結局僕は、ユースホステルにも紹介された宿にも泊まらなかった。なぜなら、空腹のためにそのへんにある大衆食堂に入り、そして、そこで紹介してくれたオスタル(民宿)に腰を落ち着けたからだ。 僕はその食堂で韓国人の女の子と知り合った。英語が上手で、笑顔がやたらと人懐っこく、明るくて賑やか。同じアジア系の顔をしているので、きっと彼女は僕に親近感を抱いたのだろう。 「どちらから?」 「日本」 「今日はコルドバに泊まるんでしょ?」 「ああ。よくわかったね」 「だって、もう夕食の時間だもの」 言われてみればその通りだ。 「どこに泊まるの? ここから近いの?」 「いや。まだどこに泊まるか決めていない」 「え? ほんとに?」 「本当だよ。まあ、アテはあるんだけどね」 「どこ?」 「ユースホステル」 「満員かもしれないよ。昨日、行ってみたら満員だった」 「だけど、今日はわからないだろう?」 「それはそうだけど、でも、満員だったらどうするの?」 「いや、もう一軒、紹介してくれているところがある」 「そこも満員だったら?」 「いや、そこは絶対に満員にならない」 「どうして?」 「あまり質の良い所じゃないらしいから、絶対に満員にならないって、オーナーの弟が言っていた」 リー・ジェニーと名乗った彼女は、ケタケタと笑った。そりゃあそうだろう。自分の兄貴が経営している宿を、実の弟がけなすのだから。僕もつられて笑った。 ちなみにジェニーというのは彼女が海外旅行の時に自分で使っている「英語名」で、本名はそれに近い韓国名なのだそうだ。 「私が泊まっているところへ来る?」 「そうだなあ……」 考えあぐねていると、食堂のウエイターが「そうすればいい。そうすればいい」と横槍を入れた。 「私も彼に教えてもらったの。彼の友達がやってるんだって」 「ふう〜ん。若いオーナーなんだ」 そのウエイターはどう見ても20代前半にしか見えなかった。 「俺の友達じゃない。オーナーは友達の両親だ。友達はロクデナシだが、お父さんとお母さんはいい人で、遊びに行ったらいつも歓迎してくれる」 「今夜、空いてるのかい?」 「ああ、空いてるよ。毎日連絡がちゃんと来る。この食堂に来た旅行者を紹介するんだ。で、その宿に泊まっている人は、紹介されてここにご飯を食べに来る。もちつもたれつってやつさ」 もちつもたれつと言えば聞こえはいいが、要するに知り合いで客を回しあいしているだけのことである。普段の僕だったら、こういうスタイルに拒絶反応を起こしていたに違いない。しかし、旅に出て心が鷹揚になっているせいもあるし、ここの食事がおいしかったせいもあって、「じゃあ、そこにするよ」と僕はその場で返事をした。 「オスタルとしては安くはないけど、でも、いいところよ」と、ジェニーが言った。 |
それにしても、今回の旅はよくよく人に話しかけられる。そして、それが単に「おしゃべり」で終わらずに、なんらかの自分の行動に結びついてゆく。 いや、それこそがまさしく旅なのだろう。 もし僕がビジネス旅行で、スーツなんぞを着てて、そして食事をしていたとしても、きっと誰も話しかけては来なかったろう。 自分で言うのもナンだが、今の僕は、「こいつに声をかけてみようかな」とか「こいつは地の利を得ないよそ者に違いない。ちょっと世話くらい焼いてやらないといかんな」とか、そんなことを会う人に思わせる雰囲気を持っている。 今の僕には防御壁がない。自分の世界の殻に閉じこもってもいなければ、何かを拒絶しそうな険しい顔もしていない。大きく開いている。しかも、開いたその中は、ものすごく広い。決して空っぽなのではない。ただ、広いのだ。 旅の自由に全身を浸している。 そう、まさしく旅人なのだ。 もちろん、何でもかんでも受け入れる状態にあるわけではない。僕の旅には目的がある。黄金丘陵に立つ古い寺院をこの目で見ることだ。しかしそれも、実はどうでもいいような気がしてきた。