第1話 オフィス「風の予感」  =2=

 

5.


 僕たちは75分ほど電車に揺られ、牧歌的な風景をやりすごした後、郊外の小さな町の駅に降り立った。それでも駅前には、一軒のコンビニエンスストアと4階建てのビジネスホテルがある。僕たちはそのビジネスホテルにチェックインをした。いうまでもないが僕と清花は別々の部屋である。

「このホテルが、この町に滞在中はわたしたちの本部ね」

 清花は子どもたちが「秘密基地」と言って喜んでいるときのような顔で、キョロキョロと見まわした。
 フロントカウンターで宿帳を記入していると、フロントマンが「橘様ですね。お預かりものがございます」と言った。渡されたのはプラスチックのケースに入っているまっさらな名刺だ。
「お、早い。もう届いたのね。電車の中から携帯メールで注文しておいたのよ。社長がこの町の印刷屋に手配して大至急で届けさせたのね」
「仕事が速いなあ」
「あなたの名刺よ。受け取って」
「うん」

 そこには「(有)オフィス風の予感 主任調査員 橘和宣」と書かれていた。

「主、主任調査員? 僕が? 臨時雇いじゃないのか?」
「取締役じゃマズイけど、主任くらいなら構わないでしょ? ヒラより主任の方が、受け取った人だって安心するし。まあ、この案件に関して主に任せた人、てなもんよ。わたしたちの会社は案件ごとの契約だから」
 それじゃあ主任しかいないことになる。
「じゃあ、清花の肩書きも適当なのか? まさか清花まで臨時雇いってことないんだろ?」
「レギュラーで仕事はしてるけど、うち、正社員なんて、社長だけよ」

 チェックインの手続きはしたものの、まだ時間が早すぎて部屋に入ることはできなかった。清花はスポーツバックをフロントに預けた。
「お荷物はこちらでお部屋に入れておきます」と、フロントマンは愛想がいい。僕は手ぶらで荷物もない。
「で、実際の行動手順なんだけど」と、ロビーに向かい合って座った途端に清花は話し始める。それは電車の中で教えられたことの続きだった。
 一通り説明を受けた僕は「じゃあ、さっそく行動開始するよ」と、腰を浮かせた。

 講義を受けたとはいえ、実際の展開が全く読めない。期限も切られている。まずは動くしかない。
「あ、待って。もうすぐ資料が届くから」
 清花は缶コーヒーを2本買い、テーブルの上に置いた。 そわそわしている僕に気が付いたのだろう、彼女は「落ち着いて」と言った。

「焦って飛び出しても得るものはなにもないわ。それなりの準備が必要よ」

 清花は悠々と缶コーヒーを口にする。僕もそれに従った。今日、何本目の缶コーヒーだろう?
 ほどなく、1人の男がやってきた。
「あ、杉橋、こっちこっち」
 清花が男を呼び寄せる。

 杉橋と呼ばれたその男は、目と口と鼻以外は全て髪の毛と髭でおおわれた、だるまのような風体だった。ユーモラスといえばユーモラスだが、怪しいといえば怪しい。背は低い。おそらく160センチに満たない。身体つきはガッシリしている。多少肥満のケがあるかもしれない。年齢不詳。ネクタイとスーツはキマッっている。

「紹介するわ。こちら便利屋の杉橋貞治さん。そしてこちらが、新しい調査員の橘クン」
 僕は「どうぞよろしく」と言った。
 便利屋杉橋は、その姿からは想像がつかないほどかん高い声で、「こちらこそよろしくね」と頭を下げた。
 見かけとは異なり、羽毛のような身軽さで、ふわりと清花の横に座る。

