第6話 ヒーロー「あおい伝説」 =2=
背筋がスウーっと寒くなった。 澄み渡った青空と、白銀に輝く山肌。そして、身が切れるような冷たい空気。いや、体感温度はそれほど寒くないはずだ。風も無い。なのに僕は、なぜか身震いをした。 底抜けに明るい視界の中にある色彩は限られている。空の青と雪の白。これが圧倒的に視野の中を占める。 そこへ、カラフルなウエアに身を包んだスキーヤーが、次から次へと滑降してくる。それはとてもちっぽけな色の点に思える。大自然の懐でちょっと遊ばせてもらっている、そんな感じだ。 そのスキーヤー達は風の無い夜にふわふわと漂うように振ってくる雪のようでもある。右に左にターンをし、まさしくふわり、ふわりと舞って来る雪達。時に立ち止まる姿は、肌に感じないほどのかすかな風の乱れで、ふっと下降をやめてしまった雪。スキーヤー達はのんびりと時間の流れを謳歌していた。 その流れが、一瞬途切れた。 嵐の前の静けさ、だ。 誰もが直感的に、このあとにおこる壮絶な何かを予知して、ゲレンデを明け渡したかのようにすら思えた。いや、思えたのではなく、実際そうなのだろう。日常生活で発露することはきわめて少ないだろうけれど、人間には本来そういう力が備わっているはずだ。 僕と清花はもちろん知っている。まもなくあおいさんが若いスキーヤー3人と共に、滑降してくるのだった。 |
あおいさん達の姿が現れた。 それまでのスキーヤー達とはまったく異なった滑り。 ものすごいスピードであおいさん達は近づいて来る。カミソリのような鋭利なフォルム。怒涛の勢い。なのに、蝶の舞うごとく可憐だ。 それは、ほんの一瞬。 まるで一陣の風がゴオと吹いたように、あっというまに僕と清花の視野を横切った。 あおいさん達の姿が小さくなり、やがて見えなくなってはじめて、僕達の前を通りすぎたときの情景が、頭の中で像として結ばれたくらいだ。 あおいさんの表情には余裕があった。僕たちの方を見て、かすかな笑顔さえ浮かべていた。その後ろを追う3人は、とにかく必死だった。おそらく僕と清花が彼らの滑りを見物していたことすら気付いていないだろう。 あおいさんと彼らは、確かに一団となって滑っていた。おいさんに遅れずについていくだけの実力は彼らにはあった。でも、ただ、ついていくだけだ。 だけど、と僕は思う。 あれだけのスピードでゲレンデを駆け下りたらさぞや気持ちがいいだろうなと僕は思った。 「さ、行こうか」と、清花が言った。 「行くって、どこへ?」 「何言ってるのよ。あおいさんに、スキーレッスンをしてもらうんでしょ?」 「あ、そか」 |
僕たちがノロノロとゲレンデの最下部に辿り付くと、さっきの3人組があおいさんを取り囲んでた。あおいさんは色々なポーズをとりながら、熱心に語っている。3人組はそのポーズを真似したり、うんうんと頷いたりしていた。レクチャーを受けているらしかった。 「あ、お客さんが戻ってきたので、今日はこれまで、ね」 あおいさんが僕たちの姿を見つけて、3人組に宣言する。 3人は「ありがとうございました」と声をそろえて礼を言い、きちんと頭を下げてからその場を去って行った。 「はい、お待たせしました。ごめんなさいね、私の我侭で」と、あおいさん。 「ううん、凄いの見せてもらった。それだけで十分」と、清花。 「我侭だなんて。彼らが無理やり頼み込んだんじゃないですか」と、僕。 「でもやっぱり我侭だわ。だって、お断りすることは出来たんだもの。でも、なぜか断りきれなかった。きっと、賞賛を浴びながら思いっきり滑ってみたかったのね。ああいう滑りはもう滅多にしないのよ」 「どうして? さっきのあおいさん、とても楽しそうだったわ」 「うん、楽しかったけど・・・・。でも、私だけが楽しんだら、いけないのよ。レッスンだからね」 |
