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「良かった、今日は早く帰ってきてくれて」 帰宅するなり妻が言った。こわばった表情だったが、ゆっくりと頬の筋肉が弛緩してゆく。 いつもなら家事やこまごまとしたことをしながら、チラリと私の顔を確認して「おかえり」と言うだけで、やりかけのことをそのまま続けるのだが、今日はそうではなかった。私の中の何かを探すように私をじっと見つめている。 「なんだ、何かあったのか?」 「何かって、知らないの? 車の中でラジオのニュースぐらいきくでしょう?」 「ああ、真人の学校のあれか?」 「それ以外に何があるって言うのよ」 私の顔を見て安堵の表情を浮かべたはずの妻は、今は不機嫌な顔をしている。 事件を知っていて、どうして平気な顔をしているの、とでも言いたげだ。 「学校から何か連絡があったのか?」 「ないわ」 「だったら俺達が騒いでもしょうがないじゃないか」 「しょうがないってことはないでしょう? 真人の同級生が自殺したのよ。学校裏の雑木林で首を吊って・・・」 そこまではまだラジオでは言っていなかった。いや、報道していたのかもしれないが、真人に直接関係ないとたかをくくっていたので聞き逃したのかもしれない。 「真人はどうしてる?」 「食事もとらずに部屋にこもったわ。ショックだったのよ」 「自殺したのは真人の友達か?」 「知らない。『ただいま。寝る』とだけ言って部屋にこもったんだもの。クラスは別のようだけど」 「そうか・・・」 真人は中2だ。だから死んだその子と今は別のクラスでも、小学校を含めてそれ以前の学年でクラスメイトだった可能性はある。死んだのが自分の息子ではないことだけでほっとした私は早計だったのかもしれない。 親しい友人の死かもしれないとは全く思い至らなかった。 「腹が減ったら台所にやってくるだろう。そっとしておいてやろう」 「あなた、声をかけてあげないの?」 妻に問われて、私は少し考えた。 「声をかけたからと言って死者が蘇るわけではなかろう」と言いかけてやめた。そんなことを言えばますます妻の機嫌を損ねるだけだ。 「いや、自分から何か話すまではそっとしておいてやろう。中2といえば、ある部分大人だ」 「そうね……。ナイーブになっているのなら、そっとしておくのが一番だわ。……とにかく早く帰ってきてくれてよかった」 |
私と妻はつとめてニュース番組を選びながら夕食をとった。 息子の学校の話題はあまり出なかった。取り上げられたとしてもさほど新しい情報が加わっているわけでもない。 妻も私も口数は少なかった。私は何度も夕刊のページをめくったが、小さな記事がひとつあるきりだ。凝視したからといって記事量が増えるわけでも新しい情報が加わるわけでもないが、それでも私は時々ページをくった。 妻は時々テレビのチャンネルを変えた。 息子が居間にやってきたのは10時を過ぎてからだった。 「飯、食うか?」の私の問いかけに、無言で頷いた。 妻が食事を暖めなおした。真人はそれをいつもの倍くらいの時間をかけて食べたが、結局は半分くらい残した。 真人は部屋に戻るとき「おやすみ」と言った。そのたった一言が妻には大きな救いになったようだ。同級生の自殺は確かにショックだろうが、親に最低限の声をかけるだけのことは出来たのだ。 それから30分くらいたっただろうか、クラス連絡網の電話がかかってきた。学校が全生徒に一人づつ連絡をするのは大変なので、あらかじめ家庭から家庭へ伝言してゆくルートが定められている。 それによると、「明日は授業は中止。保護者同伴で10時に登校するように。教室には入らずそのまま体育館へ来ること」であった。 妻は2階にある真人の部屋にそれを伝えに行った。 ノックをするが返答が無い。電話の内容を扉越しに伝えたが、それにも反応を示さない。仕方なく妻は紙に伝言を書き、扉の隙間から部屋の中へ差し入れた。 「入っていって伝えればいいじゃないか」 「あの子、前にノックなしで入った時、暴れたじゃない」 「成人してない我が子にそんな気を使う必要はないだろう」 「そっとしておいてやれって言ったのはあなたよ」 「あ、ああ、そうだな」 |
「会社、休めないわよね」 ベッドに潜り込みながら妻が言った。 「ああ」 「そうね。仕方ないわよね」 「おまえ、行けないのか?」 「そんなこと言ってるんじゃないわよ。こんな時は父親の方がいいと思ったの」 「すまんな」 「いいわ。仕方ないもの。今日、早く帰ってきてくれただけでも、嬉しかったわ」 妻はサイドテーブルのスタンドの明かりを消した。 |
