黄金丘陵の古い寺院

放浪が身に付いたようなシャルルのことだ。旅先で偶然出会った僕のことなど、さほど印象に残っていないに違いない。僕は彼女からメールなどほとんど期待していなかった。けれども、万が一、ということがある。もし彼女が僕にコンタクトをとろうとしているのなら、旅人同士の礼儀として、何らかの返信ぐらいはしてあげたいと思う。 　そうなのだ。これはあくまでも旅人同士の礼儀なのだ。 　連絡をとりあって、是非にとも会いたい、というわけではない。 　もちろん、僕は彼女にもう一度会いたいと願っていた。不思議に魅力的な女の子だった。唇を重ね合わせた仲でもある。日本に帰れば僕にはちゃんと恋人がいる。でも、これは浮気などではない。恋人を取り替えようという気も無い。でも、僕が彼女に寄せる想いは、恋人に対するそれに似ているような気がした。寝たいか？　と問えば答えはイエスである。 　けれどそれは、恋人というにはあまりにもほのかな想いであり、同時に、親友に寄せるような確固たるものでもあった。けれど、旅先だからとか、その場限りだからとかいう、遊び的な気持ちでもなかった。 　ある意味、惚れてはいたのだろう。 　あえて言うなら、もっともっと、彼女に近づきたい。これ以上ないというほど近づきたい。それには、寝るしかないのだ、という気持ちだった。 　しかし、このメールチェックは、そんな気持ちとは全く関係ない。もし、シャルルが僕に便りを寄越してきたのであれば、当然、それに報いなければならないという礼儀なのだ。だから、彼女からなんら連絡がなかったとしても、それだけのことだ。もう一度会って寝たい、という気持ちと、これとはどこにも接点はない。 「あんな放浪娘がマメにメールするわけがないよな」 　僕は確認するように口に出した。エクスプローラーで無料のウエブメールのページを開き、ＩＤとパスワードを入力する。そして、メール一覧を見た。 「え？」 　予想に反して、彼女からはちゃんとメールが届いていた。 「えっと、メールありがとう。別れた直後に書いてくれたのね、か」 　そうか。半ば忘れかけていたけれど、彼女へメールを送ったのは僕が先だ。アルヘシラスでさっそくネットカフェから送っていたっけ。 「メール」という単語だけは英語で書かれており、それ以外はローマ字だった。読みにくい。 「anatano eigoryoku ga wakaranai node romaji de kakukedo tugikara wa yokereba eigo de yaritori shimasho」 　あなたの英語力がわからないのでローマ字で書くけど、次からはよければ英語でやりとりしましょう。 　ローマ字を読むのが大変なのは、彼女も身をもってわかっているようだった。句読点部分だけでなく、単語と単語の間にスペースが入っているのも彼女の思いやりだった。ローマ字でのやりとりに相当辟易しているのかもしれない。 　彼女のメールの要旨は、黄金丘陵の古い寺院には辿り着いたか、今はどこにいるのか、そして、目的地で滞在しているのなら、いつまでいるのか、あたしもそこへ行ってみようかな、行ったら会えるかな、というようなことだった。 　僕は英語で返信した。目的地にはついた。ユースホステルに泊まって、長期滞在してるらしい仲間とダラダラすごしている。来る気があるのならスケジュールギリギリまで待つので、是非おいで。そんな内容である。 　ただし、「ダラダラ」をどう表現していいのかわからなかったので、"daradara"と表記した。 　僕は興奮していた。 　毎日、お互いどこで何をしているのかわからない僕とシャルルが、こうしてはっきりと意志を疎通させ、そして、再会の約束を果たしたのである。 　そうなのだ。僕たちはもう一度会えるのだ。 　そうとわかると、さっきまでの「これ以上ないというほど近づきたい」とか、「彼女と寝たい」などという気持ちすら霧散してしまっていた。ただもう、会えるということだけで舞い上がってしまっていたのだ。 　僕は頭の中で日数計算をした。帰りの便は？　そこまでの行程は？　