僕はあおいさんのレッスンを受けて、これまで随分「横着」なスキーをしていたことを思い知らされた。上手な人のフォルムを見て、真似をするのはいい。けれど、僕は自己流で基本が全く出来ていないから、実は似ているようで非なるスキーをしていたのだ。うわっつらだけを真似しようとして、実は筋肉の一つ一つを正しく使っていなかったことを指摘された。 「橘さんは、直滑降、斜滑降、そして不恰好って感じですね」 これは清花に大受けした。 「キャーハハハ。まさしくそのとーり」 「それから、区別するためにファーストネームで呼ばせていただきますけど、清花さんは度胸が足りないって感じです。もっと、思いきって、動作をして下さい」 僕はあおいさんに指摘されたように、膝や腕や腰や、その他様々な体の部位を、基本どおりに正確に動かすようにして、何本かすべった。が、すぐに筋肉がギシギシと悲鳴を上げ始めたので、早々に根を上げてしまった。 「わたしはもう少し滑ってるけど、和宣は先に帰ってもいいよ」と、ばてている僕に清花の反応は冷たい。 「先に帰るったって、送迎してもらわないことにはどうしようもない。お茶でも飲んで時間を潰してるよ」 「あら、じゃあ一緒に帰りましょうか? 夕食の仕度があるので、父が迎えに来てくれるんです」と、あおいさん。 「じゃあ、乗せて行ってください」 「清花さんは、定時の送迎バスで戻られるんですね?」 「うん、もう少し滑りたいわ」 「じゃあ、5時にゲレンデの下ですから。リフトのとまるギリギリまで滑ってても大丈夫だと思いますよ」 「元気だな、お前」と、僕は清花に言った。 「和宣が年寄りくさいのよ。それに、お前呼ばわりされるいわれはないんだけどな」 「はいはい。疲れがたまってつい口が横着になってしまいました」 |
僕はあおいさんと二人で、ゲレンデのすぐ下に面した道路の脇に立った。 「遅いわね。買出しに手間取っているのかしら」と、あおいさんが言った。 スキーのレッスンをしているわけでもない、客として世話をしてもらってるでもない、ただ突っ立っているだけの時間が、なんとももどかしく気まずい。 な、なにか、喋った方がいいよな。だけど、どんな話題があるってんだ! よく考えれば、「話題が無いのなら黙っていればよかった」のだと後で気が付くのだけれど、僕はまるで恋愛初心者のように、「なにか話題を作らなくっちゃ」と思いこんでしまった。 「あの、ひとつ、訊いて良いですか?」 「ええ、なんでしょう?」 「あおいさんは、かつて、双兎のあおいって、呼ばれていたんですよね?」 「ええ、そんなこともありましたね」 「双・・・つまり、二人ですよね。もしかして、もうひとりは亡くなられたご主人?」 「・・・そうですね。隠してもしょうがないし、隠すようなことでもないんですけどね」 「どうして、ウサギなんですか?」 「さあ。どうしてなんでしょう。私も、あの人も、白っぽいウエアを着ていたからじゃないでしょうか? それに雪面をぴょんぴょん跳ねるっていうイメージかしら。いつか誰かがそう呼んで、それが定着しちゃったんです」 「余計なことを言うようですが、ひとりではウサギになれませんか?」 「え?」 「さっき、彼らと滑っているとき、とても楽しそうでした。スキーでぶっとばすのが好きなんでしょ?」 「もちろん、好きですよ」 「じゃあ、一人でも滑れば良いのに・・・」 「え? 滑ってますよ。一人でも」 「へ?」 「へって?」 「あれ? だって、ご主人が亡くなられて、そういう凄いスキーをするようなことからは手を引いたって・・・」 「誰か、そんなこと言ってました?」 「え、ええと」 誰がそんなことを言っていたんだろう。少し考えて、僕は思い出した。清花が言っていたのだ。勝手に想像して。 いや、それだけじゃない。 「だって、さっきの男の子達が言ってましたよね。双兎のあおいさんの姿はもう見れないのかと思っていたって。それにあおいさんだって、以前のようなキレのある滑りは出来ないって彼らに言ったじゃないですか」 「なんか、すごく記憶力が良いのね。私が彼らに言ったのは、かつてのようなキレのある滑りはもう出来ないってこと。だって、私は旦那にひっぱられるようにして滑っていたんですもの。それに、ペンションの仕事もあるから、スキーそのものをする機会も減ってますし、腕も落ちてますしね。