11.
ミコと一緒に友達カップルと逢う日がやってきた。真也が下宿に戻ってきて3日後のことであった。その間、ミコは真也の部屋から通勤していた。これまでの真也と違い、どこかあやうげな感じがしたからである。真也を一人にしておけなかった。 朝、ミコが出かけていくときは真也はまだ眠っていたし、戻ってきても真也は相変わらず布団の中に潜り込んでいた。ミコは真也が下宿でただダラダラと過ごしているだけだと思い、心が張り裂けそうになった。 ポッカリと心に穴が開いて何もする気力がなくなることは誰にだってある。心配するほどのことでもないのかもしれない。ミコはそう自分自身に言いきかせ、真也にはなにも言わなかった。ミコは自分の発する台詞で真也を追い詰めたくなかったのである。 もっともミコは、昼間真也が何をしているか全く知らない。実は真也だってただダラダラと過ごしているわけではなかった。アルバイトを探していたのである。残念ながら結果は伴っていない。 結果は伴っていないけれども、真也の中には充実感が伴っていた。 卒業と同時になにがなんでもきちんと就職しなくてはならない、そんな肩肘を張った緊張感が抜け、労働と対価という意識が真也の中に生まれつつあった。 仕事とはかくあらねばならないなどという思いは消え、実績を残して報酬を得るのが労働だと思い始めていた。誰かの役に立ちたい。自分のしたことを形として残したい。金銭で評価されたい。その評価によって自分は飯を食べるのだ。 |
厚手のカーテンはミコの手によって大きく開かれている。窓を遮っているのはレースのカーテンのみだ。すっかり昇った太陽は真也とミコのささやかな巣を明るく照らしていた。 2人分の食事と1人分のコーヒーをテーブルにセッティングしたミコは、さっさと朝食を終えて皿を洗い、真也のために新しくコーヒーを注いだ。そして、テーブルに残されたままになっている真也のための朝食の横にカップを置いた。 「じゃ、あたし、行くから」 「ああ」 「忘れないでね。今日は外で食事をする日よ」 「わかってる」 布団の中からのっそりと起き上がった真也は、玄関のドアまでミコを送った。 ドアノブに手をかけようとして思いとどまったミコは、一瞬、振り返った。 「ぐーたらしてるくせに、髭だけは毎日剃ってるのね」 「まあな」 真也は、照れ笑いをした。 ドアの外から人のざわめきが聞こえて大きくなり、すぐに小さくなって消えた。誰かが前を通ったのだ。毎朝の風景。会社に出かけるのか、学校に通うのか、ドアを開けてその姿を見れば服装から判断できるはずだが、職探し中の真也にとって朝の颯爽とした人々のどこかへ向かう様子を窺うのは、なにかしら後ろめたかった。 自分はまだ彼らの仲間じゃない。なにしろ無職なのだ。 けれども、まもなく彼らの仲間入りが出来そうな気がしていた。 「これでも職探ししてるんだから」 「え? そうなの?」 「ああ」 「だったら、そう言えばいいのに」 「決まってないのに、言えないだろ」 「ウソ。前は『また落ちた』って、ヘコんで愚痴ばかり言ってたくせに」 「遅刻するぞ」 真也に言われてミコは腕時計を見る。 「いっけない! 乗り遅れちゃう」 ミコは身を翻した。 |
ミコが食卓を離れるときにいったん消したテレビを再び真也はつける。 ニュースや天気予報など、サラリーマンが時間と争いながら情報収集するための番組は終わりつつあった。まもなく朝のバラエティー番組が始まる。 役に立つんだか立たないんだかよくわからないのんびりした情報をテレビは流しはじめるだろう。 真也の耳の奥には、ミコが後ろ手に閉じたドアの音がいつまでも残っていた。 毎日学校に通っていたときは、朝がこんなにタップリとした時間を包含していることに気が付かなかった。だが、今は違う。一口ごとに冷めてゆくコーヒーの温度をしっかりと感じながら、ミコが作ってくれた朝食を口に運ぶ。今朝のメニューはベーコンエッグとサラダ、そしてトーストだった。 (温かいうちに食べたら美味いだろうな) 起きるのが辛いわけじゃない。身支度を整え会社に出かけるミコと一緒に朝食を摂るのが照れくさかった。 |