というのは、それは単なる旅立ちのための動機であって、旅に出てさえしまえば、旅の途上にある自分を楽しむことこそが本当の目的だったのではないかとすら思えてくるからだ。 コルドバは、8世紀にイベリア半島に進出しそのほとんどを征服したアラブ人によって、西イスラム帝国の首都とされた街である。食事を終えた僕は、ジェニーに導かれて宿のある旧市街を歩く。細く入り組んだ路地が張り巡らされ、案内人がいなければ迷うような場所だ。そして、たどり着いたのがパティオのひとつ。中庭を囲んだ3階建ての建物。本来は長屋ともいうべき共同住宅だったらしいのだが、今はそのたてもの全てが宿屋になっている。 管理人の家族が1階の一角に住み、それ以外の部屋がゲストルームだ。 日本円にして4000円程度の宿泊料を了解して、僕は鍵をもらった。ジェニーは僕のキーホルダーに書かれた部屋番号を確認すると、僕が荷物を置いてベッドに座り込んだ途端に部屋を訪ねてきた。 二人で個室にいるのもなんだか妙なもので、僕は彼女を誘って散歩に出た。日はとっくに暮れている。この街の治安はどうだったかなと一瞬考えたが、まあどうでもいいや。 あれほど複雑に思えた旧市街もそれほど大きいわけではなく、10分たらずで繁華街に着く。適当な店に入って、スペイン産の甘口白ワインで乾杯した。 |
オスタルに戻ると、当然のごとくといった感じで、またジェニーが僕の部屋にやってくる。 気になることはいくつかあった。僕はまだこの街で何の情報収集もしていない。黄金丘陵へ向かう直通バスがあるのか、ないのか。バスの出発時間はいったいいつのなのか? しかし、こんな時間にいったいどうやって情報なんか集めればいいのだろう。インターネットという手もあるが、この宿に宿泊者用のパソコンが設置してあるとは思えない。オーナーに聞くとうい手もあるが、それなら明日の朝で十分だ。いや、バスは一日一本でしかも早朝、教えてもらった時には出発した後、なんて最悪のこともあるかもしれないが、その時はその時だ。 ああだこうだと考えていると、ジェニーは僕を見透かしたのか、「どうしたの? 何か気になることでもあるの?」と訊いた。 他に話すべき話題もないので、多少面倒な気はしたが、僕は今回の旅の動機を順番に彼女に語って聞かせた。 きっと彼女にとっては興味の無い話題だろう。なぜなら、彼女は彼女なりに旅の目的を持ってこの地に来ているのだ。にも関わらず、ジェニーは一生懸命聴いてくれた。 そして、「ステキね」と一言だけ感想を述べた。 ステキねと言われて、さてどう返事したものか。ステキかどうかなんて実は行ってみなければわからない。しかし、そんなことを僕が言うのは、熱心に話を聴いてくれた彼女に失礼だろう。そこで僕は、「キミはどんな旅をしているの?」と質問した。 「そうねえ」と、彼女は少し考えてから、腰を上げた。 「それを語るには、少しアルコールが足りないわ」 ジェニーは自分の部屋から缶ビールを2本持ってきた。常温放置されていたものらしく、生ぬるくて美味しくなかったが、何も無いよりはマシだろう。 「一昨日、マドリッドに着いたの。2週間の休暇で、アンダルシア地方を中心に旅するつもり」 彼女の旅の説明はそれで終わってしまった。決して「アルコールが足りない」ような長いエピソードなんかではない。 そして僕たちはお互いのプライベートなことについて喋り始めた。 |