「和宣、便利屋って、わかるよね」と、清花は僕の方を見た。
「噂には聞くけれど、使ったことはないし、そういうことをやってる人に会うのも初めてだ」と、僕は返事する。
「掃除洗濯料理家事全般から、草むしりドブさらいペンキ塗り、引っ越し夜逃げ、大工仕事からアリ退治までこなす、よろず引き受け屋さんなんだけど」
「うん」
「でもまあ、杉橋がまだ開業まもなくの頃、あんまり注文もなくてさ。それでたまたまわたしたちが連続して依頼したものだから、それ以来、よろずのごたごたした細かいことを色々お願いしてるのよ」
「仕事の8割が『風の予感』さんからの注文ですね。おかげで飯は食えてますが、庶民の八百万に役に立ちたいっていう当初の目的とはほど遠いものになってしまいましたよ」
 髭がズルリと動いた。多分本人は笑ったつもりだ。表情で語りたければ、その髭は剃るべきだと僕は思ったが、まあそれは余計なお世話か。
「あはは、特技がコンピューターのハッキング、なんていう便利屋さんは、庶民の役に立たなくても良いのよ」
 清花は遠慮の無いツッコミを入れる。

「じゃあ、ひとつずつ確認して下さい」と、便利屋の杉橋は言った。
「まずこれが、ゼンリンの住宅地図」
 ゼンリンの住宅地図。出前などには無くてはならない代物だ。道路地図などと違い、どこに誰が住んでいるかまでわかるのがこの地図の特徴だ。アパートやマンションも何階の何号室に誰が入居しているのか、ことこまかに調べ上げてある。
 ただし、欠点もある。がばっと地図帳を広げたとき、見開いたそのページに表示される部分が限られるから、町全体を眺めることができない。だから土地勘のない者にとっては慣れるまでは使いづらいのだ。
「それから、この町の地図。両方を合わせて見れば、初めての町でも大丈夫です。ついでに、ナビ付のケータイをお貸しします。定額の契約をしていますから、これは無料サービス。ただし、壊したら弁償してもらいますけれど」

 至れり尽くせりである。

「それから、これが故人のデータ集。時間がなかったので、きちんとまとめられていないんですけど、住民票とか、預貯金額とか、取引銀行とか、親類家族がどうなっているとか、年金や納税額がどうだったとか、まあコンピューターから簡単に引き出せるものは出しておきました。それからこれがお好み焼き屋の登記簿ね。そして、平面図。年齢が年齢ですから、さすがにネットにはつないでいないみたいで、閲覧履歴やらメールやらは取り出せませんでした」
「ちょ、ちょっとまった」と僕は言った。「そういったモノが簡単にハッキングできてしまうの?」

 怖い世の中だ。

「便利屋ですから」
「法的に問題あるでしょ? 個人情報の保護とか、そういうのはどうなって……」
 まくしたてようとする僕に掌を向けて制止した杉橋は、「まあまあ」と言った。
「法的には問題ありますが、こういうのを簡単に引っ張りだされるところに置いておく方が悪いんですよ。個人情報をきちんと保護しておかなかったのはデータ保管者の責任であって、我々の責任ではありません」
 それは詭弁だ。
「それが証拠に我々は、入手した情報を目的外に利用したりはしません」と、杉橋はきっぱりと言い切る。そして、清花に確認を求めた。「そうですね、立華さん」
「そのとおりよ。それに、風の予感のデータ保存用のパソコンは、ネットにはつながってないもん。誰もハッキングすることはできないわ。仮に家宅不法侵入に成功して、パソコンを立ち上げたとしても、パスワードだって必要だし。我々はバッチリ個人情報を保護してます」
 清花は胸を張る。やれやれ、もうどうでもいいや。

「この件は、これでよろしいですね」
 どっちにしろ、資料を手にしてしまったんだから、僕は共犯者だ。せいぜい目的外に利用しないよう注意しよう。

「で、アタッシュケースとデジタルカメラ。これはそちらの会社の事務所から橘さんのために借りてきたものだから、使って下さい。ネガでの撮影が必要だったら、使い捨てカメラを買ってください。それは持って来ていません」
「うん、了解」
「それから、報告書用の原稿用紙ですね。一応一冊。50枚綴りだから、十分でしょう」
「あはは、和宣の調査なんて、3枚もあれば事足りるよ」と、清花は笑う。
「最後に、こちらが必要経費の30万円と、日当の領収書」
 今度は清花が驚く番だった。
「そ、そんなものまで間に合ったの?」
「社長さんのケツを叩きました。わたしの報酬はこの中から払われるんですから」
「そうだったわね」と、清花はロビーのソファーに深く腰掛けた。

 
6.


