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小野真也は就職活動中の大学4年生。とうとう内定が出ないまま10月になっていた。 6月頃まではまだ気持ちに余裕があった。だが、さすがに夏休みを過ぎてしまうと、焦りも色濃くなってくる。 「焦っちゃダメだ。焦っても何もいいことは無い。決まるときは決まるし、決まらないときは決まらない」 鏡に向かって声を出し、自分に言い聞かせた。 それまではさほど意識していなかった「不安」が、勢いを増して増殖する。 (俺はこのまま、どこからも必要とされないまま、来年の4月を迎えるのか?) 「どうせお前は、社会から必要とされない人間なんだよ」 自分で自分にレッテルを貼ってしまいそうになる。 それを否定するために、真也は大きく首を振った。 「何社受けようと、就職するのは一社だ。その一社にめぐり合うのが、早いか遅いかの違いだけだ」 |
余裕をなくしたと自覚したのは、希望職種以外の企業にもエントリーしようとしている自分に気づいたからだ。 友人の1人は、「会社なんて、どこだっていいんだよ」とすら言う。 「希望の職種に就職できたって、すぐに辞めることになるかもしれない。希望の職種でなくったって、入社してみれば自分に合ってるかもしれないし、遣り甲斐を感じるかもしれない。いい上司や先輩がいるかもしれない。勉強をしていくうちに、興味が持てるようになるかもしれない。会社なんて、入ってみなくちゃわからないんだよ。職種にこだわるなんてナンセンスなんだよ」 彼はあっさりと内定をとっていた。 いつまでも内定がもらえずに落ち込んでいる真也を慰め、励ますつもりで言った台詞だった。 励ましてくれて、ありがとう、くらいの返事をしてもいいところだ。 しかし、真也は彼の言葉を真に受けていた。それが慰めや励ましだと感じる余裕すら無くしていた。 「それは、違うだろ!」 思わず反論しそうになるのを、かろうじて思いとどまるのが精一杯だった。 就職というのは、その会社を舞台に、自分を花開かせるということだ。 舞台は慎重に選ばなくてはならない。自分のやりたい道に進むべきなのだ。 けれども、そんなこだわりを持続させるだけのパワーが、自分の中から消えつつあるのを感じていた。 勤務地がここならいいや、給与や待遇がこれくらいならいいやなどと、職種が希望のものでなくても、他の条件がまずまずと思えたら、勝手に身体が動いていた。焦りと妥協が正比例していた。 |
真也の希望職種は「商社」である。 大手の総合商社にこだわっているわけではない。どんな品物を扱いたいという希望があるわけでもなければ、世界を股にかけて活躍したいという野望があるわけでもなかった。 ただ、良い品物を見つけて、売る。 それだけだった。 逆に言えば、つまらない商品を売りたくない、ということである。 真也がこんなことを考えるようになったのは、安物のビニール傘がきっかけだった。数百円で手に入る代物だ。 不意の雨に困惑していると、傘とは何の関係も無い店がビニール傘を売っていた。 ビニール傘は小売店にとって小銭を稼ぐのに絶好のアイテムだ。天気予報に無いにわか雨はしょっちゅうあるし、持っていると思っていた折りたたみ携帯傘がバックに入っていなかった、なんて勘違いもよくあることだ。在庫は腐らないし、仕入れ値も安い。 真也もビニール傘を買った。そして、あっという間に使い物にならなくなった。 予測しない方向から風が吹き、傘の内側から吹き上げられる結果となって、傘の骨がひん曲がって裏返ってしまったのだ。 また雨の中を歩かなくてはならない。 冗談じゃない。500円も出して買ったのだ。 急場しのぎの窮余の一策として、そのへんのゴミ捨て場にある傘を拾って使ったのではない。新品を買ったのだ。 それが、傘を広げて数十秒のうちに使い物にならなくなったのである。 真也は思う。 