エッセイスト 咲夜

【4】 内と外 その1

 

「ちょっと、梓ちゃん、こんなところに一人で来たらだめって、いつも言ってるでしょ?」
「だって、ここが一番落ち着くんですもの」
「ここがどういう所だかわかってるでしょ?」
「うん。乱交喫茶」
「そう。こんなところに、女一人で来るなんて、みんなで輪姦してくださいって言ってるようなものじゃん」
「だからあ。目立たないようにカウンターでおとなしくしてるじゃない。しかも、時々マスターと親しげに話をしてさ」
「もう、梓ちゃん、わかってないなあ。そういう女が一番狙われるんだよ。カウンターで一人、だなんて、いつでも誘ってくださいって言ってるのと同じでしょ? しかもマスターと親しげなんて、常連ってことじゃない。何の遠慮もいりませんよ。ただ、ひょっとしたらお高くとまってて、男を選り好みするかもしれないわね、っていう程度よ」
「そおかなあ? 今日だって、まだ誰も声かけてくれないし」
「そりゃあね。まだ午前10時、営業時間前だから……」
「ごめんね。無理やりおしかけて。でも、ここが落ち着くのよ。特に徹夜明けはね」
「原稿? 違うよね。原稿あげたあとは、彼氏とウフフだものね、いっつも」
「うん。原稿よりもっと始末の悪いもの」
「え〜、なにそれ? 痴情のもつれ〜?」
「もう、そういうことになったら、嬉しそうな顔、するんだから。会議よ、編集会議」
「ふう〜ん。ライター業も大変なんだね」
「まあね。でも、マスターみたいに、エッチしてる連中を目の当たりにしながら、コーヒー出す仕事に比べれば、大変なんて言ってられないけどね」
「まあ大変と言えば大変だけど……、でも、大丈夫。そりゃあ興奮しちゃうこともあるけど、コーヒー出すだけじゃなくて、カウンターの下でこっそりザーメン出してるから」
「もう、下品!」
「それにね。イマイチ盛り上がりに乗れなかった女の子とか、結構そういうオコボレ、頂戴してるからさ」
「あっそ。そんなもんなんだ」
「だって、どこの誰だかわからない人とエッチするより、まだここのマスターって方が、身元、確かでしょ?」
「まあねえ」
「それに、ほら、テクニックだって、そこそこあるしさ。後日わざわざ、おいらとヤリたくて営業時間前に来る子だってたまにはいるし」
「そういえば、マスターとはしたことなかったね」
「する?」
「遠慮しとく。あたしもたいてい乱れてるけど、最近は次から次へ違う人とするのはセーブしてるから」
「だけど、一人に決めたわけじゃないんでしょ?」
「そこよねえ、問題は」

 あたしはここでは「梓」と名乗っている。「咲夜」はあくまでもペンネームだ。まあ、どっちも本名ではないんだけれど。遊びも含めて日常は「梓」だし、仕事の関係者にとってはペンネームこそがあたしそのものだし、本名を使うことのほうが少ない。もしかしたら、そのうちすぐに思い出せなくなるかもね。
 ともあれ、昨夜から今朝にかけての編集会議はもめた。創刊号の勢いはどこへやら、第2号は飛ばず鳴かずだったから、第3号は思いっきり巻き返しを図らなくてはならない。そこで、意見が二つに分かれた。それも、こともあろうにあたしが担当する記事について、である。
 予定通り「乱交喫茶」で行くか、後に予定していた「義務教育」を先に取り上げるか。企画会議なのだから、そんなのは編集部だけでさっさと決めて、結論が出てからライターに発注してくれればそれでいいのにと思うが、あたしまで会議に呼び出されてしまったのだ。

 部数を伸ばすには、風俗を、とりわけシモネタを取り上げれば確実だ。だが、柳編集長は反対した。
「前回がドラッグ喫茶だったし、喫茶が2回続くのはどうだろう?」
「でも、2号は咲夜は休載だったから、実質1回あいてますよ」と、キツネは抗弁する。
 企画を作ったのも、あたしを抜擢したのも彼だから(というより、彼の中では企画とあたしは最初から結びついていたのだろうと思うけれど)、キツネもこだわる。
「それに、社会派雑誌の『ポズイン』としては、人気取りの企画だ、シモネタだって、そういう先入観を持たれたりするのがイヤなのよ。創刊号はドラッグ喫茶で売れて、2号は咲夜ちゃんの原稿がなくて売り上げダウン、そこで3号は『乱交喫茶』だなんて、ミエミエじゃない?」
「そりゃあ、とりあげる『題材』だけを云々すればそうです。でも、切り口が違うじゃないですか。風俗情報誌みたいに、『乱交喫茶でやり放題』なんてことを書くわけじゃないんですよ」
「そんなこと、あんたに言われなくたって、わかってるわよ」
 キツネは唇を尖らせた。意見が通らなくてすねた少年のような表情は、かわいいと言えなくもないが、それで済まされる問題じゃない。なんといっても彼は編集長。彼がウンと言わなければ企画は先に進まない。
「でも、編集長……。『義務教育』は、インパクト弱いです。あっちこっちで『どうなる、日本の義務教育』って特集、出尽くしていますから」