逆算して、あと何日ここにいられる？ 　シャルルはいまどこにいるのだろうか？　そのことについてはメールには書かれていない。しかし、すぐさまかけつけることが出来るのならば、明日の寺院訪問は中止して、彼女と一緒に行く、というのはどうだろうか。 　いやいや、ジルもエイショーもシンディも、その気になっている。明日はみんなでサンドイッチを作ろうなどと打ち合わせも済ませている。僕の勝手な中止は、彼らをがっかりさせるだろう。なら、どうする？　シャルルが到着した時点で、もう一度行けばいいのだ。今度はふたりっきりで。そして、思いっきり彼女を抱きしめて、キスするのだ。 　そこまで考えて、僕はにんまりした。 　いつまでここにいるのだ？　せっかくヨーロッパまで来て、いかに心穏やかになれるからといって、いつまでもひとつところに滞在するのは考えものだ。ユースホステル到着以後、そんなことを全く考えないでもなかった。ここの居心地が妙に良かったからなおさらだ。 　けれど、決めた。スケジュールが許す限り、ここでシャルルを待とう。 　それは決して退屈なことではない。居心地のいい仲間たちがいる。まして、シャルルの到着を待つのだ。高揚こそすれ、退屈などするわけがない。僕は毎日でも彼らに夕食を作り、ワインを奢ってもいいような気分になっていた。 　まさかと思いながら、パソコンの電源を落とす前に、もう一度メールチェックをした。 　驚くべきことに、シャルルからの返信が届いていた。 「待ってて。行くわ。出来るだけ早く行くようにする。そこにはいつまでいられるの？　また連絡するね」

その夜は、眠ったのか眠っていないのか、よくわからない一夜だった。 　いったん寝床についたのに目が冴えた。シャルルが今にもこのユースホステルの扉を開けて入ってくる光景が、何度も何度も頭の中で繰り返された。 　喉の渇きに耐えかねて、厨房の冷蔵庫にある瓶のコーラを拝借し、部屋に持ち込んだ。拝借といっても、朝にはオーナーに申告して代金を払うのだが。 　半分ほど飲むと、もう十分だった。夕食とワインで相当お腹が膨れており、これ以上入らない。 　しかし、炭酸が抜けて生ぬるくなったコーラなど、飲めたものではない。このまま置いておいても、朝にはもう捨てるしか仕方の無いシロモノになっているだろう。 　厨房に戻って、ラップをして輪ゴムをかけ、冷蔵庫に戻しておけばいいのだろうけれど、それもなんだか面倒だった。僕は残りのコーラも無理やり胃に流し込んだ。 　そのせいで胃がパンパンに張ってしまい、余計眠れなかった。 　しかし、一瞬はまどろんだのだろう。目覚めは、とてもはっきりしていた。さっきまでぐっすり眠っていて、そしてパチッと目が覚めた時と同じく、頭の中はスッキリしていた。

「おはよう。よく眠れた？」 　ロビー兼ダイニングのソファにもたれて、自分で淹れたコーヒーを飲んでいると、シンディが厨房からやってきた。 「う〜ん、あんまり寝なかったけれど、妙に頭の中はスッキリしてるよ」 「じゃあ、サンドイッチ作るの、手伝って。ジルもエイショーもまだ起きてこないのよ」 「シンディが早起きすぎるんだよ」 　時計を確認すると、まだ６時半を過ぎたばかりだった。 　だとすると、僕はいったい何時ごろから睡眠に入り、そしてどれくらい寝たんだろう。普段の生活から考えると、あきらかに寝不足になっているはずだ。しかしながら、仕事が立て込んで残業が続いたときのように、睡眠不足が慢性化してる、というわけではない。僕は、昨日もその前も、朝寝坊した。９時頃になってようやくみんながぞろぞろと起きてくるという生活だった。時差や旅の疲れはすっかり解消していた。昼間だって、一夜の睡眠で解消できないほど疲れるようなことはしていない。だから今朝の僕は元気なのだ。 「わかった。手伝うよ」 　飲みかけのコーヒーを手に、ロビーからキッチンへ、シンディとともに向かう。途中、事務室の扉があり、僕はチラとそちらを見た。 　またなにか、シャルルからメールが来ているかもしれない。 「そうそう、メール。彼女から来てた？」 「来てたよ」 「返事、した？」 