ゲレンデに立つのはほとんどの場合が宿泊者サービスでコーチをするときですから、そんな時に一人だけガンガンすべることも出来ないでしょう?」 「あ、それはまあ、そうですね」 「だから、わたしが一人でガンガン滑るのは、それほど機会が無いんですけど、でも、時々は滑ってますよ」 あおいさんは、クスリと笑った。 「もしかして、私のこと、色々と心配してくださった?」 「ええ、まあ」 「ごめんなさい。あなた方、お客様、なのにね」 「いえ」 「ほんと、私の周りには、優しい人ばかりが集まって来るわ。とくに、あの人をなくしてから・・・」 ばかり? 僕の他に、誰のことを言っているのだろう。清花のことだろうか。清花が優しい人であるのは、僕は承知しているけれど、それは付き合いが長いからであって、清花のそういう面はあまり表面には出てこない。 だったら、誰のことなんだろう? ま、いいか。きっとあおいさんは「わたしの周りには優しい人が多い」という現象を語ったのであって、それが僕の知っている人とは限らない。 そうこうしているうちに、オーナーの運転する車がやってきた。 |
夕食後のひとときを、僕と清花と社長は、暖炉のあるロビー兼談話室でくつろいでいた。 少し離れた所では、僕を大便呼ばわりした双子が、お父さんに叱られていた。別に盗み聞きをしようと思ったわけではないが、耳に入って来る。どうやら、スキーをまじめに練習しなかったということらしい。 午前中、せっかく教えてもらったのに、午後からは勝手なことばかりして、ちっとも習ったとおりにやろうとしなかった、と。 無理もないと思う。なにしろ5歳だ。スキーよりも雪遊びの方が楽しいだろう。 そこへ、あおいさんが通りかかった。双子のお父さんに呼びとめられる。 コーチからもひとこと叱ってやって欲しい、というような要望だった。しかし、あおいさんは逆に、お父さんをたしなめた。 「選手にしようと思ってらっしゃるわけではないんでしょう?」 「ええ、まあ」 「だったら、好きにやらせてあげた方がいいと、私は思うんですけれど。あ、申し訳ありません。余計なことを申し上げて」 「ほら、あなた、先生だって、そうおっしゃってる」と、奥さんが言う。 「いや、それはわかってるよ。でも、せっかく基本を教えてもらったのに・・・」 「大丈夫ですよ」と、優しくあおいさんは微笑んだ。「子供達は覚えるのが早いですから。もう身体で覚えていますよ。嘘だと思ったら、また来年も来て下さいね。今日の午前中にやったように、子供達は滑りますよ」 「あら、来年もですって。商売がおじょうずね」と、お母さんも微笑んだ。 女性二人の連合軍に男一人ではかなわない。 「さあ、もう寝るぞ」と、父親は家族をしたがえてロビーを去った。 家族連れがいなくなると、ロビーは僕たちだけになった。 「有田さん、それじゃアヤメ荘にご案内します」と、あおいさんが言った。 「やった!」と、清花が叫んだ。 アヤメ荘とは、車で5分のところにある大規模温泉旅館である。このペンションには温泉は引かれていない。しかも、ユニットバスである。大浴場に入りたいという清花のリクエストにオーナーが応じてくれ、「なら、あおいに案内させましょう」と言う事になったのだった。 とはいえ、あおいさんも一通りの仕事を終えてからだから、既に時間は10時を回っている。にもかかわらず、僕たちはアヤメ荘でたっぷり1時間以上温泉を楽しみ、そして戻ってきた。 「何か、お飲みになりますか?」 ロビーに座りこんだ僕たちに、あおいさんが声をかけてくれる。 「いや、もう寝るよ。ありがとう」と、社長が言うのと、「じゃあ、ビール下さい」と清花が言うのが、同時だった。 「あんまり宿に負担をかけないようにね」と、社長。 「なんの、売上に協力しなくちゃ」と、清花は相変わらず調子が良い。 「ありがとうございます。じゃあ、ビールふたつですね?」 ふたつって、僕も清花に付き合うのか? 「ええ、お願いします」 僕が何か言う前に、清花は勝手に注文をしてしまった。 |
