第1話 オフィス「風の予感」 =3=
それから僕はいくばくかの細かい質問をして、桜さんのお宅を辞した。 待機場所のホテルへ向かって歩く。 歩きながら、頭の中を整理した。 きちんとした勤め人になっている子供や孫に跡を継がせたいと、あえては思わない。けれど、店がこれっきりで終わってしまうのは残念だ。 まずはこんなところだろう。 そうだろうなあ。半生をこの店と共に生きてきた人にとって、このまま店が消えて無くなってしまうのは惜しい。これは当然の気持ちだ。 できれば誰かが引き続きやって欲しい。でも、誰かって、誰が? 大きな会社じゃない、個人商店だ。身内がやらなきゃ、誰もこんな店、やるとは思えない。 そこで、ぶつかる壁。 息子も孫も立派な勤め人になっている。それを捨てさせてまで「後を頼む」なんて言えない。もちろん山本さんの血を引くのはこの二人だけではないが、杉橋が持ってきた資料によると、結婚して家庭を持つ者、自分で事業をはじめた者、まだ学生の者と、それぞれ自分の立場というのがある。 だから、おばあちゃんの夢を叶えるには、誰かが犠牲にならなくてはならない。 もちろんおばあちゃんは誰かに犠牲を強いるつもりなんかない。だから、近所の親しい友達やお客さんには心情を語っても、身内には何も言わなかったのだ。 でも、その本心は…… そう考えるとなんかやりきれなくなってしまった。だけど、もっとよく考えると、この程度のことは毎日あちらこちらで起こっていることでもあるだろう。 そうだ、お店の評判はどうだったのだろう? 味とか、雰囲気とか。そういうことは山本さんの気持ちとは直接の関係はないかも知れないけれど、少し調べといた方がいいような気がした。 もう店を閉めて5年以上になるというが、その理由は桜さんによると体力の限界を感じたからということだった。やむをえまい。年齢が年齢だ。掃除くらいはできても、火の前で立ちっぱなしはつらかろう。 そして、そういうやむを得ない理由で店を閉めるとき、このお好み焼き屋は惜しまれて店をたたんだのだろうか? それとも、寿命がつきた電球のように、ふっと消えてしまったのだろうか? 気軽に話をしてくれそうな人を桜さんから2・3教えてもらっている。 グルメ雑誌の記者を装って、そのうちの一軒を訪ねてみた。 「あら、あなたダメねえ。肝心のお店へ、まだ行ってないでしょ。とっくに店じまいしてるわよ。そうかあ、最近のグルメ記事がいい加減なのは、自分の舌で確認しないで、人の話を鵜呑みにしてるからなのね」 それはないだろう。人に話を聞くより、絶対的に自分で食べに行ったほうが早い。 ということは、それは取材の仕方がなってないのではなく、その記事を書いた記者の舌がダメなのだと僕は思う。 そんなこんなの意見交換をしてても意味がないから、僕は参考までにと食い下がり、色々と教えてもらった。 総合的に評価をすると、「とりたてて絶賛するような味ではなかったが、やはり素人が家庭で焼くお好み焼きとはひと味違っていた。おばあちゃんの人柄や店の醸し出す雰囲気も良かった」というところだろう。 いずれにしても、既に無い店の評価をするのは難しい。 自分で確認できないし、誰かの評価も所詮は過去のことだ。死人を悪く言う人はいないだろうとも思う。 僕は調査を打ち切って、やっぱりホテルに帰ることにした。途中、コンビニでスポーツドリンクを買ってからホテルに戻る。 歩き回ったとはいえ、さほどの距離ではない。なのに、やたらと疲労を感じ、喉も渇いていた。スポーツドリンクをベッドサイドに置いて、ベッドに腰掛ける。僕は、誰か聞いてくれる相手がいるわけでもないのに、「さて、と」などと呟いていた。 文房具屋さん、桜さん、そして常連の客。 この3人の話を聞いて、だいたいのことはつかめたと思う。 あとは、これをどのように報告書にまとめるかだ。 そんなことを考えながらゴロンとベッドに横になる。シングルなのに枕がふたつあり、それを重ねて頭の下に敷いた。考えをまとめようと、目を閉じる。 喉の渇きが気になったが、すぐ傍においたスポーツドリンクに手を伸ばすのもなんだかだるい。 そういえば、昨日は読書で全く眠っていない。 そして清花と会い、そのまま仕事に狩り出されてしまった。 そんなわかけで僕は、目を閉じた途端に眠りに落ちてしまった。 |