妻に言われて、ようやく今日が水曜日であることに気がついた。 私は週の半ば、たいていは水曜日にサウナに寄って帰る。仕事以外のこと、例えば飲みに行ったりなどして帰宅が遅くなるといい顔をしない妻だが、週の半ばのサウナだけは大目に見てくれていた。 サウナで汗を流しさっぱりして帰宅した日と週末は、妻とセックスするのが習慣になっていた。さすがに自殺騒動があって落ち込んでる息子の顔を見るとその気は起こらなかったが。 サウナを失念してさっさと帰宅したのだから、私も無意識下では家族の事が心配だったのだろう。 それはともかく、水曜日のサウナデーもここ数年は実は必ずしも言葉どおりの日ではなかった。私にとっては都合の良い浮気デーでもあったのだ。 なにしろ石鹸の匂いをさせていても怪しまれることは無い。妻はサウナだと信じ込んでいた。 それどころか、私とのセックスに胸を膨らませ、上機嫌ですらあった。 だから私は浮気をしたあと連続して妻を抱くことになるのだが、幸い衰えることなく、さっき別のオンナと身体を重ねてきたばかりだと悟られることは無かった。 それどころか、サウナの後の方が元気ねと妻は悦んだ。 うんと年下の若いOLにむしゃぶりついたその余韻だけで、私の興奮は平常時よりも高まるからだ。 熟れきって快楽の淵を知った妻も、いったん射精したあとだからこそ持続する挿入時間に、身も心も満足するのだった。これではまるで妻のために浮気しているようなものだなとおかしくなるのだが、ならば罪悪感を感じる必要もないだろう。私は妻のために浮気をしているのだ。 |
翌朝、いつものように出勤をする。 営業事務の坂根弥生が社内メールを送ってきていた。 「昨日は書類のチェックをしていただくために声をかけてくださるのを待っていましたが、いつのまにかお帰りになっていたんですね。今日、お願いできませんか? お忙しいようでしたら終業後でもけっこうですので・・・・」 終業後の書類チェックとは、逢瀬を示す暗号だ。サーバーに記録が残されるのであからさまなことは書けない。 私は「了承した」と返信メールを打った。 弥生はベッドの中で「今日はすごいのね」と言った。「何かあったの?」 「クスリをキメてきた」 「え? やだ、うそ……」 「嘘だよ」 「ん、もう」 私は狂ったように弥生の中に打ちつけた。怒りのようなものが身体の芯にしこっていた。不条理に対する腹立たしさにそれは似ていた。なぜそんなものが私の中に芽生えてしまったのか、私にもよくわからなかった。 |
サウナに寄って帰宅したと思った妻は、「でも、今夜はその気になれないわ」と言った。 「仕方あるまい」と私は返事した。 学校で自殺者が出たことは、妻にも息子にも思いのほかショックを与えているようだった。 「今日、学校はどうだった」 「体育館に全員集められて、ありきたりの話を聞いただけよ」 「ありきたりって?」 「生徒達への影響を考慮して、とか、今週一杯は授業を休止する、とか」 「そうか」 「校舎は立ち入り禁止にされていたわ」 「どうして? 別に教室でクビを吊ったわけでもあるまい」 「そりゃあそうだけど、昨日までそこにいたクラスメイトが、いないのよ。自殺で、原因はいじめで。いじめた子はその同じ教室にいたのよ」 「死んだ蓑田って子は、真人とは・・・」 「今は別々だけど、昨年は同じクラスだったらしいわ」 「そうか」 学校は「今後どうしていくのか」ということについて、これといった策を見出せないでいる。体育館に全員集めてとか、とりあえず授業を休止して、などはその現れであろう。 |
授業が休止になるといっても、学校が休みになるわけではなかった。 毎日、保護者同伴で体育館への登校。妻の話では、「学校としては二度とこのような事が起こらぬよう万全の対策を打ち出すとともに、子供達の心のケアに全力を尽くしたい」とのことだった。 それは大切なことだろうが、かといって授業を休止することに何の意味があるのか私にはわからなかった。 坦々と繰り返される日常の中で何事も乗り越えていく。 それが大切だと言う私に妻は、「あの子達はまだ中学生なのよ」と言った。 「ああ、そうだな」 |
