第1話 オフィス「風の予感」 =4=
わたし、立花清花が喫茶『憧憬』のドアを開けたのは、2年前の9月の初めだった。恋人の死から、ほぼひと月が経過しようとしていた。 残暑はまだ厳しかった。しつこい暑さの中、秋は不意に姿を現しては、すぐに消えた。早く完全な秋にかわって欲しいとわたしは思った。わたしはもっと秋を必要としていた。 夏は好きな季節だった。空も大地も海も山も空気も、そして自分までもが輝く。けれども彼が死んでからというもの、キラメキに包まれているはずの夏が、とても色褪せて見えるようになった。 輝いているのに色褪せている。 いっそのこと全てのものが、わたしの心と同じように、枯れた色彩になればいいのに。 まだ夏の多くが残された9月の中で、わたしだけが仲間外れにされていた。 わたしは喫茶『憧憬』で有田という男と待ち合わせをしていた。有田は「オフィス風の予感」の社長で、「死者の気持ち」を調査してくれるという。 浮気調査・素行調査の類ならわかる。だけど、死者の気持ちを調査するって? なんなの、それ? 風の予感の存在は、わたしが恋人の死から立ち直れないでいるとき、友人の一人が教えてくれた。 「それで清花の気持がどうなるとも思っていないけれど、もし、気休めにでもなればと思ってさ」 「そんな、今更彼の気持ちを知ったところで……」 最初は気乗りがしなかった。 「でも、彼のこと、もっと知りたいと思うでしょ?」 そりゃあ、命の火が消えていくのを感じながら、その中で彼がわたしのことをどう思っていたのか、知りたいと思う。 「でも、そんな調査会社があって、きちんと営業してるって、ちょっと信じられない」 「あたしもさ、ひょんなことで連絡先を知っていただけ、なんだけどさ」 半信半疑だったけれど、わたしは教えられたところに電話した。 「はい、オフィス風の予感です」 通じた。確かに「オフィス風の予感」は存在するのだ。 「あ、あの、そちらで死んだ人の気持ちを調査してくれるっておうかがいしたんですが」 「はい、承ります。私は社長の有田と申します。どうぞよろしくお願いいたします」 怪しげなところかとも思ったが、電話の応対はきちんとしている。 「まだお願いするかどうかも、決めてないんですが」 わたしは正直に言った。 「それでは、とにかく一度お会いしましょう。依頼されるかどうかはそれから決めていただいて結構ですよ」 わたしたちは時間と場所を打ち合わせた。オフィスらしいオフィスがないのでと、彼は喫茶店での面会を望んだ。 最初、電話をした時は、懐疑心の方が強かった。でも、会う日が近づくにつれて、風の予感の有田という人に頼めば、もはやこの世のどこにもいない彼に、一歩近づける。そんな期待がどんどんわたしの中で大きくなっていった。 そして、有田に会う日。わたしは早めに着いたので、先にコーヒーを注文して飲んでいた。気持ちを落ち着けようとゆっくりコーヒーを口に運んだが、何となく心がはやった。 彼はほぼ時間通りにやってきた。 「立花、清花さん、ですね?」 待ち合わせ場所に現れた有田のいでたちを見て、わたしは「この人になら」と思った。この人になら安心して調査を依頼できる、と。 髪は短く、きちんと髭を剃っていた。ハンサムではないけれど、清潔感あふれる爽やかな表情だった。でも、笑顔を見せない。「死」に関わる商売なのだからむやみと笑うのはタブーなのだろう。当然と言えば当然だ。 わたしが感心したのは、ニコリともしないのにわたしに好感を与えたことだった。 営業スマイルなら少しトレーニングをすれば誰にでもできる。そして、人は笑顔を見せられるとホッとするものだ。しかし、笑顔なしにそれと同じ感情を相手に抱かせるのはたやすいことではない。 真摯で、真剣で、思いやりがあって、優しく、そして厳しい。 そういったいろいろな要素を全て持っていて始めてできることだと思う。 服装も好印象をアップさせていた。 