良い加減の空調で身体が弛緩したのか、僕は口を開けて眠っていたようだ。気がつくと、舌の表面はパリパリで、喉の奥もカラカラだった。 もうすっかりぬるくなってしまったスポーツドリンクを、慌てて喉の奥に流し込む。汗を吸っていたシャツは空調と僕の体温ですっかり乾いていたが、肌の表面になにやらネットリとしたものを感じて、気持ち悪かった。 風呂に入ろう。 ビジネスホテルの部屋は、僕だけのために時間貸しされた小さな箱だ。誰に遠慮することもない。服を脱ぎ散らかしつつバスルームに向かい、バスタブに湯を張りながら、残っていたパンツと靴下も脱いだ。まだ寝起きで頭の中はぼんやりしている。けれど、身体は意外にもシャキシャキと動いた。 時計を見れば9時。ホテルに戻ったのが確か5時頃だったから、4時間ぐらい寝ていたことになる。いや、考え事をしつつ眠りに落ちたんだから、正味眠っていたのはもっと短い時間だろう。 にしては、深い眠りだった。 徐々に頭の中も冴えてきていたし、疲労のかけらはどこにも残っていなかった。 お湯はまだ三分の一ほどしかバスタブを満たしていないけれど、僕は気にせず入ることにした。僕が湯船に浸かることで湯の表面は一気に上昇した。狭いユニットバスなので、足を曲げて座り込み、背中をバスタブの一辺に預ける。じんわりと肌の表面から温もりが伝わり、身体の中に染みてきた。 備え付けのタオルを濡らし、そのタオルでゴシゴシと顔をこする。 気持ちよかった。顔の表面に薄く膜を張った汚れをこそげ落としているような気分である。 続いてボトルからボディーソープを無造作にタオルにとって、そのまま脇の下にあてがって擦る。ゆっくりと、指の先まで、シャボンだらけのタオルで丁寧に洗う。タオルを右手から左手に持ち替えて、もう片方の手も同様に。 湯量は増えており、もう腰の辺りまで湯にたゆたっている。 温度をきちんとあわせず、適当に蛇口をひねったものだから、少し熱めだ。溜まり始めの温度が低かったのと、バスタブが温もっていなかったのとで、最初はそれで良かったのだけれど、そろそろこのままでは熱すぎる状態になりそうだ。 一本に伸ばしたタオルの両端を両手でつかみ、背中を擦ってから、温度調節に取り掛かった。 これがなかなかうまくない。温度調節のダイヤルを冷たいほうに回すとぬるくなりすぎるし、熱いほうへ動かすとまた行過ぎる。 これを何度か繰り返し、「よし」と思える頃には、湯は十分溜まっていた。 立ち上がって尻や腰を洗い、足を一本ずつバスタブの縁にのっけて擦るうち、湯は上部の排水口にまで達した。 すっかり身体を洗い終えた僕は、ボディーシャンプーのせいで白濁した湯に身体を沈めた。一気に浸かりたいところだが、それだと湯があふれ出してしまう。 排水能力を見定めながら、ゆっくり、ゆっくりと姿勢を低くしてゆく。 いっそのこと給湯を止めればいいんだけれど、次に出すときの温度調整が面倒だ。 湯の表面に浮いた垢や油や毛が上部排水口に引き寄せられるのをぼんやりと見ながら、やがて僕は首から上を除いて、全身をくつろぎの中に泳がせた。 4時間ほど眠ったせいですっかり疲れは取れていたが、湯の中でじっとしていると、さらに力が漲ってくるようだった。 それは同時に、仕事に対する充実感であったようにも思う。 疑問に思うことを、訊くべき人を探して、おもむろに質問をぶつけてみるそして、見事に答えを得たという充実感だ。これは、僕のこれまでの人生になかったことだ。 |