「説明するわ。まず、さっきの5万円。アレは返してね。本来はわたしの調査に対する仮払いだから。で、新たにあなたの調査に対する仮払い30万円を受け取るの。調査にかかる必要経費はこの中から使えばいいわ。でも領収書は必要よ。日当の5万円も、この中からとって。もちろん自分で日当の領収書を書くのよ、いい?」
 僕は頷いた。
 すると、清花が持っていたおそらく100万円の札束は、調査費用として彼女に会社から仮払いされたお金、ということだ。信用があるのか、適当なのか……。風の予感とは、いったいどんな会社なんだろう?
 そういえば僕は、この仕事に就くにあたって、履歴書も何も提出していない。

 僕が30万円を持ち逃げしたら、清花はどう責任を取るつもりなんだろう?

「素朴な質問だけど」と前置きをして、僕はそのことを清花に訊いてみた。
「そりゃあ、和宣を雇ったわたしの責任よね。人を見る目がなかったって諦めるわ」
「弁償するのかい?」
「あら、必要経費よ。アシスタントに逃げられましたって」
「それは必要経費じゃないだろ? だいいち、責任をとったことになってない」
「だから、いいのよ。人を見る目のないわたしに、アシスタントの雇用を一任した社長が悪いんだから」
 おいおい、本当にそれでいいのか?

「ま、逃げられるものなら逃げてみたらいいわよ。和宣がどこに住んでるかはもうわかってるし」
「海外に高飛びとかしたら?」
「航空券は十分買えるだろうけど、そのあと、現地で生活できる? 野垂れ死にするのがオチよ。それでもよければ、どうぞ」
 どうぞと言われたが、まあやめておこう。

「それと、余計なことかも知れませんが、サングラスと伊達眼鏡と付け髭を用意しておきました」
「そんなの、使うかなあ?」と、僕は言った。
「いいんですよ。とっといて。どうせ『風の予感』さんから出るお金、すなわち最終的には必要経費として依頼人が払うわけですから」

「商売熱心ですね」と、清花。

「なんだか、自分の懐が痛まなければ、何だっていいっていう感じがして、気が進まないけれど」と、僕。
「それは考え方の相違ですね。使えるものは使って、迅速に正しく処理をする。その方が依頼者のためになるんです。そのために必要なものは当然依頼者が負担すべきです」
「まあ、そう言うことだから」と清花。
 なるほど、それもひとつの考え方だ。というより、今更「風の予感」のやり方に意義を唱えても始まらない。

「あと、何か必要なモノやコトがあったら、こちらに電話して下さい」

 杉橋は名刺を僕に差し出した。
「さて、で、これが今回の請求書なんですが」
「さっきの30万円の仮払いから、即金で払ってあげて」と、清花。
 僕は請求書に書かれたとおりの金額を渡し、領収書を受け取った。

「これって、高いんだか安いんだか、さっぱりわからないや」
「そうですね。ハッキングや情報屋の相場って、わたしも知りませんから、高いんだか安いんだか、わたしにもわかりません」
「じゃあ、どうやってこの料金を割り出したんだよ」
「労働時間ですね。月にこれくらいの収入が欲しいっていう希望額を、月にこれくらいしか働きたくないっていう時間で割ると、単位時間あたりの私の人件費が出るでしょ? それに、3割をかけます。この3割で電気代とか家賃とか電話代とかをまかなおうってわけです。それに必要経費をプラスしてあります。必要経費は全て『定価』で算出します。安く仕入れた場合は差額が収入になりますね。定価でしか仕入れられなかった場合は一銭にもなりません。こういう商売ですから、百円以下の単位は切り上げています」

「その説明、もう3回聞いたわ」
 清花がからかうように言う。
「おかげでスラスラと言えるようになりました」

 

7.