薄いオレンジのカラーシャツにノーネクタイ、茶系のジャケットを羽織り、薄茶とベージュの中間くらいの色合いのスラックスを穿いていた。すれ違っただけならカジュアルに見え、対面すると整って見える。 レジャーに出るような服装で初対面の依頼者に会うのはおかしいけれど、だからといってビジネススーツでは心の深いところまでを語る気にはなれない。 そのあたりのことも計算してのコーディネイトなのか、これが自然体なのか、わたしにはわからなかった。 「ホットコーヒーを下さい」 有田はウエイトレスが近寄ってくると、タイミングを見計らったように淀みなく注文をした。 「立花です。よろしくお願いします」 「オフィス風の予感の、有田です。こちらこそよろしくお願いします」 彼はそういって、テーブルの上を滑らせるようにして、名刺をわたしに差し出した。 ウエイトレスがコーヒーを運んでくると、彼はそれをひとくち口に含み、それからカップを静かにソーサーの上に戻した。 「では、お話をお伺いしましょうか?」 わたしは促されるままに、事故の時の様子を説明した。 |
彼、一畑徹の通う大学が休みにはいると、わたしと彼はバイクに荷物を積んでツーリングに出た。彼は兄と同じ大学の同級生。兄の友人として出会い、現在は恋愛進行形。ただし、わたしはそうそうに大学を辞めて、今はフリーターの身分だ。 彼のバイクはインパルス400ccで、わたしはセロー225ccだった。わたしのバイクは中古だが、状態のいいものを彼が探してくれた。 徹は高校の頃からバイクの免許を持っていた。わたしは彼と付き合い始めてから、彼にせかされるようにして免許を取ったばかり。正真正銘の初心者だった。 バイクツーリング。本当は彼の背中にしがみついて風を切りたかった。けれど、自分でバイクを操ってこそ楽しさも怖さもわかるからと、彼はタンデムツーリングを拒否した。 だからわたしは二輪の免許をとり、バイクも買った。 そして、始めての旅。 わたしと出会っていなければ、彼は北海道へソロツーリングに出かけるつもりだった。特に計画も立てず、野営の道具を持ち、気まぐれに北の大地を走りたい。 そんな彼の夢は一年間日延べになった。 「ごめんね、わたしのために」 「なあに、北海道は来年の夏だって行ける。だから、今年はいいんだ。来年、一緒に北海道へ行こう。そのためにも、とにかく今はバイクに慣れて欲しいんだ」 わたしたちのツーリングは2泊3日。無理のないきちんとした走行計画を立てた。泊まるところも予約済みだ。 初心者のわたしが前を走り、彼が後ろからわたしのライディングを見守ってくれていた。テクニックと排気量、どちらも差があるため、彼は悠々わたしの後ろからついてきた。 走行中の二人に会話はない。けれど、わたしは彼を身近に感じながら風を切っていた。そして、バイクで走るのはこんなに気持ちがいいんだと実感した。 それぞれの時間と世界が存在し、それを共有し、分かち合っている。 少しでもたくさんの時間を彼と共有したい。そう思っていたわたしは、タンデムツーリングに憧れていた。でも、そうじゃない。それぞれがそれぞれのバイクを操り、同じ空の下、同じ道を駆け抜ける方が、ずっと彼を身近に感じることができる。一緒に走って、初めてそのことを理解した。 道は山間部にさしかかり徐々に高度を上げていった。緩やかだったカーブも勾配も、だんだんきつくなってくる。峠が近づくと、まさにヘアピンカーブの連続になった。 わたしたちは峠をひとつ越えて、その先にある湖の畔の温泉宿を目指していた。 峠には展望台と駐車場があり、わたしたちはそこで休憩をした。 「慣れた?」 「ちょっとはね。でも、バイクを降りたら、なんだか足腰がヘロヘロで震えてたりする」 「うん、そう。最初は必要以上に力んだり、緊張したりするからね」 「こんなんで、来年は北海道を走れるようになるのかなあ?」 「大丈夫。たとえ一ヶ月のツーリングでも、それは毎日の積み重ねだから」 軽ワゴンを改造した屋台で、焼きそばとアイスクリームの昼食をとった。