中学・高校を通じて、僕は何人かの女の子に好意を持った。 その都度、その女の子のことをもっと良く知りたいと願った。 といっても、誕生日や好みの音楽やどんな本を普段読んでいるのかなどといったことではない。知りたかったのはただひとつ、「キミはボクのこと、どう思っているの?」である。そこまで単刀直入には訊けないので、せいぜい「好きな男性のタイプは?」などと言うばかりだ。 相手がどう思っていようと惚れたことに変わりはない。ならば、彼女の目を見ながら心をこめて告白し、「付き合って下さい」と言えばそれでいいのだけれど、それができなかった。 断られたらどうしようという想いが先に立ち、告白なんてとてもできなかった。……というのなら、まだいい。 情けないことに僕は、相手が自分のことなどなんとも思っておらず、いや、むしろ嫌ってさえいて、「いや、気持ち悪い、近寄らないで」なんてことすら言われるのではないかと、ビクビクしていたのだ。かといって「僕のことどう思う?」とストレートに訊く勇気も無い。だから、「好きな男性のタイプは?」などと、回りくどい訊き方をしてしまう。 半ば冗談でも、「おっきい胸してるな〜。今度、触らせてくれよ」なんてことを平気で言うクラスメイトが羨ましかった。 言われた女の子も「触るだけでいいの〜?」なんて、返している。 半ば冗談といっても、もしそいつが教室であるにもかかわらず、本当に胸にタッチしたって、その子は本気で怒ったりはしなかったろう。せいぜい、「ちょっと、やめてよ〜」と軽く手を払いのける程度に違いない。 それに比べて、僕は、どうだ? 同じクラスにいるというだけで、授業や行事など必要に応じて最低限の会話しかしたことのない女の子に、「好きな男性のタイプは?」などと質問する。考えてみればその方がよほど気持ち悪い。 「俺、お前のこと、好きだ」と言うなり抱きしめたり、唇を奪ったりするほうが、その場でひっぱたかれたとしても、気持ちがストレートに出てる分だけ、気持ち悪くは無いと思う。行動の良し悪しは別にして、だけれども。 そんな過激な行動をとらなくても、「僕はアナタのことが好きです。アナタは僕のことをどう思っていますか?」で良かったのだ。 幸い、こんな僕にも、彼女ができた。 相手から告白してきたからである。 高2の秋だった。 僕はその子のことをよくは知らなかったけれど、とりたてて悪い印象をもっていたわけでもない。だから僕は付き合うことにOKした。 そうして彼女は、僕という男を手に入れた。告白までにそれなりの逡巡はあったかもしれないが、「好きだから、付き合ってください」といい、僕が「うん、いいよ」と答える。たったそれだけだ。 こんな簡単なことで済んでしまうんだと、あっけにとられた。好きな女の子に告白できずに、うじうじしていた自分は何だったのだろう? 僕は、僕のことを好いてくれている、それだけで彼女のことが大好きになった。しかも彼女は、とても気持ちのいい性格の子だった。 僕達の付き合いは1年半ほどに及んだが、それぞれ別の大学に進学し、だんだん疎遠になって、「自然消滅は嫌だから」と、彼女から別れ話をしてきた。 僕も自分の中で彼女の占める割合が小さくなってきていることに気がついていた。会えない日もさほど辛く感じなくなっていた。きっと、彼女もそうだったのだろう。僕は「わかった」と返事した。 この時もそうだった。彼女は自分の気持ちに素直に「別れたい」といい、僕はOKしただけだった。 1人になって、僕は何も成長していないことを思い知らされることになった。 