既にいくつも書き上げた履歴書のひとつをカバンの中に丁寧に入れ、服装の乱れと髭の剃り残しを丹念にチェックして、真也は下宿を出た。 今日の面接先は遠い。郊外に向かって1時間ほど電車に揺られなくてはならない。さらにそこから徒歩20分。バスは無いと聞かされていた。そんなところに仕事があるのかと思うが、昨日のうちに電話でアポをとってあるので、その存在だけは確かなようだ。 アパートの表の道に一歩足を踏み出して、真也は「あれ?」っと思った。 太陽の昇り具合に違和感がある。真也は思わず腕時計を見た。 間違いない。予定通りの時間である。 そうか、秋が深まりつつあるんだなと思った。太陽の角度が低く、目の中を直接射られた感じだ。まぶしい。 いつまでも夏の続きじゃない。 もう10月だ。 真也が出かけた直後、電話がなった。 しばらく鳴り続けていたが、誰も出ないまま留守番電話に切り替わったので、相手は何も言わずに電話を切った。 その直後にもう一本、電話が入った。 こちらは留守番電話にきちんと伝言を残していた。 真也が就職試験を受けた会社のひとつだった。就職活動から手を引いてしばらくたつし、既に決着はついている。なのに今さら、何の用があるというのだろう。真也が受話器を取って相手の名前を聞けばそう思ったに違いないが、留守番電話は与えられた機能に忠実に相手の言葉を録音した。 |
真也が乗った急行列車は末端部に差し掛かると各駅停車になった。すれ違う列車も減り、乗客も減り、駅のホームで電車を待つ人も減った。真也の降りる駅で新たに乗り込んできた乗客は、真也がホームに立ってからやっと「よっこらしょ」とベンチから立ち上がり、悠々と発車間際の電車に乗り込んでゆく。のんびりしたものだ。 駅前には小さな広場と交番とコンビニがあった。営業しているかどうかわからない古びた食堂もあった。その先は、ひたすら道である。田畑の中に住宅が点在し、その向こうには低い山並みが広がっていた。 駅前を真っ直ぐすすみ、ふたつめの角を山の方へ。やがて上り坂にさしかかった道は右に左に屈曲するが気にせずそのまま進む。 真也は教えられたとおりに歩いた。 真也が今日、面接を受けるのは、「(有)木工工房『回帰線』」という会社である。小さなものはキーホルダーから、大きなものはたんすやベッドまで全て手作りのものを提供している。真也は木工職人になるつもりはなかったけれど、募集していたのは「販売・営業スタッフ」であった。ホンモノを売りたい、という自分の希望に合っているような気がした。 |
「回帰線」への道は山間の遊歩道から登山道へと変化しつつあった。そこにひょっこりと真也の目指す会社が現れた。道の両側に茂った木々は枝葉を頭上まで覆っているし、道そのものも曲がりくねっているから、すぐ目の前に現れて初めてそこに建物があるのがわかった。 道に間口を広げたその店は、峠の茶店みたいな風情だ。木の板に会社名を彫った看板が入口の上に掲げてある。 店内にはキーホルダーやこけし、オルゴールにソーサーなど、木製小物が展示してある。観光地のお土産屋のように洒落たディスプレイだった。店員はいない。 「工房の見学自由。大型家具も工房にございます」 店の奥の扉に張り紙がしてある。 「就職試験に来られた方はこちらへ」などとはどこにも書いていない。 とにかく責任者を探さねばならない。ショップからどこかへ通じる道はおそらく「工房」しかないのだろう。真也は扉をくぐった。 |
すぐ外に出てしまった。そして、その先にはプレハブの建物があった。プレハブにしては大きな建物に思えたが、工房というには貧弱だった。 プレハブの引き戸を開き、中に入ろうとすると、入れ違いに1人の女性が出てきた。 「あら、ごめんなさいね」 ぶつかりかけた真也をヒラリとかわして外に出て行く彼女。一瞬だったが、「なんて綺麗な人なんだろう」と真也は思った。木漏れ日のような輝きを身に纏った女性だった。 工房の中には木の香りが漂っている。グラインダーかなにかで木を削っている音がした。ノミのお尻を金槌で叩いている音もした。ゴリゴリと木の削れる音は彫刻刀か小刀によるものだろうか。そんな音の中にさえ、木の香りが充満しているようであった。 入り口から工房の奥までまっすぐ通路が伸びている。