「もちろん」 「じゃあ、また返事が戻ってきてるかもしれないね。パソコン、あけてみる。別に急ぐハイキングじゃなし、したいことがあったらしていいわよ」 「お互い旅の身だよ。そんなに早く返信が戻ってくるものか」 「それもそうね」 　僕は嘘をついた。シャルルからは速攻で返事が来ており、僕はあのあと、「待ってるから出来るだけ早くおいで」とさらに返信をしていたのだ。 　もしかしたら、それにさらに返信が届いているかもしれない、という期待はあった。だけど、慌ててメールのやりとりをする必要は、もはや、ない。シャルルはこちらに向かっているし、僕は待っている。それだけだ。

キッチンは綺麗に片付いていた。まだ何の作業も始まっていない証拠である。どうやらシンディは、僕より後から起きてきて、ロビーに気配を感じて「手伝って」と声をかけたに過ぎないようだった。 「わたしもコーヒー、飲もっと」 　コーヒーだけなら、ロビーで淹れられる。だったら、焦ってキッチンに移動しなくてもいいのにと僕は思った。 　僕は飲みかけのカップを作業台の上におき、適当な丸椅子を引き寄せて座り、シンディの動作を見ていた。シンディも自分のコーヒーの準備を終えると、僕と同じようにして座った。僕のすぐ隣である。 　そしてシンディは、一口コーヒーをすすると、僕の顔を見つめてニッコリと笑った。 「何？」 「ううん、別に。ただ、恋愛してる男の顔って、いいなあって」 「日本にはちゃんと恋人がいるんだ。だから、恋愛っていうわけじゃない。ただ、なんとなく魂が通じ合うというか、そういう女の子と出会えて、それは旅先の一瞬の出来事なのに、またもう一度、会える。そういうことが嬉しいだけなんだ」 「それって、恋愛よ」 「そうかな」 「そうよ」 　しばらくの、沈黙。 「どれくらい、会ってないの？」 「日本の彼女？　それとも、旅先の彼女？」 「旅先の、に決まってるでしょ？」 「随分会ってないような気がするけれど、実はほんの数日なんだよね」 「ふう〜ん。で、再会したら、ギューって抱きしめたり、するのね」 「さあ、どうだろう」 　僕はしばらく考えてから、「多分、するだろうな」と答えた。 「いいなあ。旅に出ると、そういうのって、偶然だけが頼りだものね」 「そうだね。でも、それが目的で旅するわけじゃないから」 「あら、そうなの？　そうよねえ。日本に恋人がいるなら、そうかもしれないわね」 「きみは、シンディ？」 「故郷に恋人がいるように見えるかしら？」 「うーん、ごめん。残念ながら、見えない」 「その通りよ」 「だけど、ジルといい雰囲気じゃないか。僕はキミとジルは、とっくに通じ合っている仲だと思ってたけど、そうじゃないの？」 「そうしてもいいんだけれど、なんか、怖くって」 　シンディはコーヒーを口元に運び、少し考えているようだった。 「毎晩、色んな話をするじゃない。そしたら、わかってきちゃったのよね。お互い、似たような傷を抱えているってことに。それを埋めあうように抱き合ってごらん？　きっと、戻れなくなっちゃう。深みにはまりそうで、怖いの」 「お互いフリーなんだから、いいじゃないか」 「良くないわ。旅が終われば他人だもの。もう一度会うには、遠すぎる。それだけじゃないわ。いろんな意味で、あの人は人生のパートナーになる人じゃない。全く違う世界の人よ。たまたまここで出会っただけ」 「僕とシャルルだってそうだよ」 「もちろんよ。けれど、それっきりで終われるでしょ？」 　僕は、さあ、どうかなあと考えた。シンディの思考とは異なっているかもしれないが、例えば未来永劫会えなくても、それはそれで平気だと思った。会えることは嬉しいけれど、それは会えないはずなのに会えるからであって、あれこれ苦労して調整してわざわざ会うために段取りをつけるような相手じゃない。 　僕は頷いた。 「でしょ？　そういう関係が羨ましいの。そういう出会いがしたくて、旅してるの」 「そっか……」 　また、沈黙。シンディのコーヒーは飲み頃かもしれないが、僕のそれは、すっかり冷めてしまった。ずずっと飲み干してしまう。