大学のキャンパスにもやはり気になる子がいたけれど、何も言い出せなかった。 今度はもう「好みの男性のタイプは?」などとは訊かなかったし、僕を好いてくれる女性だっているんだということが自信となって、自ら気に彼女に近づいて色んな話もしたし、2人っきりではないにしても、カラオケや飲み会などに誘ったり、彼女のいるグループに混じったりした。仲のいい友達くらいには思ってくれているはずだ。彼女から誘われることも珍しくなくなった。 けれども、そこまでである。 嫌われていないことは確信していても、それは友達として、ということ。 いざ、彼氏にするとなったら、「それはちょっとねえ」と言われるのが怖くて、僕は告白できなかった。友達以上、1人の男性として、彼女が僕に好意を抱いてくれているのかどうか、それがわからなかったからだ。 結局、僕は何も変わっていなかった。 だけど、今日は違った。 恋愛なんかじゃなくて、仕事の上でのことだけれども、「好きな男性のタイプは?」ではなく、「僕のことをどう思っていますか?」と訊きまくったに等しい1日だった。 それゆえの充実感だ。 |
僕は少し興奮していた。 目を開けると、バスタブの湯は白濁の具合が少し薄くなっていた。湯を流しっぱなしにしていたので、かなり入れ替わったのだろう。 今日のこと、清花にどう報告しようか。 レポートもさっそく書き始めてよう。 僕は立ち上がって湯船の栓を抜き、同時にシャワーを浴びた。 本当は湯が抜け切ってから、全身に新しい湯を丁寧にかけて、完全に汚れを落としてしまいたかったのだが、気がはやった。 右足を浮かせてシャワーから湯をかけ、軽く拭いてからバスマットに載せる。次に、左足も同様に。 まあ、こんなところでいいだろうと思った時、部屋の呼び鈴が鳴った。ろくに身体も拭かず、ホテルの浴衣を羽織ってドアまで行き、「はい」と返事しながら覗き穴を見る。清花だった。 「あ、和宣? 帰ってたのね。いま、いい?」 時計を見る。もう10時を回っていた。 僕はロックとドアチェーンを外した。 「どうぞ」 「うん」 清花は少々疲れた表情をしていた。 「いま、終わったの?」 「そう。和宣はお風呂に入ってたのね。もしかしたら、まだ途中?」 「いや、ちょうど終わったところ。どうぞ」 清花は「うん、ありがと」と言って僕の部屋に入ってきた。 ため息を、ひとつ、ふたつ。足取りもやや重そうだ。仕事が思ったようにはかどらなかったのかもしれない。 勝手に冷蔵庫からビールを取り出し、ベッドの縁に軽く腰掛けて、リングプルを開けた。何とも気持ちのいい音が響く。ビールが清花の喉をかけおりる音はさらに気持ちよく、彼女はとても美味しそうに目を細めた。 「結構疲れたみたいだね」と、僕は清花に声をかける。 「ん、まあ。覚悟はしてたんだけどね。そっちはどう?」 「順調」と、僕は答えた。 清花の方はあまり順調そうではなかったけれど、僕の答えを聞いてホッとしたようだ。曇っていた表情が和らいだ。 「それは良かったじゃない。ビールでも飲みながらでいいから、簡単に聞かせてよ。それで、明日の動き方も考えましょう」 明日も何も、もう全ての調査を終えている。 もちろん、そこまで調査が進んでいるとは、まさか清花も思っていまい。僕は缶ビールを開けて、今日の出来事を順に報告した。 まずは周囲の町の様子、そして隣の文房具屋さんで聞き込んだこと。 「周囲の様子を観察するのは、いいことよ。どんなヒントがあるかわからないからね。新人にはなかなか思いつかない行動なんだけど、なかなかやるじゃない」 清花はニコニコしながら、「それで」と身を乗り出す。 続いて僕は、桜さんとのやりとりを話した。 「う〜ん、なるほど……」 そこで、清花は腕組みをして、俯いた。 何か考え事をしているようにも思えたが、僕には清花の真意はわからない。