たとえ大きな工場のラインでシステマチックに作られたものだとしても、それに携わった人は職人であり、職人は自分の手を経たモノには責任があるはずだ。ビニール傘が「丈夫で長持ち」なんてシロモノではないことは心得ているが、たった一度の使用に耐えられないなんて、これはもはや商品ではない。500円ではこれが限界というなら、「700円でないと作れません」と職人なら頑固に主張するべきだ。 しかし、現実の世の中はそうではない。 売れれば何でもいいという風潮がはびこる一方、消費者だって本物を望んでいるとは言いがたい。安価でとりあえず使えればそれでいいというのが大勢だ。 けれども真也は、「本物」にこだわりたかった。 500円の傘を雨が降るたびに買って捨てるのと、5000円の傘を後生大事に使うのとでは、どちらが幸せなのか? こんな簡単なことがどうしてわからないのかと思う。 作り手も受け手も、もはや「本物」とは何かを忘れてしまっている。だからこそ、自信を持って世の中に提示できる「本物」を、誰かが探し出さなくてはならない。あるいは自分で開発してもいい。 折りたたみ式で軽くて持ち運びに便利でありながら、屈強な構造で簡単には壊れずかつ修理も容易。部品のストックも常にあり、水切れの良い材質で、デザインも飽きの来ない洗練されたもの。 まさしく一生モノ。 そんな傘も販売価格が2万円だったら可能じゃないかと思う。ビニール傘40本分の値段だ。1年に5本のビニール傘を壊したり忘れたりして消費するなら4年で元が取れる。 そんなことを考えているうちに、「何につけても本物でないとダメだ」と思うようになった。 全てのことが軽く表面的になっているこの今の時代に、本物を探すのはきわめて困難だ。だからこそ、そのための「本職」が必要だ。自分ならやれる。 本物こそが人を幸せに導くことが出来る。 これが真也の「商社」の志望動機である。 |
「まさか面接で、そんなことを声高に言ってるんじゃないでしょうね」 真也の下宿に遊びに来ていたミコが言った。本名は笹井美也子。愛称がミコ。 妹の同級生でふたつ年下。真也が高3のとき、妹の沙耶が連れてきた。当時、ふたりとも高1だった。 高校1年生にとってふたつ上の学年といえば、それなりに年上で人生の先輩だ。運動部などに所属していればよくわかるが、最下級生と最上級生の違いというのは大きい。 この頃の真也はさしたるコンプレックスも持たず、志望校にもラクラク入れる成績でもあり、スポーツもそこそここなすために、かっこよくもあった。 容姿の問題ではない。 自信を持って背筋を伸ばしているか、劣等感にさいなまれて背中を丸めて俯いているか、それだけの違いである。真也は颯爽としていたし、堂々としていた。ミコにとって、確かに2学年上の存在だったのだ。 年齢の同じ男女がいれば、女の子の方が精神年齢が高い。同じクラスの男の子が子供っぽく見えるのはごく普通の現象である。そんな日常の中に忽然と現れたかっこいい男性が、ミコにとっての真也だった。 真也がとりたてて眉目秀麗というわけではなかった。身長も体重も平均クラスだし、ハンサムかどうかということでは「中」である。見る人の好みによって「中の上」になるか「中の下」になるかといったところだ。 極端に鼻の穴が大きく開いているとか、目が垂れているとか、やたらと油性であるとか、髪が薄いとか、口が小さく唇が厚いとか、そういった欠点がないに過ぎない。 一方、真也にとってミコはかわいい妹だ。血の繋がった妹である沙耶は同じ屋根の下で暮らしているだけあって、「生意気」で「小憎たらしい」存在でしかない。もちろん兄妹として、あるいは家族として愛しくはあるが、通常はそんなことは意識しない。 一番身近にいる妹への印象が、すなわち真也にとっての2歳年下の女の子の一般的なイメージとなっていた。 そこへ現れた、ミコ。 憧れの目で見つめ、ころころと笑うミコ。 かわいいと思わずにはいられなかった。 