目が覚めたのは午前9時30分。朝寝坊したようだが、これでも3時間ほどしか寝ていない。でも、僕はシャッキと行動をし、10時には旅立ちの用意を整えていた。 昨夜の宿泊料を支払おうとすると、「ああ、今晩も泊まるんだね?」と宿のおばさんに言われた。 「いや、出発するんで、支払いを」 「何を言ってるんだよ。やだねえ、この人。うちは前払い制だよ。今、金を払うって言うんなら、それは今晩の宿泊料だろう?」 しかし、僕はチェックインの時に金を払っていなかった。 「あれ? そうだったかしら?」 おばさんは結局、自分の記憶に自信がもてないまま、「まあ、客が払うって言うんだから貰っとこうかねえ」みたいな感じで、僕から金を受け取った。 「それにしても、よく眠ってたねえ。こんな時間までいる客はたいてい『もう一日、もう一日』ってダラダラ泊まっていくんだよ。だからあえて客を起こしたりしないのさ。ちゃんとしたホテルなら、『お客さん、チェックアウトの時間ですよ』な〜んて電話をかけるんだろうねえ。うちには客室に電話なんてないしね。だから、ウチでは客を追い立てたりしない。放っておいたら、たいてい『あのお、もう1泊したいんですが』って言ってくるからね。だから、私もその客が何日分のお金を払って何日間泊まっているか、時々わからなくなるんだよ」 そうは言っても僕はたった1泊である。 「そんなんでよく商売になりますねえ」と、僕は呆れて言った。 嫌味のつもりはない。本当に呆れたのだ。 「だからウチは前払いで金をもらうのさ」 おばさんは胸を張って言った。いや、だから、昨晩に僕から徴収するべき金を、あなたは忘れていたじゃないですか……。 僕はともかく1泊分の金を渡し、あいさつをして宿を出た。窓からジェニーが顔でも出してくれないかと振り返ったが、彼女の部屋の窓は閉ざされたままだ。そのかわり、宿のおばさんが首をひねっていた。僕から受け取った金はまだ彼女の掌の中だ。 もしかしたら僕は、本当は昨晩お金を支払っていて、僕こそがそのことを忘れているんじゃないかと不安になった。 |
僕は旅行案内所で古い寺院の立つ黄金丘陵への行き方を訪ねた。 その地がそこではないかという地名と、僕の記憶にある風景の様子を話すと、案内所の係員はポンと手を打った。「それは確かにそこだよ」と。 「ここからはどうやって行くんですか?」 「バスでも鉄道でも行ける」 「なら、出来れば鉄道で行きたいんだけど」 「だけど、駅から80分くらい歩くよ」 「バスだったら?」 「目的地を通るよ。でも、今日はもうないねえ。なにしろ、一日一本だから」 おいおい……。 「鉄道はあるの?」 「1時間に1本くらいあるよ。みんな鉄道を使うね」 「みんな80分も歩くの?」 「さあ? 駅に車を置いておくんじゃないの? でなけりゃ、家族や友達に迎えに来てもらうとか」 「なるほど」 「向こうに知り合いは?」 「いない」 「じゃあ、がんばって歩くんだね」 「そうするよ」 各駅停車にゆられて約2時間だと教えてくれた。特急も走っているが、途中で普通に乗り換えなくてはならない。特急に接続するその普通列車は今から駅へ行けば間に合うと言う。つまり、その普通が後から出る特急に途中で追い越されるわけで、到着時間は変わらないのだ。 「がんばって歩けよ」 案内所の係員に見送られて、僕はコルドバを旅立った。 |
それにしても、80分かあ。切符を買い、駅のベンチに座ると、僕は頭を抱えた。荷物はバックパックひとつだが、決して軽くはない。 便利なバスが一日一本で、不便な鉄道が1時間に1本とは、どういうことだろう? そんな誰も彼もが80分もかかる道のりを迎えに来てくれるのだろうか? いや、歩けば80分かかったとしても、車ではそんなにかからないのかもしれないな。 実は考え込んでいるうちに目的の列車に乗りそびれてしまったので、他にすることもなく、僕は計算を始めた。 80分とは、どれくらいの距離だろう? 歩行速度が時速5キロとして、80分あれば7キロ弱の距離を歩ける。しかし、途中で休んだりもするだろうから、おそらく6キロくらいだろう。ということは、時速60キロで車を走らせたらわずか6分だ。とはいえ、信号待ちや道路の状況もあるだろうから、計算通りにはいかないだろう。一般国道を走るときは平均時速30キロでスケジュールを立てるべきだと誰かが言っていたのを思い出した。 しかし、だとしてもわずか12分だ。 なるほど、その程度なら迎えに来てくれるだろうし、おそらく駅の周辺に車を放置していても咎められないような田舎の駅でもあるのだろう。 |