相変わらず僕は、ひとつの仕事を終えたという満足感で高揚したままだった。あとは報告書としてまとめるだけだと思っていた。だから、清花が急に難しい顔をして考え込んだのが不思議でならなかった。 そういえば、店の周辺のことや、文房具屋さんから得た情報の報告のときは、あれほど明るかった清花の表情が、桜さんとのことを語るにつれ、心なしか固くなりつつあったように思う。僕は少しばかり不安になった。 何かマズいことをしたり、言ったりしただろうか。 僕はいったん言葉を切った。そして、清花が何か言うのを待った。 清花は「煙草、吸ってもいい?」と訊いた。 「あ、いいけど、吸えるんだ」 「本当は、仕事中と人前では吸わないようにしているんだけど、いいかな?」 「どうぞ」 「ありがと」 清花はセカンドバックから煙草とライターを取りだし、一本を口にくわえて火を付けた。それから清花はいったん立ち上がってデスクの上の灰皿を持ち、そのまままたベッドの縁に腰掛ける。 清花に促されて僕は続きを話し始めた。桜さんに紹介された常連客女性から聞いた店の評判についてである。 僕が語り終えると、清花は吸いかけだった何本めかの煙草を灰皿に押しつけて消し、デスクの上に戻した。ビールの空き缶はそっとゴミ箱の中に入れる。もう飲み終えていたのだ。僕もわずかに残ったビールを喉に流し込んでから、同じようにそっとゴミ箱の中に空き缶を入れた。 「で?」と、清花が言った。「今日のその調査を、どうするつもりなの?」 僕からの報告を聞き始めた頃のような、「順調なの? よかったね」という感じは消えていて、どこか事務的な、淡々とした口調だった。 思い過ごしかもしれないけれど、詰問調ですらあったかもしれない。 「どうって、あとは順序だてて整理して、結論を報告書に……」 「待って!」と、清花が言った。 言葉だけではなく、清花の視線すらもが、僕の台詞を押し留めた。 「いったい今日一日、何をしていたの?」 事務的な口調ならまだしも、それはまるで劣等生を咎め立てするかのようだった。 「何をしてたって、調査に決まってるだろう?」 少なからず僕はふくれっつらになっていただろう。 「わかってるわよ、そんなこと。わたしが言いたいのはね、今日一日かけて、そこまでのことを聞き込んできて、その程度のことしか感じなかったの? ってことなの」 調査そのものはともかく、「その程度のことしか感じなかったの?」というのが彼女の僕に対する不満なのだ。 その程度のことしか感じなかったの? 反芻してみるが、よくわからない。 調査というのは事実の積み上げなんだから、感じるも感じないも、ないはずだ。 いったい何が不足しているのだろう? 僕は黙っていた。 「ねえ、調べてきたことをそのまま報告書にまとめてどうすんのよ」と、清花は言った。「言っておいたはずよ、わたしたちの調査は、死者のためにするのではなくて、生きている人のためのものなんだって」 「わかってるよ、そんなこと」 叱責もどきの清花の口調に僕もつい応戦してしまう。 「山本のおばあちゃんが自分の半生を費やしたお好み焼き屋に、どんな思い入れを持っていたか。子供や孫に跡を継いでくれとどうして言わなかったのか。この調査を報告書にまとめたら全ての気持ちが伝わるじゃないか」 ムキになる僕に、同じ調子で会話していたら埒があかないと思ったのか、清花はひとつふたつ深呼吸をしてから、ゆっくりと言った。 「だから、それじゃ、だめなのよ」 「何故?」 「そんな報告を受けて、遺族は『わかりました、では明日からお好み焼き屋を再開します』ナンてことになると思う?」 「それは、無理だろうけどさ」 「そう、多分、無理よね。無理だとわかってて、そんな報告書を出していいわけないのよ」 「ちょっと待って。