味は悪くない。いい豆を使っている。 「まあそれもいいかなって思うんだけど、すぐ隣に、こんなに理想的な出会いをしている人がいると、ちょっと羨ましくなるな」 　シンディが僕の肩に頭かたむけてちょこんと載せてきた。 「別に羨ましくはないと思うけれど」 「性欲って、ちょっとやっかいなのよ。そんなの意識すら今までしなかったけれど、隣にこうして、羨ましいヤツがいると、むずむずしてくるわ」 　僕の首にシンディがキスしてくる。それくらいいいかなと、僕はシンディのしたいようにさせていた。舌先が首筋に触れ、スッと動く。 　僕は「ひゃ！」っと声を上げた。 「こそばい？」 「ちょっとね。でも、悪い気はしない」 「ジルとね、こんなことしたいんだ。でも、歯止めが利かなくなるから。我慢しているの」 「そうだね」と、僕は一応同意しておいた。僕は流されてそのままベッドインっていう経験は何度かある。あっさりした気持ちでコトを終われる場合もあるけれど、あとにひきずってしまって辛くなる場合もある。どちらも知っている。だから、今更、「我慢する」なんて気持ちを抱くことは無い。所詮、その場限り。そう思えば、辛くてもなんとか乗り切れることを知っているからだ。 　でも、シンディは違う。辛くなるとわかっているなら、我慢する。そういうタイプの女の子なのだ。 　流れてしまえば、楽になることもある。僕はそう思ったが、それは口に出さないことにした。 「ねえ、してあげようか？」 　シンディは唐突に、右手で男性器を握り、先端部分を舐めるポーズをした。 「あなたとなら、大丈夫だと思うわ」 　僕のは既に張り詰めていた。首にキスされたときから、徐々に反応し始めていた。今は最大限に膨張している。彼女が僕を誘っているのがわかっていたからだ。 「ジルとの方がいいんじゃない？　キミにとっては、その方が癒されるよ」 「癒されるけれど、落ちちゃうじゃない。落ちたら困るの。でも、あなたとなら大丈夫よ。ね、してあげるよ。ううん、させて」 　シンディは僕の手を取って、彼女のショートパンツの裾へ導いた。指をそっと入れてみる。シンディは下着をつけていなかった。もう既に溢れかえっている。少し指を先へ進めるだけで、液体によって彼女の中心部分に導かれる。 「うん……、あ」 　声を小さく発しながら、シンディは僕のジャージの上から、僕のものに触れた。 　そのとき、キッチンの扉が開いた。 　エイショーが起きてきたのか？　それとも、ジルか？ 　ジルなら最悪だと思った。 　シンディとジルは肉体関係こそ持っていなかったが、最大限気持ちを共有している。それは僕にも察知できた。いつ、肌を交えてもおかしくないくらいの位置に二人はいるのだ。 　そんなジルが、僕とシンディのこんな行為を目にしたら、どれだけ傷つくというんだ。シンディだって、同様だ。これまで、シンディはジルとのの穏やかな関係で心の平穏を保ってきたのだ。それが音をたてて崩れていく。この地で癒されかけていたものが全てパーになってしまう。 　僕は後悔した。 　こんな誘惑には乗るべきじゃなかったのだ。 　扉を開けたのは、ジルか、それともエイショーか。エイショーならまだ救われる。彼はきっとこのことを口外しないだろう。

「お。もう起きていてくれたか。助かった。今日は忙しいんだよ」 　やってきたのは、ユースホステルのオーナーだった。 「悪いが、出かけなくちゃならない。いつもより時間は早いが集金だ。あとの二人がまだ眠っているのなら、悪いけれど、立て替えておいてくれないか？　本当に急ぐんだ」 　ジルでもエイショーでもなかった。 「ひい〜！」 　安堵のあまり、力ない悲鳴のようなため息が出た。 「どうした。持ち合わせがないのかい？」 「いえ、喜んで払いますよ」と、僕は言った。そして、気がついた。僕の指は、まだシンディのショートパンツの中だ。溢れ出ていたジュースが、急速に乾いていくのがわかった。 　僕とシンディは顔を見合わせてケタケタと笑いあった。

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