 それはそのとおりだった。
 大幅な増税と引き換えに、日本の義務教育は変わった。一切の教材費や給食費などは不必要になったし、修学旅行を含む全ての課外学習についても、別途必要経費を徴収するなどということは無くなった。身体障害や知的障害への対応も万全だ。その時点における最大限のことをしているし、それは常に進化してもいた。
 その上で政府は、「やるべきことは全てやっている」という態度を一貫してとるようになった。保護者は子供を「学校にさへ行かせればそれでいい。全て解決だ」とする態度だ。
 すなわちそれは、不登校や学外での素行不良などは、学校の範疇ではない、ということである。学校はその責任を全て果たした。あとのことは本人次第。その結果、学校へ行かない、あるいは行けない子供に対するフォローが一切なくなってしまったのだ。

 一方で、学歴社会や受験戦争といったものは、ますます激化していった。学校は「やるべきことは全てやっている」ということになっているから、学校の勉強だけで満足しない子供たち(あるいは、親)は、塾へ行く(あるいは、行かせる)という現象に拍車がかかる。学校に来なくてもお咎めが無いので、放課後だけでなく、昼間っから学校を休んで塾通いという現象が起きている。
 学業優秀な子は、学校へ行かずに塾へ行くのだ。しかし、お金がかかるので、行きたくても行けない子もいる。親の金を使ってたくさん勉強をした子は、良いとされる大学を出て、一流とされる企業に入り、多くの年収を得る。そうでない子は、いつまでたっても上に行けない。昭和・平成の時代からあった現象にますます拍車がかかっている。
 学業だけでなく、スポーツにおいても同じことが言えた。学校を休み、大枚をはたいて、それぞれのスポーツのしかるべき養成所に入らなくては、プロスポーツ選手になど到底なれないのである。
 今、義務教育の現場では、約1/3の生徒が登校していなかった。

「困ったわねえ。これは豪家ちゃんの企画だから、納得して取り組んでほしいのよね。編集長権限で業務命令なんてしたくないのよ」
 編集長は腕を組み、目を閉じて、言った。「咲夜ちゃんは、どうなの?」
「え? どうって?」
 あたしにはどっちでも良かった。どちらも興味あるテーマだし、いずれは両方こなすのだ。あたしにとっては、ただの順番でしかなかった。
「企画の順番って、大切なのよ。本が売れなきゃ、咲夜ちゃんだって、仕事を失うのよ。何をやっても最低限これだけは売れます、なんていう大手の歴史ある雑誌じゃないんだから、売れなきゃ『ポズイン』なんて簡単に休刊に追い込まれるわよ」
 順番なんてどっちでもいいと思っていたあたしの心を見透かしたように、編集長は言った。
「それに、咲夜ちゃんだって、それなりに売れたいでしょ? あなたが一旗あげられるのは、とりあえず『ポズイン』しかないのよ。ここで名前を売らなきゃ、どこからもオファーなんて来ないってことよね。わかってるの?」と、追い討ちをかける。
 それでもあたしは、何も答えられなかった。どちらを先にするのが戦略として良いかなど、あたしには判断が出来なかったのだ。そして、もうひとつ。情けないことにあたしは、「どちらでも結構です。どっちになっても、売れる記事を書く自信があります」と胸を張ることも出来なかったのだ。

「コーヒー、淹れましたから」
 トレイの上にカップ4つを載せて、境美雪が戻ってきた。膠着したミーティングの場から、そっと席を立ったので、あたしはてっきりお手洗いに行ったのだと思っていたが、お茶を用意してくれていたのだ。
「ありがと」と、声をかけ、あたしは一番にカップに手を出した。
 美雪は編集長とキツネの前にカップを置き、トレイをテーブルに載せてから、最後に自分のカップに手を添えた。