展望台の手すりから広がる風景を見ながら、わたしたちは立ったままで食事をした。木々の緑も、河や湖の青も、赤茶や漆紺の瓦も、黄土色の大地も、全てわたしたちの遥か下にある。全ての風景はわたしの視野の中。王様や領主なら、これを見て自らの支配力に満足するのだろうけれど、わたしは逆に、自分がとてもちっぽけな存在に思えた。例えば今ここで、わたしや彼がふっと消えていなくなっても、風景は何も変わらない。 峠から先は下りだ。下りの急カーブは恐怖心と隣り合わせだからと、徹が前を走ることになった。 「ゆっくり走るから。僕のラインを参考についておいで。但し、車間距離は十分開けてね。後ろから車が迫ってきたら左に寄ってスピードを落として、追い越してもらったらいいから。バックミラーから清花の姿が消えたら僕は止まって待ってる。焦って追いつこうとしちゃダメだよ」 「はい」 そうして慎重に峠を下っているときだった。 彼はゆっくり走ってくれていた。けれども、わたしとの差は徐々に開いてゆく。 カーブになると彼は完全に視界から消え、直線になるとようやく彼のバイクを捕らえることができた。 彼の方からも同じだったろう。 何度かそんなことを繰り返し、いくつめかのカーブでまた彼の姿が見えなくなった。彼の姿は見えなかったけれど、ふたつかみっつ先のカーブは見えた。右側が山肌、左側が崖。山の形に添って、道はペタリと張り付いている。 そして、直線。そのずっと向こう、カーブの手前に彼の走る後ろ姿が見える。でも、すぐにまた彼は山の向こうに姿を消すだろう。 彼が曲線にさしかかり、身体を傾けたところで、反対側からもダンプカーがやってきた。 彼は振り向いた。 「気をつけろよ」と、聞こえない彼の言葉がわたしの耳に届く。 その時だった。あれだけ慎重に運転していたのに、彼のバイクはふらついて、反対車線に飛び出した。振り向いたことで、バランスを崩したのだ。 目の前にダンプカー。 彼は必死に体勢を立て直し、ライン取りを変えようとした。 ダンプカーの反応は遅かった。運転手の驚愕した表情が見えたような気がした。安全運転で走る彼のバイクが、まさかはみ出してくるなんて、ダンプの運転手には思いもよらないことだったろう。 ダンプカーが急ブレーキをかけるのと、正面衝突はほぼ同時だった。 ダンプの前面ボディに衝突したバイクは跳ね飛ばされ、地面に叩き付けられた。その上をダンプカーが乗り越えていく。 アッという間にみっつものダメージを彼は受けた。ビデオをコマ送りでチェックするときのように、そのひとつひとつわたしは認識させられた。 とっさに、だめだ、と思った。 わたしは呆然としたままバイクを走らせた。スピードを上げることも、止まることもできなかった。事故現場には、もはや人間の形をしていない彼がいた。 どうしてタンデムツーリングをしなかったのだろう? こんなことになるのなら、ずっとずっと彼と触れあっていたかった。 それぞれが別々のバイクに乗り、同じ風を共有する快感に酔っていたわたしは、これ以上ないほどの後悔をした。 もう彼に抱かれることはない。 彼が初めての男性ではなかったけれど、喜びを教えてくれたのは彼だった。 事故現場を通過したとき、わたしも転倒したらしかった。わたしはその場でうずくまり、バイクは横転したままガードレールを突き破って崖下に転落したと、後で教えられた。 わたしは転倒して意識を失い、気がついたら病室のベッドの上だった。 |