 さて、いよいよ行動開始だ。どこから手をつけていいのかわからなかったので、まずは住所を頼りに現場へ行ってみることにした。ナビ付ケータイがあるので、現場へ行くだけなら地図は不要だが、土地勘を養うためには全体像を把握しておくほうがいい。僕は地図で時々現在地を確認しながら歩いた。

 駅からまっすぐ伸びる道路は、駅周辺こそ僕達が泊まっているビジネスホテルや、コンビニ、せいぜい4階建て程度のビルやマンション、個人経営のいくつかのお店などもあったけれど、すぐに普通の住宅地になる。田畑も目に付くようになる。
 コインパーキングになっている空き地も目立ち、思い出したようにプラモデル屋さんやら散髪屋さんやら銭湯やらが現れた。

 ふたつ目の交差点を超えると、にわかに道幅が狭くなる。対向車があればお互いスピードを落とし、道を譲り合わなくてはなるまい。
 次ぎの角を左に曲がれとナビは指示している。
 現在地確認のためにゼンリンの住宅地図を道端に立ち止まって広げた。

 心細げな表情で、路上に立ち止まり、個人名までことこまかに記入された地図を見ながらキョロキョロしているなど、なんだか不審者っぽくはないだろうか。
 出前の自転車でもあれば、行過ぎる人もなるほどと思ってくれるだろうけれど。
「いや、いくらなんでもそこまで偽装しなくてもいいよな」

 話し相手などいないのに、声を出していた。

 いかん、これじゃあ本当に危ない人だ。
 さっさと任務を遂行しよう。

 珍しく牛乳の自動販売機がある。「飲みたいな」と思ってから、喉が渇いていることに気がついた。仕事らしい仕事はまだ何もしていないのに、緊張している。
 シャツが汗ばむ。
 額の汗をぬぐって、紙パック牛乳を買い、深呼吸をしながら飲んだ。

 角を曲がって、やはりいくつかの辻を通過し、現場へは10分足らずで到着した。
 そこは古ぼけた住宅地の中にある、商店がいくつか集中した一角だった。全部で10店舗ほど。道幅もそれら店舗の前だけは、少し広くなっていた。しかし、長い間シャッターが下ろされたままとおぼしき店が半分を占める。
 件のお好み焼き屋もそうである。

 1階が店舗、2階が住宅といった風情だが、人の気配がまるでない。洗濯物もなければ、窓越しにポスターの裏が見えるとか、カーテンが閉まっているとかいうのも無い。なにせ、木製の雨戸が固く閉ざされているのだかで、そんなもの、見えないのである。
 全体がくすんだ色合いなのは、埃の膜にでも覆われているからだろうか。
 隣の文房具屋が開店しているのを確認してから、僕は周囲の状況をもう少し見ておこうと回れ右をした。
 情報収集はワンポイントだけでは何か手抜かりが出てしまうかもしれない。そう思ったからだが、同時に逃げの気持ちもあった。

「生前の山本さんを知る人から色々話をきけばいいのよ」
 清花の声が蘇る。

 訊くとしたら、まずは隣の文房具屋だろうが、何となく気が進まない。周辺状況の確認も大切だと自分で自分に言い訳をして、後回しにしたのである。
 ええい、自分の心理分析をして何になる。
 直感を信じて近辺を見て回ろう。

 駅から真っ直ぐ伸びる道まで戻り、さらにその先へ歩いてゆく。やがて道は国道との交差点に出た。国道沿いには、長距離バスのバスターミナルがあり、大きなスーパーマーケット、郊外型の大型書店、ホームセンター、パチンコ屋、コンビニ、ファミリーレストラン、ファーストフードショップ、そして郵便局と地方銀行などがあった。

 国道はもとは田畑の真ん中を突っ切って作られたバイパスのようで、大型店舗以外の場所はほぼ農地だ。
 交通量は多く、沿道のそれらの店は賑わっている。

 もはや駅は街の中心地ではない。
 車の利用者なら間違いなく国道沿いの大型店舗を選ぶし、数少ない鉄道利用者だって、駅からこの交差点の途中に散在する様々な店で用を済ますだろう。
 わざわざ角を曲がって、住宅地の中に埋もれたあの小さな商店街に出向く人などあるまい。

 ということは、もっぱら近所の人たちが相手の商売と言えるわけだが、それだってどうだろうか。
 くすんだ小さな店舗。しかも半分は閉店している。駐車場もない。店の前の道路は少しばかり広くなっているが、かといって長くは停めておけまい。
 後継者がどうこういう以前に、長年店を守ってきたおばあちゃんが亡くなればお好み焼き屋が閉店するのも無理からぬことだと思えてきた。隣の文房具屋がなんとかやっていけるのは、近所の小学生など、なんとか最低限のニーズがあるからと推測できる。
 国道の先に視線を向ければ、なだらかな山の斜面に新興住宅地が広がっていた。

 

8.