もともとの依頼は、山本のおばあちゃんはどう思っていたか? それを調べることなんだろう? 実際にお好み焼き屋を再開するかどうかは、遺族の問題じゃないか。それに、報告書には『お好み焼き屋を是非再開して欲しいと思っていた』なんて文言は出てこないよ。残念に思っていたけれど、息子や孫のそれぞれの道を尊重して、何も言わないことにした、程度にしかならない」 清花の口調は落ち着きを取り戻していた。逆に僕は興奮していた。 「だから、そういう書き方をしたら、跡を継がない遺族が責められてるみたいじゃない」 「じゃあ、依頼の内容を無視して、遺族にとって都合のいい報告書を出せってコト?」 「極論に走らないで」と、清花は言った。 しばらくの沈黙。 「銀行の預貯金や納税額のデータ、持っているよね。それを見ればわかるけど、お好み焼き屋の経営で得てきたお金は多くはないわ。年金とあわせてなんとか店を維持できる程度。そして実際には息子さんからの仕送りも受けている。つまり、現実的に儲かる商売じゃなかったってことよ」 「うん、それは僕もわかってるよ」 「つまり、お好み焼き屋の経営だけでは、家族を養っていくには不十分ってことよね」 清花は淡々とした口調で言った。 「山本のおばあちゃんは、子供や孫たちの生活を奪ってまで、店を続けて欲しいなんて思ってなかった。それはちゃんと報告書に書くよ」 「それじゃ、今の生活を奪いたくないから、我慢してたってことになるじゃない。それってやっぱり、遺族を責めていることになるわ。そんな調査結果を報告されて、遺族が平気な気持ちでいられると思う?」 「さあ、それはわからないけど」 「わからないなんてどうかしてる。こんな調査を依頼してくるほどの人が、平気なわけないじゃない。繊細な人なのよ。だからこそ依頼してくるの。その結果がそんなんじゃ、少なからず、心の平穏が奪われるのよ」 それは、その通りだろう。しかし、どんな結果が出ようとも、それを受け入れる。僕はそのための調査だと思っていた。 けれど……。 依頼主は、繊細な人。 少なからず、心の平穏が奪われる。 清花にそう指摘されると、僕は返す言葉がなかった。 「それだけ調べて、何も感じなかったのか?」 遺族の気持ちをもっと考えろ。感じろ。清花はそう言いたかったのだ。 死者のためでなく、生者のための調査。僕は清花が言わんとしていることが少しわかったような気がした。 「それにね、あなたが調べたようなこと、とっくに遺族の人はわかっているのよ」 「え? わかってたって?」 わかってたんなら、調査依頼をする必要なんか無い。その理屈はおかしいと言おうとしたが、清花が先に続きを喋った。 「わかってて調査依頼をしている。なぜかわかる?」 なぜかって……。 わからない。わかるわけがない。 「救いを求めてるのよ」 「え?」 「おばあちゃんにとって店が無くなることは無念だった。わかっているけれど、それに応える術がなかった。でも、本当にそうだったのか? もしかしたらおばあちゃんの本心はそうではなかったかも知れない。そう思うことで、救いを求めているの、依頼者は」 「だからって、おばあちゃんは実は店が無くなることを何とも思っていなかった。まして誰かが跡を継いでくれたらいいなんて、これっぽっちも思っていませんでした、そんな報告書が書けるわけがない」 「そう、その通りよ。だから、こんな商売が成り立つんじゃない」 だから、こんな商売が成り立つんじゃない。 清花のその台詞が僕の頭の中を何度か行き来した。 |