「事務的な話から始めましょうか」と、有田は言った。 「はい」と、わたし。 「まず費用ですけれど、決して安くはありません。基本料金が5万円。そして、調査員一人一日につき2万円が必要です。それから、必要経費は全て依頼者持ちとなります」 いいですか? というふうに有田はわたしの目を見た。優しい目だった。わたしは頷いた。 「ぶっちゃけた話をしましょう。2万円の内、調査員の日当は一万円です。残りが社内的な運営費にあてられます。決してピンハネだとは思わないで下さいね。なぜこんなお話を最初にするかというと、依頼者の信用と納得がないとこの調査は成り立たないからです。もちろん、この段階で、信用できない、納得できないと判断されたら、それはそれでいいんですよ。我々はまだ契約をしていませんからね」 わたしはもう一度頷いた。 「調査員には日当以上の仕事をしてもらいます。もしあなたが、調査員の仕事ぶりが日当以下だと判断したら、いつでも、たとえ調査の途中でも、調査員の変更を要求できますし、キャンセルもできます。ただし、それらの申し出以前の費用は負担していただきます」 「まっとうな仕事をしていますっていう、自信の現れなんですね」 「それだけではありません。先ほど、我々を信用して、納得した上で依頼をしていただきたいと申し上げましたが、そのスタンスは調査開始後も変わらない、ということなんです。調査開始後でも納得いかないなと思われたら、その段階でキャンセルして下さって構いません」 「はい」 「それから、依頼の方法なんですが、次のみっつの中から選んでいただきます」 「みっつ?」 「まず、締切日を指定する方法。この場合、調査員への日当はあらかじめ計算できますから、経済的な面で予想以上に圧迫されることはないでしょう。また、指定の日に報告書が受け取れます。ただ、調査が完了するとは限りません。その場合は、締め切り日までに我々が調査した内容のみを根拠に報告書を作ります」 このやり方は、わたしには合わないなと思った。急いだばかりに中途で調査が打ち切られてはなんにもならない。わたしはきちんとした結果が知りたい。 「もうひとつは、必要経費も含めて調査費用の上限を設定する方法。これも調査が完了しない可能性はありますが、日数制限よりは随分マシです。例えば、何かを入手するのにどうしても一定の時間が必要、なんて場合があります。この間、我々は活動を停止して、余計な経費がかからないようにします。そして結果を待ちます。時間はかかることもありますが、経費的には節約できますし、結果もそれなりのものになります。残りの予算が少なくなってきたら、調査の精度は落ちることはありますが、依頼者と相談の上であえて費用をかけない方法を選択することもできます」 このあたりがわたしには妥当かな、と思った。 「でも、いちばんいいのは、無制限ですね。その結果『200万円』なんて事になっても困るでしょうから、折に触れ『現在の総費用はいくらです』ということはお知らせします」 「あらかじめ、見積もりとか、そういうことはできないんですか?」 「家を建てるとか、洗濯機を修理するとかじゃありませんから、確実な見積もりっていうのはないんですよ。ただ、おおよそこれくらいの時間と経費がかかるでしょうっていうのは、お話を伺ったときにお知らせします。その上で、どの方法にするか選んでもらったり、あるいは依頼を取りやめることもできます」 決して安い費用で済むとは思ってはいなかった。そのお金をかけることで気持ちにケリがつけられるのなら、もったいないとも無駄遣いだとも思わない。ただ、湯水のように支出する財力なんて持ち合わせていない。若干の貯金はあるものの、わたしはしがないフリーターなのだ。 「そして、最後の選択肢として、依頼をしない、というのがあります」 「え?」 わたしは耳を疑った。 「結論だけを言います。僕はこの仕事を引き受けたくないですね。いくらお金と時間をかけても、結論は出ない類の調査だと思います」 引き受けたくない。いくらお金と時間をかけても結論が出ない。有田はいま、確かにそう言った。 |