 文房具屋のおやじも結構な年齢のようだった。呼びかけると、「よっこらしょっ」と言いながら顔を出す。しかし、別段動作が鈍いわけではなく、ただの掛け声だった。顔色はいいし、声も良く通った。
 僕は来訪の意を告げた。
「なんであんたが山本さんのことを調べとるんだ?」

 うさんくさそうに見つめられて、一瞬ひるむ。

 だが、それは怪しい奴を見る目ではなく、純粋に素朴な疑問なのだとその後の台詞でわかった。
「孫に頼まれた? ばかばかしい。知りたければ自分で来いってんだ」
 もっともである。

「よく聞かされたよ。息子も孫も顔を出さない。景気の良いときも悪いときも、周りの人たちと力を合わせて、助けたり助けられたりしながらひとつの時代を乗り越えてきた。けど、この店も、わたし一代で終わりだってね」
 このおじいさんが言う「周りの人たち」には、きっとおじいさん自身も含まれているんだろうなと僕は思った。
「子供たちが母親に連れられて、ノートとか鉛筆を買いに来る。そのあと、子供たちにねだられて、隣でお好み焼きを食べて帰る。もうそんな光景を見ることもなくなったなあ」

 お好み焼き屋が閉店してまだ3年だ。
 当時、小学校1年生の子供だって、まだ4年生になったにすぎない。それほど過去のことではない。なのに、文房具屋の店主は、目を細めて、遥か遠くの記憶を懐かしがるような表情をした。
「子供たちも、母親と一緒にここへ来るメリットを無くしたんだろうな。最近じゃ、1人で来て、用事だけ済ませてさっさと帰るよ。それどころか、もう朝のいっときしか子供たちも来なくなってしまった」
 この文房具屋は朝早くから開けているんだとおじいさんは言う。子供たちが学校へ行く途中に立ち寄って文房具を買うからだ。
「昔は、親が口をすっぱくして、『忘れ物は無いか』とか前の日に注意をしたもんだ。それで、鉛筆がない、ノートがもういっぱいだ、シャープペンの芯が切れている。なんてことになって、夜になってから慌てて買に来る子がいっぱいいた。でも、今の親は誰もそんなことは言わない。学校へ行く途中についでに買って行くだけだ。だから、もうずっと午後5時には閉店してる」

 おそらくそれは3年前に突然始まったことではあるまい。

 おそらく10年、あるいは、それ以上前から。じわじわとそうなっていったはずである。しかし、このおじいさんにとって、全ての転換点は3年前、隣人が亡くなったまさしくその時に集約されてしまったのだろう。
 それに、夜の客が減ったのは、親がちゃんと注意をしなくなったからだけではないと思う。言うまでもない、コンビニのせいだ。
 冴えない文房具屋でノートや鉛筆を買い、隣の店で決して安くは無いお好み焼きを食べるより、コンビニならひとつで用が済むし、コンビニのおやつやジャンクフードの方がずっと安くつく。

 店の前にいつまでも座り込んで子どもたちがたむろしていたら、このおじいさんなら、きっとどやしつける。コンビニの店員はそんなことをしない。コンビニは決して町や大人の視点で子どもを見ない。ただの客商売なのだ。
 おおよその感覚はつかんだと判断した僕は、山本さんと親しかった人を紹介してもらって、おいとますることにした。

「ああ、それなら桜さんかな。3回に1回くらいしかお好み焼きは食べなかったが、しょっちゅうおしゃべりに来てたよ。忙しいときは店員に早代わりもしとったな」
 僕は桜さんの住所を教えてもらった。
 住所といっても、何丁目何番地、なんて正確なものじゃなく、だいたいあの辺に住んでいた、という程度のものだ。普段の会話の端々に出てくる情報を、おじいさんが自分なりに総合してくれたものだ。
 だから、探すのに苦労した。
 ナビはデジタルなデータが無いときは役に立たない。

 土地勘がないとはいえ、歩き回ったことが少しは役に立てばいいのだが。
 文房具屋を辞してから、僕は、桜さんの「桜」が苗字なのか名前なのか、果ては男なのか女なのか、確認していないことに気が付いた。
「やれやれ……」

 

9.