特急の発車時刻が近づいてきたが、まだ正午にもなっていない。鉄道で2時間、その後徒歩で80分かかるとしても、3時から4時の間には目的地につける。十分だ。 さらに僕は次の普通列車を待つことにした。 |
列車は市街地を出ると、焼けた白い風景の中を走り始めた。各駅停車といっても、それほどたくさんの駅があるわけじゃない。景色に飽きてまどろんでは目を覚まし時計を確認する、という繰り返しで時間をやりすごした。 下車駅の到着時刻は、検札にやってきた車掌に確認してある。 列車が遅れることはあっても、予定より早く着くことはない。到着時刻になっていなければ、居眠りしてても乗り過ごしてはいないのだ。だいたいずっと起きていたって、現在地を把握できるわけではない。土地勘のない異国なのだ。 乗車前に仕入れておいたバケットをかじり、ミネラルウォーターを飲む。 そうこうするうちに列車は僕の下車駅に停車した。 ザックを背負い、「さあ、歩くぞ」と気合を入れて、駅前に立つ。 駅舎の外は、何もなかった。荒野に鉄道の駅だけがある。太陽に照らされた地面は黄土色などとは程遠く白に近い輝きを反射し、遠く近くにそれぞれがポツンと孤立した木が立っている。緑の葉はつけているが、なんとなく埃っぽい。日本の初夏の濃い緑とか、あるいは梅雨時期の鮮やかな緑が懐かしい。まったくの平野ではないが、視野を遮るような起伏はない。遥か向こうに小さな丘があり、中途半端にゆるいカーブを繰り返しながら目の前に伸びる道は、その丘の向こうへ回りこむように消えていた。おそらくその先が集落だか村だか、今夜の僕の宿がある所だろう。 駅の外に降り立ったのは僕の他には4〜5人。駅前に止めてあった車や、迎えに来ていた車に乗り込み、あっという間に人々は去った。僕はその場に取り残されたような気分になった。 まだ5分も歩いていない。しかし、景色はまったく変わらなかった。人間の歩くスピードなんてたかだか知れているのだ。 車の姿はもう見えない。舞い上げた砂塵すらも風の中に消え去った。 猛烈な孤独感が僕を急に不安にさせた。 せめてこの道の先にユースホステルがあるのかとか、古い寺院の立つ丘陵があるのかとか、その程度のことは駅で聞いておくべきだったと後悔した。いや、まだ間に合う。僕は荷物をその場に下ろし、駅へ戻った。 そして気がついたのだが、駅舎とは反対側にも道が伸びている。そちら側には駅からは行けないのだが、それは単に出口が線路の片方にしかないからであって、線路を横切れば向こう側の道を進むことも出来る。僕は「まさか」と思った。駅員に尋ねて「それはあっちだよ」と言われたら、また荷物を取りに戻らなければならない。うんざりした。 おまけに窓口にはカーテンが降ろされている。 ちょ、ちょっと待てよ。もう本日閉店なのか? いや、そんなはずはない。このあとだって、ほぼ1時間おきに列車がやってくるのだ。いや、上り下りをあわせたらその倍になる。なのに、どうしてカーテンが閉ざされているのか? 僕は窓口をノックした。 間もなく迷惑そうな顔をした駅員が姿を見せた。 「列車はしばらくないよ。マドリッド方面は1時間後。コルドバ方面も45分後。窓口は5分前に開ける」 「いや、そうじゃなくて、道を訊きたいんだけど」 「ユースホステルだったら、あっちだよ」 「え?」 「違うのかい?」 「いや、そうだけど、どうして……」 どうしてわかったんですか、と訊こうとすると、駅員が先に答えた。 「旅行者でバックパッキングだったら、ユースホステルだろう?」 「なるほど」 僕はもう一度方向を確認して、礼を言って駅を出た。最初に進んだ方向で間違いなかった。やれやれだ。 |