引くことも進むこともできずにいたわたしに、もしかしたらこの調査が何かを与えてくれるかも知れない。そう思っていたのに、わたしにはそのかすかな期待を持つことすら許されないということなのだろうか。 「どうして、ですか?」 「どうして……、それを説明するのは難しいんですが、そう、では逆にお伺いしますけれど、お墓参りをしたり、死者に花を手向けたりするのは何のためだと思いますか?」 「何の為って……、それは祖先の霊を慰めたりとか、そういうことですよね」 「それが、そうではないんですよ。霊、つまり死者の為じゃないんです。自分のためなんです」と、有田は温かい視線をわたしに向けた。「そもそもお墓参りしたことを死者が認識し、あなたに感謝するのでしょうか?」 「そりゃあ、死者が認識しているかどうかなんて誰にもわからないし、自己満足と言えば自己満足でしかないとは思いますけれど」 「自己満足。合っているようで、ちょっと違います。死者の魂っていうのは、死者を拝む生者それぞれの中にあるんです。自分の中に棲む死者の魂を拝んでいるんですよ」 「……」 「死者を語るのはもっぱら生きている人。死んでしまった人たちは死後の世界で、自分の本当の気持ちを生者に伝えたいなんて思ったりなんかしていないわけです。 つまり、死者の気持ちを知ることで心穏やかに過ごせるように、自分の中の死者の魂を受け入れて自分自身を慰めることができるように、調査をし、生者に報告する。これが『風の予感』のポリシーなんです」 屁理屈のような気もしたが、その通りだとも思った。 なぜなら、わたしが望んだ結論はひとつしかないからだ。 そして、第3者に「調査の結果あなたの思ったとおりでしたよ」と言われたい、そのことで自分を慰めたいとわたしは思っていたのだ。 「別の言い方をすれば、この場で僕はあなたに調査結果を伝えることすらできるんです」 「この場で、結果を?」 「あなたの恋人は目の前に現れたダンプカーに一瞬は驚いたかも知れない。けれど、その後、彼がダンプをよけようとしたのは危険回避の本能であって、彼が意識してやったことではない。とにかく恋人に『気をつけて』というメッセージを伝えることができて彼は満足だった。彼はあなたの安全を確保できたことに悦びを感じ、全身があなたのへの想いで満たされていた。彼があなたを愛する気持は永遠で、あなたの生はいつも彼と共に存在する。報告書にこう記述すれば済みますよね」 有田のように言葉にして表すことはできなかったけれど、確かにそれはわたしの望んでいたの調査結果だった。 「でもね、この調査結果の根拠になる資料や証拠は、まず集まらないでしょうね」 「どうしてですか?」 「あなたが事故現場を目撃して、誰よりも彼の身近にいたからです」 「誰よりも、わたしは、彼の身近にいた……」 わたしは有田の言葉を小さく復唱した。 「僕たちがささいな根拠の断片を集めたとしても、あなたは納得しないでしょう。なぜなら、現場にいたあなたこそが実は一番良く知っている。けれども、それだけで飽きたらずに別の根拠を求めている。だけど一番知っているあなたより、我々が知ることなどできるはずがないんです」 有田は時計を見た。 「お時間、大丈夫ですか?」 わたしが「はい」と答えると、有田は大きく頷いて、言葉を続けた。 「あなたよりも多くを知りえない我々が、さももっともらしい調査報告書を作っても、あなたには不満が残ります。『本当にそうなの?』って、ずっと思い続けることになります。なぜなら、一番知っているはずのあなたですら『本当にそうなの?』と感じているからです。だからこそ、調査依頼をしようとしているんでしょう?」 まさに、その通りだった。 「もちろん我々は、別の結果を出すこともできます。彼は目の前に迫ったダンプカーの恐怖に怯え、あなたのことなどすっかり意識から消え去ってしまった。そして、必死に事故回避を試みたけれども、残念ながら成功しなかった。この結論を示す根拠は、精神科医か心理学者の所見のひとつでもつければすむでしょう」 「つまり、あなた方はどんな結果も演出できるんですね」 「そうです。と言い切ってしまうと誤解のもとになりますが、先ほども申し上げたように、我々の調査は死者のためのものじゃない。死者の代弁をするわけじゃないんです。生者のためのものなのです。だから、生者がホッとするような、『ああ、調査依頼をして良かった。