 教えてもらった「桜さん」の家は、もうこの近くのはずだった。
 ゼンリンの住宅地図には、居住者の名前がフルネームで出ているので、「桜」が苗字であろうと名前であろうと構わないのだけれど、全員の名前が出ているわけではない。未亡人で1人暮らし、というならともかく、ご主人が健在であれば、そちらの名前で表記されているだろう。となると、この地図から家を見つけるのは無理だ。
 表札には家族全員の名前を掲げているところもあるから、それに期待をして周辺をうろついたけれど、ダメだった。

「ふう〜」
 僕はため息をついた。本当なら地面にベッタリ座り込んでしまいたい気分だ。
 けど、高級とは言いがたいながらも、このあたりはほとんど庭付き一戸建て住宅が並んでいる。お好み焼き屋や文房具屋のあった古臭い商店街と、その周囲のくすんだ住宅地とは雰囲気が違うのだ。路上に座り込めるような感じの場所じゃない。

 落胆して立ったまま休憩しててもしょうがないので、通りがかった人に訊いた。歩き始めたばかりとおぼしき小さな男の子を連れた若いお母さんだ。
「すいません。この辺に、桜さんという方のお宅、ありませんでしょうか?」
「ああ、サクラさんね。そこよ」と、彼女は目の前の家を指差した。
「へ?」

 そこって、ここ?

 表札が出ている。桜ではない。
 家族全員の名前も表札に載っている。そこにも、桜とは書かれていない。

「ほら、ちょうどいらっしゃるわ」

 初老というにはまだ若い、でも中年の終焉にさしかかったくらいの年齢の、上品な女性が庭を箒で掃いていた。桜の花模様がちりばめられたエプロンをしている。
 桜さん、というのは苗字でも名前でもなく、ニックネームなのか?
「そうよ。桜の花が大好きで、いつも桜模様のエプロンとかチーフとかつけてらっしゃるから」
「ありがとうございました」
 僕は若い主婦に礼を言い、だいたいの場所とニックネームだけしか教えてくれなかった文房具屋の主人をうらめしく思った。

 しかし考えてみれば、お役所の事務仕事じゃないんだから、名前にさほどの意味があるとは思えない。個人を識別し、特定するという目的なら、ニックネームだけでも十分だ。
 本名を必要としない、本名にこだわらない、穏やかなつながり。それでいて、ニックネームだけで通じてしまう、濃い人間関係。
 そういうもので、このあたりの人と人との付き合いは保たれている。
 都会のあっさりした近所付き合いでもなく、さりとて田舎の農村のような何もかもドップリの関係でもない、このあたり独特の雰囲気を僕はつかむことができたような気がした。死者の気持ちを調査する、というような仕事では、こういったことが大きなヒントになるかもしれないと。

 桜さんの家を教えてくれたその女性は、桜さんとそれなりに近所付き合いがあったのだろう。彼女が間に入ることで、僕はあっさりと桜さんと話をすることができた。文房具屋の主人は、最初、うさんくさそうに僕を見たものなあ。
 僕が来意を告げると、桜さんは優しく笑った。普段からの顔見知りのように接してくれる。
「ああ、あの人はね、店を閉めてからでも、2階に住んでおられて、だからでしょうねえ、ほとんど毎日、店の方も掃除をしてたわよ」

 ちょっと待った。

 僕が聞いていたのは、3年前に山本さんが亡くなられて、それで店を閉めた、という情報である。そもそもそれが間違っていたのか?
「もう店は5〜6年前には営業をしてなかったと思うわ。いつごろだったかしら」
 そうか。これでわかった。
 たかが3年前のことなのに、文房具屋の主人が随分昔のように語ったのは、そういうことだったのだ。