通路と言っても廊下ではない。その部分には何も置いてないから人が歩いてよい場所だとわかるだけだ。いわゆる「仕切り」は見渡した限りでは存在しないようで、プレハブ全体がひとつの部屋である。奥行きは10メートルほど。その向こうには山肌が迫まっているのが窓越しにわかる。 入ってすぐの左手は、会議室机が通路に平行に置かれ、さしづめ受付カウンターといったところか。その中に事務机が4つあった。席に着いているのは30半ばの女性が1人。 真也の方をチラリと見るとその女性はすぐに席を立ち、「いらっしゃいませ」と言った。 「あ、あの、客ではなくて、面接なんですが……」 「あら、今日は多いのね。求人広告でも出したのかしら」 自社が求人しているかどうかも心得ていないスタッフがいるのかと真也は仰天した。 「社長! しゃちょおおおおーーー!!! また面接ですよおおおおーーーー!!!」 その女性は大声を張り上げた。 作業のために鳴り響く色々な音のために、こうでもしないと声が届かないのだ。 |
それにしても「また」とは気になる。募集人員はいったい何人で、既に何人が面接に訪れたんだろう? 真也は腕時計を確認した。指定された時刻である。間違いない。 まとめて面接をするような「採用試験」的なことはせず、1対1で面接をするために時間差で時刻を指定しているのだなと真也は思った。 「やあやあ、どうもどうも、おまたせしてすいません。ちょうどいま、新居の家具をオーダーで全てうちで揃えてくれるというお客さんと、打ち合わせの最中で」 職人らしく頑固そうな面構えの男が、それとは正反対に、愛想タップリに近づいてきた。 真也は名前を名乗り、面接のために来たことを告げ、「社長さんですか?」と訊いた。 「はい。私が社長の島井です。ま、社長というより親分というか棟梁というか、そんな感じです。ここは工房ですから」 自分は販売・営業スタッフへの応募者だからきっとこんなに愛想がいいんだろうなと真也は思った。もし職人の募集だったらギラリと見据えられていたに違いない。 「ええと、小野さんでしたっけ。すいませんね。呼びつけておいて申し訳ないんですが、今回の募集は、実は昨日面接した人の中から採用を決定してしまったんです。で、今朝ほどお電話でそのご連絡を差し上げたのですが、どうやら小野さんがもう出かけられた後だったようで。本当に申し訳ない」 島井社長は一気に必要事項を言い、真也はそれはないよと肩を落とした。 「いや、本当に申し訳ないですね。ああ、坂田さん」と、島井社長は受付に座っていた30半ばの女性に声をかけた。「ちょっと交通費だけでも出してあげて」 「交通費なんて、そんな」 「いやいや、受け取ってください。昨夜のうちに連絡を差し上げればよかったんですが、決定したのが夜遅くでね。それでアサイチでお電話差し上げるつもりだったんですが、少しばかり寝坊を……あ、いや、申し訳ありません」 どう弁明されようと、あるいは交通費を出してくれようと、ともあれ採用されないことは明らかである。 受付の女性に言われるままに書類に簡単な事柄を記入し、署名して、交通費をもらった。 「せっかくですから、工房を見学していきませんか? 給料は安いですし、厳しいですけど、職人なら募集しています」 「いえ、私は販売とか営業に興味がありまして」 「そうですか。仕方がありませんね。今回は本当に失礼しました。いや、営業や販売というのもそれはそれで大切な仕事なんですが、モノを作らないそういうスタッフっていうのはウチでは難しくてね。なにしろ職人の集まりですから、中には気難しいのもおります。そんな職人連中とうまくやっていけるかどうかも大切な部分なんです。だからおいそれと決まらないとは思っていたんですが、主要なメンバーで昨晩ミーティングをしましたら、不思議と満場一致で決まってしまいましてね。満場一致といっても、私を含めて4人ですけれど」 工房の中にいる人数はざっと見渡しても10人をくだらない。その中の主要メンバー4人というのだから、さぞかし年季の入った面々なのだろう。 「事情はよくわかりました。ご丁寧にご説明いただいてありがとうございました」 「うんうん、気をつけて帰ってくださいね」 |