「ねえ、和宣って、お墓参りしたことある?」 清花は話題を変えた。 「それは、ある、けど」と、僕は答えた。答えたけれども、何故急に清花はそんなことを言いだしたんだろう? 「お墓参りをして、綺麗にお掃除をして、花を手向けて、線香に火を付けて、両手を合わせる。それは何のため」 「そりゃあ、先祖の霊を慰めて、ええと、それから」 「違うわ。そんな風に考えていたら、今回の依頼はこなせない」 「違うって?」 「死後、人間がどうなるかなんて、誰も知らない。知らないけれども、先祖の霊を慰めるようなことをする。はたして先祖の霊は子孫が拝んでくれていることを理解しているのかしら。理解しているとして、それをありがたいと思っているかしら」 そんなこと、考えたこともなかった。 僕に答えられるのは、せいぜい「それが信仰のひとつの形だから」くらいだ。 「それに答えられる人はいないよね。けれど、お墓参りをするのは何故? 仏壇に手を合わせるのは何故? あるいは、霊の存在そのものが否定されてしまったら、人は先祖を拝むことをやめてしまうもの?」 僕にはわからなかった。 わからないことだらけだ。 「清花には、答えがあるの?」 「もちろんよ。この仕事の1番大切なところなんだから」 ベッドの縁から立ち上がり、清花はデスクに備え付けのスツールに座った。 僕と正対して、僕の目を見つめる。 明らかに、これまでの清花とは違っていた。 調査が順調だと言う僕に向ける歓びの表情でもなく、僕の調査が不十分だと責めるでもなく、無知な人間を教え諭すのでもない。あえて言うなら、真摯。あるいは誠意。もしくは信念。 仕事だから依頼をこなす、というのではなく、「その1番大切なところに触れるためにこの仕事をやってるのよ」と彼女の目が語っていた。 「先祖の霊なんて関係ないの。自分がお墓参りをしていることが大切なのよ。先祖の霊は自分の心の中にあるの。そして、心の中の霊を慰めることで、自分の心に平穏をもたらすの。極論すれば、お墓なんて本当は必要ないの。あんなもの、ただの形。でも、形があった方が入りやすいじゃない? だから、お墓っていうのは、便宜上設けられたアイテムにすぎないのよ。それを利用して、心の平穏のために、人はお墓参りするのよ」 清花は一気にまくしたて、僕は心の中でため息をついた。 清花の説に賛成できるとかできないとか、理解できるとかできないとかではない。そんなことまで考えながら清花はこの仕事に取り組んでいたんだ、そう思うとため息が出るのだ。 「死者を悼む気持ち、それは、死者のためにあるのではなく、生きている人のためのものなの」 「じゃあ、この調査の報告書、どう書けばいいんだ?」 「それはまだ分からないけど、調査不足であることは確かよね。でも、結論はある程度決まっているの」 結論は、決まっている。 清花の演説を聴いたからかもしれないが、僕の気持ちの中でも、それは固まりつつあった。 「お好み焼き屋の跡を誰も継がなかったけれど、おばあちゃんはそれでいいと思っていた。子供たちや孫たちは、自分たちの幸せのために努力をすればいい」 僕は朗読をするように声に出した。 「その通りよ。だけど、和宣の今日の調査からその結論を導き出すには無理がある。無理に結論づけたら嘘の報告をしたことになる。つまり、調査不足よ」 「そうだね、うん」 僕は調査を完遂したと思いこんでホテルに戻ってきたときの、気持ちの高揚なんかすっかり無くしていた。逆に、落ち込んですらいた。 「どうすればいいんだろう」 口に出すつもりはなかったけれど、声になった。清花の耳に入った。 「さあ、どうしようか。普通なら、和宣くらい聞き込んでたら、なんかその中にヒントがあるんだけどなあ」 「ヒント、ねえ」 僕は頭を抱え込んだ。それはきっと、僕が調査をした中にあって、かつ僕では気がつかなかったことなのだ。 やっと僕は、「何も感じなかったの?」と言った清花の気持ちがわかった。 「しょうがないわねえ。こんなことまで話すつもりは無かったんだけど、これも縁ね。わたし自身のこと、教えてあげるわ」 |