 文房具屋の主人の語りに違和感を感じながらも、思い出と現実では時間の流れが違う、そう理解してしまった僕は、疑問を持たずにいた。しかし、彼が話していたのは、3年前のことではなく、少なくとも5年以上前のことなのだ。
 じゃあ、僕が与えられた「3年前に閉店」という情報は何だったんだろう?
 ニュースソースは?
 依頼主である山本さんのお孫さんしかありえない。清花が誤って僕に情報を提供したとは考えられないからだ。ちゃんと書面の依頼状も見せてもらった。

 ということは、依頼主は「閉店の事実」を知らなかったことになる。それだけ親交が途絶えていたのだ。

 あるいは、孫に心配をかけまいとして、嘘を言っていたとも考えられる。「毎日、元気に営業してるよ」と。

 生計はどうしていたんだろう?
 お好み焼き屋の売り上げではたいしたことはなさそうだ。資料から年金額はわかるが、蓄えを取り崩していかないと、ちょっと難しいように思われる。もっとも、蓄えがあれば、の話であるが。
 そうだ。預貯金の明細も資料に入っていたっけ。
 さすがにここで資料を広げるわけにはいかないから、あとでちゃんと見てみよう。

「『閉めた店を掃除したって、疲れるだけじゃないの』ってからかうとさ、『私が生きているうちはこの店も綺麗にしておきたい。そして私の死後は掃除する人もなく、私と共に朽ちて行くんだよ』なんて言ってたわねえ」

 桜さんはそう付け加えた。

 なるほど、これなら辻褄が合う。
 いつお孫さんが来ても「ちゃんと営業をしている」と嘘をつけるように、掃除をしていた、という辻褄だ。孫が訪ねてきたその日だけのことなら、「今日は定休日」とかなんとか、いくらでもごまかせる。しかし、埃が積もっていたら、そうはいかない。
「でも、本心はどうかしらね。生きている間は綺麗にしておきたいだなんて、そんな感傷みたいなもので、あれだけきちんとしておくことはできないとも思うわ。息子さんも、お孫さんも、りっぱな勤め人になられて、いまさら店を継ぐなんてことは期待できないだろうけど、いつでも使えるようにしておきたかったんじゃないかしら?」

 僕はどうしてそう思うのか、桜さんに質問した。
「掃除だけじゃなくて、器具類も手入れされてたようですからね。私にはお好み焼き屋さんの器具がどうこう、なんてわかりませんけれどね」
 それは宝石商をしている息子や、サラリーマンの孫にとっても同様だろう。従って、「私は元気に毎日やってるよ」と偽るのが目的なら、そこまで手入れする必要は無い。むしろ、いつでも経営再開できるように維持管理していた、という方が説得力がある。
 しかし、何の疑問を持たずに営業していた頃と同じようにしていただけかもしれないし、息子や孫に見抜かれないように念には念を入れただけとも考えられる。あるいは本気で、「生きている間は全てのことに抜かりなく」という店への愛情だったとも受け取れる。

 まったく、清花のやつ……。

 何人かに話を聞いたら簡単に解決できるようなことを言っていたけれど、いくつも仮説が立ってしまって、これじゃ絞りようが無い。

 桜さんが僕に警戒心を持っておないのをいいことに、僕はズバリ核心を質問してみた。
「え? 山本さんがどんな気持ちだったかって? 継いで欲しかったかどうかなんて私にはわからないわねえ」
「そうでしょうね」と、僕は相槌を打った。
「お店が無くなってしまうのはもちろん残念だったろうし、愛着もあったでしょうから、跡を継いでくれるというのなら、そりゃあ喜ばれたでしょうけれど、でも、あのお店で一家を支えるほどの収入があげられるのかしら?」
「むつかしいと思いますけど……」
「山本さんも、きっとそれはわかってたんでしょう。だから、息子さんやお孫さんに、そんな話はしていないと思うわよ。現実として難しい話だから、最初から期待していなかった、でもやっぱり寂しかった、そんなところじゃないかしら」

 

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