あおいさんは缶ビールを3本もってやってきた。 「せっかく売上に協力しようとしてくれたんですけど、お代はいいわ。私のおごり。そのかわり、缶で勘弁して下さいね。なんか、ちょっと疲れちゃって。片付ける気力が残ってないんです」 「気にしないで。缶で上等。お金も払うわ」と、清花。 「本当にいいの。ただ、ご相伴できればね」 「それくらい、かまわないよ」と、僕。 「ありがと。あなたたちならきっと断らないと思っていたわ」 「じゃあ、乾杯」と、清花が言った。 僕たちはプルトップを開けて、缶に唇を寄せた。あおいさんはどうやら一気に半分くらいあおったようだ。缶を口から離せば、さぞや豪快に「プハアー」なんてやるのかなと僕は思った。そういうのは清花で見慣れている。 けれどあおいさんは、大きなゲップのかわりに、深いため息をついた。 「どうか、したの?」 清花はあおいさんの顔を覗き込むように、言った。 「ううん、別に」 「別にって、なんだか深い悲しみに彩られているみたいよ」 「そんな、悲しみなんて。むしろ、嬉しいんだけどな」 「嬉しいって、そんな顔してないわよ」 「私は客商売よ。お客様の前では、いつもポーカーフェイスなんです。ニコニコはしても、喜怒哀楽はあらわさない」 そりゃあ、そうだよなと、僕は思った。 「1日の仕事を終えて、自分の部屋に戻って、一人でビールを飲んだりするのよ。嬉しい事があったときはニヤニヤと思い出し笑いをしたり、落ちこんだときはがっくりと肩を落としたり、ちょっと考え事をしたりとかしながら。でも、一人でしょ? 良くも悪くも感情を分かち合える相手がいたら、なんて思うんですよ。で、今、ちょっとお二人に甘えたりしてるんですね。橘さんと清花さんの前でなら、ポーカーフェイスをといても許されるかも、って。だから、ちょっと嬉しかったりするんです」 「いいわよ。あおいさんは、人を見る目があるわ」と、清花。 「うん、そうだね」と、僕も同意する。「でも、一人で色々な感情を処理するってのは、しんどいよな」 「一人でいることには、わたしはもう慣れたけれど」と、清花は言った。 「けれど、常に一人なわけじゃないでしょ? 一人じゃないときもあるから、一人でいても平気なの。いい恋愛をしている証拠よね」 「こいつのこと?」 清花は僕を見た。あろうことか、あおいさんまで僕を見ている。睨みつけるような強い視線で。でも、その瞳の奥には柔らかい光が宿っていた。 「いや、あの、ちょっと」 「和宣って、こういうシチュエーションには、すぐうろたえるのね。色々なことにこだわるのはもうやめようよ。で、『私たち、恋人同士です』って叫べばいいじゃない」 「あ、あのなあ。色々なことにずっとこだわってたのは、そっちだろーが」 言ってから、しまったと思った。清花がそこから抜け出すのに、どれだけの時間と気持ちの整理が必要だったのか、僕は知っている。いまさらそれを蒸し返すことはないのだ。 彼女の気持ちを後退させるようなことを言って、僕はひどく後悔した。だが、清花はそんなことはとっくに乗り越えていた。 「そうよ。こだわってたわ。けど、あなたが、わたしを引っ張り上げてくれたのよ。胸を張ってよ」 「わ、わかってるよ」 「わかってるなら、『こいつは俺の女だ』ぐらいの態度を示したら?」 「どんな態度だよ」 「そうねー。人目をはばからずにキスぐらいしてくれてもいいと思うけど?」 「キ、キス? 一目をはばからず? な、なんだよ、そりゃ」 僕がムキになりかけると、清花はクスクスと笑い始めた。つられて、あおいさんまで笑っている。 「あ、また、やられた・・・」 ひっぱりまわされるといういつものペースに、僕はすっかりのせられていた。ちくしょうと思いながら、僕はビールをグイグイと飲んだ。 |
