これをどうしても表現してみたかった。
では、物語の中で、なぜダイス型バンド編成を否定しなかったか。
ひとつの形を否定した上で、違う形のものを肯定するのは極めて簡単です。しかしそれは全てを否定することにつながります。
ひとつの形を肯定するには、違う形をも肯定してこそ、本当の肯定であると思ったからです。
果たして作品となった「コウモリとかめ」が僕の思い通りの作品に仕上がったかどうか、それは作者である僕にはわかりません。稚拙さと作者の思い上がりだけが全面に出たつまらない作品になっているかも知れないのです。
最初の構想では、主人公グループ「トライアングル」はシンプル(悪く言えば貧弱)なバンド構成であることに悩み、思い通りの音楽を創ることが出来ず、暗く落ち込むはずでした。その時、たまたま同様のバンド編成でライブを行うプロのステージを見に行く機会を得て、力付けられる。という予定でした。
しかし、そうそうタイミング良く同じ編成のライブが存在するのはご都合主義に過ぎるし、僕の中で主人公達は僕が考えていた以上に成長してしまっていたのです。
そんなわけで最初の構想とは異なりますが、登場人物自らが作者の思い描く音楽を奏でることになりました。
ちなみに僕が体験した同じ編成のライブとは。。。。。
沢田聖子さんのライブです。