永年の気がかりが解決した。肩の荷が下りたよ』とつぶやけるような結果を導き出すための根拠を集めることがベストだと思っています。もちろん、調査そのものに嘘やごまかしはしません。だから、必ずしも理想とする結果は出てきません。だとしても、報告書は生者への優しさと思いやりにあふれた書き方をします。調査結果は依頼者の希望的観測とは違ったけれど、それはそれでまた良かったんだと依頼者が思えるような報告書ですね」 「調査会社、というよりなんだかカウンセリングみたいですね」 「そうなんですよ。うまいこと言いますね」 有田は静かに笑った。 「でも、それはあなたの望んだ答えじゃない。あなたは、彼そのものをずっと抱いて、これから彼と二人で生きていこうとしている」 「言われてみれば多分そうだと思い当たります。彼が心の中から消え去ってしまわないような、確固たるものを求めていたんですね。今、気が付きました」 「ご理解下さってありがとうございます」 有田はテーブルに手をついて、頭を下げた。 「では、今回の依頼は無かったということで」 「はい」 はいと返事はしたものの、わたしの中には以前にも増して虚無感が広がっていった。じゃあ、わたしのよりどころはいったいどこにあるというの? けれど、これでいいんだという気もした。 「じゃあ、僕はこれで失礼しますけれど、ひとつだけご忠告させて下さい。気分を害されたら許して下さい」 有田はそう言って、わたしから視線を外した。 その先には、ヨーロッパらしい農村の風景を描いた絵画があった。 有田はわたしを見ずに、言葉を続けた。「気分を害するようなことがあったら、それは僕の独り言であって、誰に向けて言ったものでもないから、聞き流してくださいね」とのメッセージだと思った。 「あなたの恋人は既に過去の人です。これは否定のしようのない事実です。 想い出として残しておくのはいいと思います。けれど、ずっと現実として彼を抱きながら生きるのはおやめなさい。それはあなたを不幸にします。あなた自身は不幸とは感じないかも知れないけれど、あらゆる可能性を否定していることになるとは思いませんか? 同じこの世界で生きている人を愛した方て下さい。現実に背をそむけずにいれば、やがてまた愛しあえる人と巡り会えます。その時のためにあなたは死者を恋人としてはいけない」 「でも、すぐには……」 そう、すぐにはそんな気持ちにはなれない。今のわたしにとっては、このまま一生彼のことを想い続けて死んでいく、その方がはるかに自然だった。 「立花さん、あなたの気持ちは分かります。すぐには無理でしょう。でも、あなたは現に生きている。それを大切にすれば、きっと時間が解決してくれます」 「それは、彼のことを忘れる、ということですか?」 「ある面そうですね。想い出の引き出しにしまい込むというのは、時として忘れることと同義語です」 思い出の引き出しにしまい込む。 わたしにはそれがどういうことかわかる。遠足も、修学旅行も、既に引き出しの中だ。あんなに楽しかった出来事がもはや順序立てて思い出せない。断片的な情景が散らばっているに過ぎない。旅館のスリッパをはいたままバスに乗ろうとして友達に指摘され、ものすごく恥ずかしい思いをしたというのに、「恥ずかしい」という臨場感はもはや消え去っている。想い出は全て美しいと言うけれど、まさにそのとおりだ。 彼と過ごした時間は楽しく幸せなだけではもちろん無かった。切なかったり悲しかったりしたこともある。それが全て断片的な美しさにとってかわられるなんて耐えられない。あんなに熱く強く愛し合ったことも、楽しいお喋りに時間を忘れたことも、喧嘩の後に言葉もなくただ手をつないで歩いたことも、きっとだんだん霞んでいく。 そんなのはいやだ。わたしはそのまま抱いていたい。 「このまま誰も愛さず、誰にも愛されず、彼を愛したことだけを全てにするというのは、いけないことです。それは生きることを否定しているのと同じなんですよ。