「あーあ、そういうの、羨ましいなあ」と、あおいさんが言った。 僕はなんだかよくわからないなと思った。清花を見ると、「鈍い和宣には、わからなくていいんだよ」と顔に書いてある。ふん、ちくしょうめ。 「あおいさん、妊娠してる?」と、清花。 「ううん、してない。今度の人は、そういうのに気をつける人だから」 「じゃ、一本、失礼するね」 清花は煙草を取り出した。火をつけて、深く煙を吸いこんだ。 「ねえ、あおいさん、カウンセリングしてあげようか?」 「え? カウンセリング?」 「人の心の面倒ばかり見てあげてると、辛くなるでしょ、時々」 「まあ、ちょっと、ね」 僕はまた話が見えなくなった。キョトンとしていると、清花が今度は解説してくれた。 「あおいさんは、ただのスキーコーチじゃないの。和宣は気がついてないでしょ?」 「うん」 「昼間、例の男の子3人と滑った後、あおいさんは彼らと話をしていたでしょ? あれって、スキーのレクチャーっていうより、なんだかカウンセリングだったわ」 「そうね」と、あおいさんは言った。「ついつい、余計なことまで言っちゃうのよね。技術だけ教えていれば良いのに、メンタルな部分まで口を挟んじゃって」 「よくやるなーって、思ってたの。1日何人もの講習生を相手にしてるんだから、ビジネスライクにやらないと疲れちゃうよね」 「ビジネスライクって?」と、今度は僕が質問する。 「だから、スクール中は丁寧に教えてあげるにしても、ほら、終わった後は、『今日の受講生はまいったなあ』とか、『あんなに鈍い奴はスキーなんかするなよな。危なくてしょうがない。迷惑だよ。他の人の足ひっぱるし』みたいな、客の悪口を仲間どうしでいいあうとか」 「そういうの、私、嫌いだから」 「でしょでしょ? わたし、感じたのよ。そういうあおいさんを。ほら、食後に双子に説教をしていたお父さん、いたでしょ? せっかく教えてもらったのにまじめに練習しないで遊んでばかりいるって。その時、あおいさん、口出ししたじゃない。子供には楽しく遊ぶのが一番って」 「そこまでは言ってないわよ」 「でも、結論はそうよね。普通はああいうときは、スタッフどうし陰で『あーあ、可哀相に。好きに遊ばしてやればいいのに。選手にでも育てるつもり?』って言ってればいいの」 「だから、私、そういうの嫌いなんですってば」 「そ、わかってる。あおいさんはね、気を回しすぎて色々なことを背負いすぎちゃうのよ。それが悪いっていうつもりはないわ。事実、悪いことじゃないし、性格だものね」 否定されたんじゃないとわかって、あおいさんもほっとしたのか、少し表情が柔らだ。このあたりが清花の上手いところだ。決して相手を否定しない。にもかかわらず、相手の思いとは違う自分の意見を受け入れさせる。まず、相手を肯定すること。そこからしか実は始まらないっていうのを、よく知っている。 「背負いすぎ。でも、それは悪いことじゃないわ。でもね、たまには自分も背負ってもらわないと、疲れるだけよ」 「うん、わかってるんだけどね」 「まだ社長、起きてると思うな。もしかしたら、あおいさんのこと、待ってるかも。背負ってもらいにいけば? そのために、わざわざわたしと和宣を同じ部屋にして、自分は一人部屋を取ってるのよ」 え? え? 清花は何を言ってるんだ? どうしてあおいさんが社長の部屋に行くのだ? さすがに鈍い僕でも、「社長の方がわたしよりきちんとしたカウンセリングが出来るから、社長に話を聞いてもらいなさい」などと言ってるとは思えなかった。 と、いうことは、まさか? 「全額おごりで、社長がスキーになんて連れてきてくれるなんて、なんだか変だと思ったのよねえ。でも、まさか、慰安旅行だのなんだの宣言しておきながら、仕事まがいのことをさせられるとは思ってなかったわ」 「て、ことは、清花・・・」 「今ごろ気がついた? 社長の婚約者って、あおいさんよ。あおいさんの新しい婚約者ってのは、うちの社長。馬鹿みたいよねえ。お互い、結婚の約束までしておきながら、それぞれの過去に気を使いすぎて、『本当にそれでいいのだろうか』って悩みまくってんのよ。ま、二人とも、過去を背負ってるから、仕方ないけど。でも、しょうがないか。自分の過去に縛られてるんじゃなくて、相手の過去に気を使ってるんだもんね。もっとも社長にしたら、乗り越えたばかりのわたしに、こんなこと言われたくないだろうけれど」 「そ、そうなの? あおいさん」 僕はおそるおそるあおいさんを見た。 