翌日の金曜日、息子の真人は学校へ行かなかった。私はそのことを会社から戻ってから妻に知らされた。 「そうか」とだけ私は答えた。 「一日休めば、あとは土日だから3連休になるわ。それであの子が落ち着くならと、うるさいことは言わなかったんだけど」 「それでいいんじゃないか。授業の無い学校へ行っても仕方ない」 「あなた、そういうことじゃなくて」 「ああ、わかってるよ。わかってる」 私はその後に続く妻の言葉を遮った。 「いいの?」 「何が」 「真人と話をしなくて」 「何を話せというんだ」 「もういいわ」 妻は席を立ち、私に背を向けてキッチンに立った。 「あの子、妙に塞ぎこんでいるわ。気になるのよ」 そう言ってから妻は蛇口をひねった。食器とスポンジの擦れ合う音が生々しく私の耳に届いた。 この日、通夜が行われた。 学校は休んだ真人だったが、通夜には出席した。 |
土曜日、私はずっと家にいた。基本的に会社は土日休みだが、営業と言う部署は必ずしも土曜日に休めるとは限らない。相手先の事情によってはそれに合わせなくてはならない。 だが、息子と、それ以上に息子を気にする妻の様子が気になって、部下に任せることにした。 真人は昼過ぎにノロノロと顔を出し、制服に着替えて葬儀に行った。そして、私が気がつかないうちにそっと帰宅していた。 妻によると「真人も落ち着きを取り戻してきたようだ」とのことだった。 私は心配することは無いと返事した。 「俺だって自分の親に死なれた時は何日間か落ち込んだよ」 「親と友達は違うわよ」 「そうだな」 私は同意しておくことにした。 確かに親と友達は違う。しかし、妻の「違う」とは異なったニュアンスで私は受け止めている。 親と友達では魂の近さが違うし、親には代わりはいないが友人には代わりが出来る。しかし、そんな本音を吐けば妻の反感を買うだけだ。 その日の夕食は3人で食卓を囲んだ。 ノロノロと箸を口元に運ぶ真人に私は話しかけた。 「学校は、どうなんだ。授業は来週から再開されるのか?」 息子は静かに首をふった。 「学校からの連絡待ち」と、妻は言った。 真人が首を振ったのは「再開されない」と言う意味ではなく、「わからない」と答えたのだった。 「そうか」と、私は言った。 会社ではあれほど奔放にモノを言う私も、家族を前にして饒舌にはなれない。 自分の価値観が全てではないと理解しているからだ。 食事が終わると、真人は自分の部屋に引き上げた。 真人が学校に行かなかった事について私が何も言わなかったことを妻は評価した。 「頭ごなしに怒鳴りつけるかと思ってヒヤヒヤしたわ」 「馬鹿言え。俺はそんなに無神経じゃない」 「いいえ、あなたは無神経で独善的よ。いつだってそう」と妻は笑った。 ここ数日、ほぼ静観状態の私に妻が不満を抱いていることは感じていた。だが、ようやく私のそういう態度もあながち的外れではなかったんだと感じ始めてくれたようだ。 大騒ぎしてもことを混乱させるだけの場合もある。黙ってじっとしていればおさまるところにおさまることもある。 久しぶりに私は妻を抱いた。 頭を悩ませる色々なことから一時解放されたためだろう。妻はいつもよりも激しく感じていた。 私達が余韻に浸っているとき、電話がなった。 学校からだった。 お休みの日に恐縮だが、明日の日曜日、息子を伴ってご両親揃って学校へ来て欲しいとのことだった。 自殺の原因となったいじめへの対応、生徒達の心のケア、そして授業の再開。そんなことに対する説明が行われるのよ、きっと。 妻はそう言って瞼を閉じた。 だが、学校で聞かされた事実は私達の想像を超えたものだった。 翌日曜日、職員室を訪れた我々は、担任に会議室に通された。息子の真人は教室に行くように指示された。学年主任から話があるという。 学校は妙にシンとしており、全員が登校させられたわけではなさそうだった。 会議室には何組かの親が来ていたが、みな無口だった。 しばらく待たされた私達は、そこからさらに隣の小部屋へと担任に案内された。 先にその部屋に入っていた夫婦は、そこから出てくると顔を伏せたまま外に出て行った。 個別面談? 学校側がいかに今回の出来事に対して慎重に対処しようと決めたとしても、これはおかしい。全ての生徒の両親と個別面談するなど膨大な手間と時間がかかってしまう。普通はクラス単位で担任から行われるものだろう。 案内された小部屋は、会議のときにお茶などを準備するための部屋だった。 そこで私と妻は驚愕の事実を知らされた。 同級生を自殺においやったいじめの当事者が真人だと言うのだ。 私は出されたお茶を口元に運びかけていたが、その手が止まった。 |