過去のことは美しい想い出に昇華させ、その美しい想い出だけを持っていればいいんです」 いつのまにか有田の視線は再びわたしに向けられていた。 「それは過去の生き様を否定することになりませんか?」 「過ぎてしまったこと、既に起こってしまったことを否定するなんて、誰にもできません」 「じゃあ、わたしはどうすればいいのでしょう」 「時々引き出しを開けて、古いアルバムを取り出して、眺めてみてはどうですか? それがお墓参りなんですよ。それがあなたと彼が愛し合った証になるんです。証さえ確かなものが残っていれば、人は現実世界の中に新たに旅立つことができるんです」 |
三日後、一通の手紙が届いた。 差出人は「オフィス『風の予感』」の有田だった。 今更なんだろうと思った。 彼のいうことは確かに正論だと思ったけれど、今のわたしには受け入れられない。辛すぎる。時間が解決してくれるだなんて事で自分を納得させるのは悲しすぎる。 理屈では理解していながら、きっとあの時のわたしの目は「拒否」を示していただろう。想い出として封印することは今のわたしにはまだできない。 彼ならきっとそれに気付いていたにはずだ。だとすると、だめ押しのお説教を書きしたためて送ってきたのかも知れない。 ステキな言葉を贈ってもらっておきながら、こんなことを考えている自分が嫌になった。 とにかく読もう。 先日は失礼しました。 あの時語ったのは、あくまで僕の考え方であって、「死」に対する万人の理解というわけではありません。少し押しつけがましかったかなと反省しています。どうかご気分を悪くなさらないで下さい。 ところで、当社では現在、調査員を募集しています。 立花さん、あなた、この仕事をやってみませんか? そして、多くの人の死と、残された人の心に触れてみませんか? そうすることによって、あなたの心がほぐれるかも知れません。そして、あなたなりの結論、あなたがあなたに書く「報告書」がいずれできあがるでしょう。 死者との付き合い方に適度な折り合いをつける方法がきっとあります。 私たちの仕事に興味がなければ、この手紙は捨てて下さい。 お返事はいつでも結構です。 あれから間もなく2年。わたしは風の予感のスタッフとして活動する日々を送っている。 いくつかの死と、そのまわりの生き様を肌に感じながら。 「生者のための調査」をし、「生者のために報告書」を書いた。そして、穏やかな笑みを多くの人が取り戻した。けれどもわたし自身のこととなるとテンでだめだ。全く変わらない。徹はわたしの中で相変わらず生きていた。 たまたま一時期、同時にいくつかの案件を抱えて右往左往したことがあり、忙しさの中でわたしは徹のことをごく自然に意識の外に追いやっていることに気が付いた。社長の言った「時間が解決してくれる」は、間違ってはいなかったようだ。このまま放っておけば別の誰かを愛せるようになるかも知れない。だけど、まだそこまでの踏ん切りがつかなかった。彼のこと、彼と過ごした日々のことはひとつたりとも忘れたくないと思う。 わたしは月に一度きちんと墓参りをした。掃除をし、墓石を磨き、花を手向け、線香に火をつけ、両手を合わせた。アルバムの写真は、まだセピア色にならない。 2周忌を目前に控えて、わたしはあることを思いついた。大型車の前に立ちふさがったらどうだろう。もしかしたら彼の気持ちがわかるかも知れない。彼の気持ちが理解できたら、想い出の引き出しに彼との日々を封印する決意をしよう。 社長のお説教に従うわけでもないのだけれど、一歩も前に進まない状況だけは打破しなくてはいけないと思う。わたしはようやく彼の死を認めようという気になり始めていたのかも知れない。もっとも思考と感情は別物で、決意通りになるかどうかはわからないのだけれど。 とはいえ、まさか本当に車にぶつかるわけにはいかない。 怪我をしたり死んだりするつもりはない。車と接触するギリギリの地点に身を置いて、後は想像力を駆使するしかない。 