 彼女は正式な編集部員ではなく、外部スタッフだ。年齢は20代後半だろうか。どこにも所属せず、フリーのエディター兼ライターとして活動をしている。フリーではあるけれど、『ポズイン』には深く携わっていた。社内の編集部員並である。
 そういう意味では、別会社に所属し、アルバイト的に顔を出しているキツネよりも、どっぷりと『ポズイン』に浸かっている。
 それにしても、妙なミーティング風景だ。なにしろ、テーブルの上には資料ひとつない。さっき運び込まれたコーヒーがあるだけである。「次号の企画はどうしましょうか」の打ち合わせだから、会議に参加する人間の「頭脳」さえあればいいわけで、こういう人間至上主義とでもいう態度があたしは好きだった。けれど、実際はなかなかそうはいかない。有効なのかどうか、会議中に使われるのかどうか、そういうのが定かでない資料が山と積まれた打ち合わせをあたしは何度か経験していた。

「境ちゃんは、どう?」
 編集長に問われて、彼女は即答した。
「同時進行、というのはどうでしょう?」
「同時進行?」
 怪訝な顔をするキツネ。興味深げに身を乗り出す編集長。そして、イマイチ意味がつかめないあたし。
「咲夜さんは、他の仕事はされてないわけでしょう?」
「はい」と、あたしは答える。
「だったら、2本同時進行をこなすことは十分出来ると思うんですね。3号に間に合うように、二つの取材と執筆を同時に進めて、あがった原稿を見て、他の記事の兼ね合いも考えて、どちらを先に使うか決める。こんなアイディアしか思いつきませんが……」
「いいアイディアだ!」と、キツネが言い、「そうね」と、編集長が頷いた。
「テレビ番組でよくある、2本撮り、3本撮りていうやつですよ」と、美雪が付け加えた。
「スケジュール的には大丈夫だよな」と、キツネがあたしに向かって言う。
「そりゃ、まあ、大丈夫だけれど……」
 なにしろ、あたしには他に仕事がない。
「ギャラは、2本分、まとめてもらえますか?」
 正直言って、現金収入が必要だったのだ。
「いいわよ」と、編集長が言った。「咲夜ちゃんが、3号と4号の原稿をいっぺんにあげてくれるのなら、通常の4号の進行の時には、もうひとつ何か書いてもらいましょう」
 確かにそれは、ありがたい話だった。

 話がまとまった時には、午前5時を回っていた。美雪がもっと早くから積極的に意見を出してくれていれば、日付が変わる前に帰れたのにと思ったが、そういえば彼女はミーティングに最初から加わっていたわけではなかった。
 そうそう、既に取材の終わっている他の記事に取り組んでいて、「手間取っているから、遅れて参加する」と編集長が言ってたっけ。著名だが変コツな画家の、インタビュー記事。きっと、何度も何度も録音テープを聞き返しながら原稿を書いていたのだろう。
 彼女だってフリーだから、ひとつでも多く仕事をこなさないと生活できない。それは単に目先のギャラという意味もあったけれど、それ以上に、署名記事をたくさん書いて露出度を上げないと、自分自身がのし上がれない。
 それは自分も同じだった。
 会議を終えて、美雪は「推敲する」と席を立った。編集長は自分のデスクに戻り、あたしとキツネはソファーで仮眠をした。目が覚めたら、キツネはいなかった。自分の所属する社に戻ったのだろう。

「ふう」
 ため息をつくのと、乱交喫茶のマスターが声をかけるてくるのが同時だった。
「お昼ご飯にするけど、何か食べる?」
「マスターが作るの?」
「もちろん自炊よ。昨日の残り物で、チャチャっとね。出前頼んだり、弁当買ってきたり、外食したりって、時間もお金もかかるでしょ?」
「お客がエッチするのを見ながら、自分でやった手で料理するんだよね。あんまり食べたくないなあ」
「じゃあ、もう帰ってよ。お昼ごはん食べたら、お店、開けるから」
「嘘、冗談よ。頂戴」
「本来は自分だけのためのまかないだから、簡単なものだけど」
「いい、いい。それで十分」
 あたしはマスターの作ってくれた焼き飯を食べ、それからカウンターの中に入って食器洗いを手伝ってから、店を後にした。
「そうそう。取材だったら、そうとはバレないように、男性同伴で来てよね」と、少し前に打診したときのマスターの返事を思い出しながら。
 キツネに頼むしかあるまい。だけど、セックスフレンドの仲とはいえ、そしてキツネ以外にもそういう相手がいると彼自身も知っているけれど、他の男性に入れられてよがってるあたしをキツネに見られるのは、ちょっと、なあ……。