二人が恋におちるのに時間はかからなかった。 やがて真也は志望大学に合格し、一人暮らしを始めた。自宅から大学までは片道3時間。通うよりは下宿をしたほうが現実的だったからだ。 二人が会う機会は減ったが、電車賃はお小遣いでまかなえる程度だから、たいていの週末には会うことが出来た。いわゆる遠距離の悲劇は起こりようもない。 そして、ミコの卒業と就職。ミコも一人暮らしを始めた。二人の距離は徒歩20分に短縮された。 ミコはそれと意識して就職先を選んだわけではないが、いざ配属先が決まると、会社と真也の下宿の中間地点にマンションを借りることが非現実的ではないとわかった。 こうして二人はまた、頻繁に会うようになったのである。 出会った頃のように真也がとりたてて年上という雰囲気はもうない。それどころか、ミコの方が社会人としては先輩である。 今日も就職試験に惨敗したと知らされ、ミコは「もしかして、面接でそんなことを声高に言ってるんじゃないでしょうね」と言ったのだった。 |
「もちろん、言ったよ」と、真也は答えた。 「どうしてそんなこと言うのよ」 「志望動機を聞かれるからだよ」 ミコはため息をついた。 「ばかねえ。そんなんじゃ、いつまでたっても採用されないじゃないの」 ミコはまるで自分のことのように悲しげな声で言う。 内定がもらえずに焦っているくせに、自分を変えようとしない真也がもどかしくもあった。 「どうして!」 「だって、商社は売れるモノを仕入れて売る所であって、本物を売る所じゃないもの。それに、『うちが売っているのは必ずしも本物じゃない』ってことは誰しもわかってるわ。つまりね、真也はその会社にケチをつけているのと同じなの」 「その会社が本物だけを売っているところなら、問題ないだろう?」 「本気でそんなこと思ってるの? そんな会社なんてないわよ!!」 思わず力が入ってしまった。 ミコはそれほど多くの不平不満を今の会社に抱いているわけではないが、それは「諦め」や「妥協」を知っているからであって、何もかも納得ずくで仕事をしているわけではない。それはどうしようもないことなのだと悟っている。 息が荒くなっている自分に気がついたミコは、多めに息を吸ってゆっくりと吐いた。おかげで、少し落ち着いて言葉を継ぐことが出来た。 「会社は新入社員に『自分の会社の色に染まってもらいたい』って思ってるのよ。自己主張の強すぎる新人なんて要らないの。扱いが厄介なだけだもん。個性だの才能だのやり甲斐だの、そんなの謳い文句だけよ。わかるでしょ?」 わからない、と真也は叫びたかった。けれども、言われてみればもっともだった。いや、言われなくても、本当は気がついている。だけど、どうせ就職するなら、自分の思いをかなえられる場所がいいに決まっている。志望職種への妥協が徐々に増えていっているくせに、いざ面接となると、理想を語ってしまうのだった。 「考えてみてよ。会社の命令に従わず、自分の信念だけで動かれたら、組織なんて成り立たないわ」 |
就職活動中は気が抜けない。 いつなんどき、どんな用件で、電話がかかってきたりメールが届いたりするかもわからない。「なんだ、こいつ。連絡つかないのか。就職活動中なのに不心得者だな」と「採用」が次の者に回されたら苦労がパーだ。 しかし真也は、電話もメールも自分には来ないことはわかっていた。 試験官の顔色を見れば、自分が採用候補から落ちていることがわかる。 これだけ受験し不採用になっていれば、その判断くらいは出来るようになる。 だから、安心して酒を飲むことが出来た。 明日は土曜日だから、ミコは休みだ。会社からの返事も土曜日ではないだろう。いや、それ以前に不採用なのだ。 真也も4年生になって授業のコマ数も減っており、土曜日は講義を取っていない。 おまけにミコはお酒が好き。今日もしこたま買い込んできていた。 「ま、飲もうよ」 「そうだな。飲もうか」 |