こころなしか彼女の目が光っている。 「ほんと、私のまわりには、優しすぎるひとばかりが集まってきちゃって。強引でマイペースなひとだったら、よかったんですけどね」と、あおいさんは言った。 「しょうがないのよ。社長の場合は職業病だから」 「でも、いいわね。清花さんは、広くておおらかな彼氏がいて」 「こいつの場合は、背負う過去なんてないし、根が単純だし」 おいおい、そこまで言わなくてもいいだろう。文句をいいかけたが、やめた。清花が一言付け加えたからだ。 「だけど、それが随分と救いなんだな」 「ふふ、わかるような気がする」 ちょ、ちょっと待ってくれ。そんなことまでわかってもらわなくていい。 「で、どうするの? 行くの? 行かないの?」と、清花。 「行くわ」と、あおいさんは言った。「行ったところで、いつもと同じように、優しく抱いてもらうだけになるかもしれないけど。でも、なんとかするわ。今の自分たちの為に、一歩、進みましょうって言うわ」 「そうよそうよ。お互い一緒になりたいって気持ちはあるんだし、愛し合ってるんだし。結婚までしようとしてるのよ。何を相手の過去に気を使う必要があるのかしら。ちゃんと言わなくちゃ」 「そうね」 「そうだ、いいこと教えてあげる」 「なあに?」 「赤ちゃん、作っちゃえば?」 「え?」 「だって、結婚するふたりに、何の問題も無いでしょ?」 「それはそうだけど・・・」 「ね、ちょっと・・・」 清花はあおいさんを手招きした。自らもあおいさんに接近する。そして、彼女の耳にそっと唇を近づけて、何かを囁いた。 「そ、そんな・・・」 「言えるでしょ、それぐらい」 「・・・さ、さあ、言えるかしら・・・」 「ま、がんばって。・・・・さ、和宣、私たちも部屋に戻ろ。いつまでもここでおしゃべりしていたんじゃ先へ進まないし、あおいさんを解放してあげなくちゃ。清花ちゃんのカウンセリング、終わりです」 そう言うと清花は、僕の手を掴んで、立ち上がった。いつまでもここでおしゃべりしていたんじゃ先へ進まないという清花の意見には僕も賛成だ。 それにしても、驚いたなあ。社長の婚約者が、あおいさん。清花はいつ気がついたんだろう? ロビーを後にして廊下を歩きながら、僕はそっと振りかえった。清花も振りかえった。あおいさんも席を立とうとしてた。 「上手くいくわよ、きっと」と、清花が言った。 |
僕たちは部屋に戻って、冷蔵庫にあるビールを取り出し、それぞれ2本目に手をつけた。 「ところで、清花、さっきなんて言ったの?」 「さっきって?」 「ほら、あおいさんの耳元で、コソコソと」 「やーだ、教えない。和宣に聞かれたくなかったから、耳打ちしたんじゃない」 「ちぇ、けち」 そんな話題はもう知らないよとでも言いたげに、清花はテレビをつけた。昔の映画をやっているようだった。著名な俳優の数十年前の姿がそこにはあった。途中から見ているのでストーリーはまるでわからなかった。さほど有名な作品でもないようだった。どこか投げやりな芝居が、そういう演技なのか、それとも本当に投げやりなのかも判然としない。清花を見ると、結構ご機嫌な表情で画面を見ていた。とはいえ、物語が頭の中に入っているようでもない。お節介が成功しそうな気がして気分が良いだけなのだろう。 ビールを飲み干した僕は空き缶をゴミバコに放りこむ。清花は煙草に火をつけた。僕は一足先に布団に潜り込んだ。 清花はゆっくりとタバコを吸ってから、テレビを消して、僕の隣にやってきた。ダブルベッドっていいなあ。 「教えてあげようか」 「え、何?」 「さっき、あおいさんに、なんて言ったか」 「うん」 「・・・・中で、出して・・・」 「あ、なるほど!」 社長はどうやらそういうことにはきわめてきちんとしているらしい。女性からそう言われたら、きっと頭に血が上るだろう。 「でも、あおいさんに言えるかなあ」 「言えるわよ、きっと。だって、過去と決別して、新しい家族を私たちで作っていきましょう、ってことなんだもの」 「わけわかんなくなったら、いつもそう叫んでる清花とはちがうんだぜ」 殴られた。 |