保健の先生からは2時間目が終わるまで休んでいるように言われたが、あいつ、室尾哲西にメールを打ったり、さらに考え事をしたりして、なかなか寝ることができなかった。 ここでストンと眠りに落ちたら楽だろうな、などと何度思ったことだろう。 保健の先生に言われるまで気が付かなかったのだが、私は実際のところ睡眠を欲していたのだと自覚した。それは睡眠不足だからではない。睡眠時間とかかわりなく、人はパワーが不足したら眠るようにできている。 だが、こんなときに限って眠れないものだ。 保健室のベッドの傍の窓はすりガラスになっているから外の風景を見ることはできない。けれども、体育の授業を受けている生徒たちの声が響いてくるから、頭の中でその像を結ぶことはできる。規則正しい掛け声はトラックを何週か走らされているのだとわかるし、その後時々ワッと上がる歓声からは、ランニングを終えた生徒たちがソフトボールかバレーボールのゲームをやっているのだと想像できる。 見えない風景を見るのは結構楽しい。しかし、「眠らなくちゃね、少しぐらい」と思って私は目をつぶる。そのとたん、異形のものの気配が近づいてきた。そいつは首から先を壁からにゅっと保健室の室内に突き出していた。眼球が半ば飛び出したその目はギョロリと開いており、頬はこけているのに骨だけが前に突き出て、剥き出しになった歯茎には犬歯がずらりと並んでいた。肌の色はどす黒かった。鼻は低いというよりも薄い。それが頂きの部分から頬骨にそってのっぺりとはりついていた。 私はやれやれと思った。 眠ろうとしているときに限ってこんなにはっきりと異形のものが姿を現すなんて。瞼を閉じていても異形のものの姿は見えるのだなあと改めて思った。せめて気配だけにしておいてくれれば良さそうなのに、まるで私に気がついて欲しくてそうしているみたいに、それはこちらをじっと見つめていた。 その視線は、睨んでいるのではなかった。見つめていた。 それは私に何かを言いたい、伝えたい、と思っているようだった。そういう意思を感じる。 幸い、悪意を察知したりはしなかった。できることならそっと耳元で何かを囁きたい。そう思っているようだった。 「ごめんね、今は眠りたいの」 私は心の中でつぶやいた。 「あとで、ゆっくり聞いてあげるわ。目が覚めたら」 異形のものは、その姿をすっと壁の奥に引っ込めた。 |
それから間もなく私は眠ってしまったようだ。次に目が覚めたのは3時間目が終わろうというころだった。このまま保健室を出て校門へ向かへば、その間に授業が終わって休み時間になりそうだ。誰かに会えば一通り早退の理由を説明しなくてはならないだろう。それが面倒だった。 私はチャイムが2回鳴り、4時間目が始まってからベッドを降りた。 保健の先生に挨拶をした。 「ほうらね。睡眠不足なのよ。こんな時間になるまでちっとも目が覚めなかったでしょう?」 担任には保健の先生から早退の連絡をしてくれるというので、そのまま校舎を後にした。 |
学校を出てすぐのところにある小さな公園に寄った。2歳か3歳か、まだ幼稚園にも行けない年齢の子供がお母さんに連れられて散歩にきていた。他には人影はない。 こんな時間に制服を着た女子高生が公園をうろついているのに、そのお母さんは私を不信がることもなく、チラリと見ただけですぐに視線を我が子に移した。きっと自分の子供にしか興味がないのだろう。 いったん公園を出た私は自動販売機で缶コーヒーを買い、再び戻ってきた。ベンチに腰をかけてタブを開け、鞄の中から携帯電話を取り出した。 哲西からメールが届いていた。 「了解。帰りに寄るよ。相談ってなに? 愛の告白だったらうれしいな」 テンションが下がっている私はこのメールに多少救われた気がした。 (よく言うよ、その気もないくせに) 頬の筋肉が自然と緩む。 愛の告白なら、そっちからしてくれればいいのにと思う。 哲西のことは嫌いじゃない。ううん、どちらかといえば、好き。どちらかといえばと言うよりも、かなり好きかも。 |
恋人への一歩を踏み出そうとすれば、いつでも可能であることはお互いに知っている。けれど、かなり仲の良い友達という間柄で居る心地よさに二人とも慣れてしまっていた。 恋人になればデートもキスもセックスもする。でもそれらはいつも甘い味がするとは限らない。 恋人になることで束縛も義務感も生まれる。喧嘩も嫉妬もするだろう。 そういうものが無いことで始めて存在する居心地のよさ。 彼と親しくなったのは手痛い失恋をした直後だった。彼の過去は詳しく知らないけれど、ひとつの恋が終焉を迎えたまま新しい恋愛に踏み出す気分に長い間なれないでいたらしい。 そんな二人が寄り添ったのだから、恋愛には臆病になる。 私は「愛の告白はそっちからしてね」と返信をした。きっと哲西も「またまた〜、その気もないくせに」なんてつぶやきながらにんまりしているだろう。 |
メールを打ち終えて顔を上げると、妙に薄暗い。太陽が分厚い雲に隠されたような暗さではなく、夕暮れのようだった。いや、むしろ夜明けかも。 夜行列車で眠れないまま朝を迎えたことがある。それまで真っ黒だった風景がわずかに判別できるようになる。最初に現れる色彩は紫。風景は紫の濃淡で表現される。 何物も存在しない空間の色が徐々に明るくなる。建物や畑や道や電信柱や雲など、目に入るものの濃淡が少しづつはっきりとしてくる。 その風景はやがて紫以外の色合いを持ち始めるのだけれど、その直前の状態。それが今の私の目の前にあった。 思わず空を見上げたが、天気が崩れる様子は全くない。天空が雲に覆われているなどということはまるでなく、薄紫の上空にははっきりと大空が広がり、ポカリと浮かんだ小さな雲がいくつかあった。 私は(やばいな)と思った。 エレベーター付の学校が目の前に現れたときとは全く様子が違うけれど、今朝と同じく私はこの世ではないどこかの場所へいざなわれているのだと直感的に理解した。 またあの無限に続く廊下に立つことになるのだろうか。 目の隅に、保健室に現れた異形のものがチラリと映った。 そうだ、お話を聞いてあげるって約束したね。 一歩、そっちへ踏み出そうとしたその瞬間、私はまた異世界にいた。 |
私の足元はプラットホームになっていた。振り返るとさっきまで座っていたベンチは存在した。けれどそれは公園のベンチではなく、鉄道のホームに備え付けてある長椅子だった。 今朝はエレベーター。そして今はベンチ。おそらくそれらが「異世界」の入り口のような役目を果たしているんだろうと思った。 ホームは低くて小さかった。列車1両分位しかないだろう。遊園地の子供用の汽車が発着するのにちょうどよいような大きさだった。 それがなぜプラットホームだとわかったかというと、一段低くなったところ、つまりホームの端の先にはレールが敷かれていたから。右を見ても左を見ても、レールはずっと続いている。どちらも木の陰に回り込んだりしていて、そこから先はわからない。 汽笛が鳴り、線路のつなぎ目を列車が通過する独特の音が聞こえてくる。それはすぐに大きくなり、木の陰からひょいと機関車が現れた。形は蒸気機関車だけれども煙は吐いていない。まさしく遊園地の子供用汽車だ。機関車の全長はおそらく3メートルくらい。屋根はついているが窓にガラスははまっていない。運転席にはピエロが座っていた。 機関車の後ろには客車がつながっている。客車には、大人なら3人、子供なら4人が座れる程度の長さのベンチが4列。それで1両が終わり。そんな客車が3両つながっていた。 2両目と3両目には乗客が居るけれど、はっきりとはその姿を見ることはできない。なんとなくぼんやりとしている。俗に言う「影が薄い」とはこのことか、などと思った。手を差し伸べれば向こうの空間にまで通り抜けてしまいそうだった。まるで幽霊が、魂の回りにかろうじて肉体を再現した、そんな印象を受けた。 |
列車は私の前で止まった。ちょうど目の前に、誰も乗客の乗っていない1両目が来た。 機関車の方を見ると、運転席のピエロも振り返っていた。「さあ、乗りなよ」と言われたみたいで、私はホームから客車に足を進めた。そのとたん、自分も他の乗客のように肉体の質量が半分くらい失われてしまったような感覚に襲われた。向こう側が透けて見えそうなくらいに。 けれども、私の肉体も意識も確かに存在した。突然現れた小さな汽車の乗客として。 ベンチに腰を下ろすと、汽笛が鳴って機関車は動き始めた。 ピエロはもうこちらを見てはなかった。進行方向にまっすぐ顔を向けて、前方に手を伸ばして指をさしていた。耳を澄ませば「出発進行!」という台詞も聞こえたかもしれない。 |