わたしは歩道の端に立ち、車を見送り続けた。ほとんどの車は気味悪そうにわたしを避け、車を中央線よりに寄せて走り去った。 わたしは車道ぎわに立つのをやめて後退した。最初から避けられていたのでは意味がない。どう見ても安全な位置でひかえておいて、大型車がやって来たときに不意に前進しよう。 だが、いざ一歩を踏み出すとなると恐怖心に包まれてしまい、行動を起こせずいくつもの車を見送った。 しばらくそうしていた後、いつまでもこんなことをやっていてもしょうがないと思ったわたしは、大型車を確認すると息を止めて飛び出すタイミングを見計らった。ちょうどいいことにダンプカーだった。あの日と同じダンプ。 今だ! わたしは車道へ向けてダッシュした。 ブレーキの音がけたたましく響いた。何故かわたしには運転手の表情がはっきりと見えた。驚愕と怒り。ドライバーはハンドルを切ろうとして、やめた。このままのスピードで車道にわたしが飛び出したら、ハンドルワークだけではよけきれないと思ったのだろう。また、そうするためには大きく対向車線上にはみ出さないといけない。反対側も途切れず車が流れていた。事故は必至だ。ダンプカーはブレーキだけを必死で踏んだ。 むろんわたしはすんでの所で止まる予定である。予定だったけれど、止まりきれなかった。このまま飛び込んだら彼の元へ行けるかも。一瞬よぎった考えが、わたしを道路の真ん中に引き寄せそうになったからだ。 だがもちろん飛び込み自殺するつもりなんか無い。わたしはこの2年、多くの死を見つめてきた。やむを得ない死もたくさんあったけれど、避けることのできた死もあった。 わたしが踏みとどまったのは、本当にギリギリのところだった。 1センチにも満たない隙間を残して、目の前をゴオッと鉄の塊が通り過ぎた。 クラクションと共にダンプは去った。 結局、わたしは彼の当時の心境に近づくことなんてできなかった。 死にたくない。そう思っただけだった。 目の前をゆきすぎる重量感たっぷりの恐怖から逃れるために後ずさりしたのと、ダンプカーからの風圧を受けたのがほぼ同時だった。わたしは後方に大きくよろめいた。 そのまま後頭部を打ち付けるかと思ったが、わたしの反射神経は自分の身体を半回転させていた。 ぐんぐん近づいてくる地面。 手を突こうとして、間に合わなかった。 わたしの額が歩道の表面に激突した。 わたしの顔と地面の間になま暖かくて赤い液体が、ブワッと飛び散った後、少しずつ広がってゆく。 直後の出血はかなりあったようだけれど、ダメージは大きくなかった。 傷口付近にハンカチを当ててその場にうずくまっていると、出血は止まった。傷の心配はしなくてもよさそうだけれど、さっきから通行人の視線が気になる。 移動しなくちゃ。でも、いま激しく動くとまた傷口が開くかも知れない。 好奇の視線を浴びせながら行き過ぎる人はそれでいい。けれど、もの言いたげに近寄って来られるのはうっとおしい。隠すようにして顔をそむけると、近寄りつつあった人も去っていくのだが、いつまでもそんな状態ではいられないだろう。道路でうずくまっていれば注目を浴び続ける。 やがては誰かが声をかけてきたり、救急などに通報するかも知れない。 わたしは静かに立ち上がって、歩いた。 額以外に怪我はなさそうだ。 通りは公園に面していて、散在する木々の間に、ベンチが設置されている。 どれかに腰掛けて顔を伏せていれば、別に不審に思われることはないと思う。傷口にハンカチを当てたまま安静にしていれば、ちょっとくらい動いてももう出血しなくなるだろう。顔面にこびりついた血糊を洗い落とすのはそれからでいい。 サッと見渡したが空いているベンチはない。でもひとり、読書に集中している人がいた。おそらくわたしと同年代か少し年上の男の子。相席させてくれるかも知れない。 わたしは彼のもとに近寄り、「すいません、ここ、いいですか?」と、声をかけた。 彼は本に視線を固定したまま、興味なさそうに「どうぞ」と言った。 しばらく読書に没頭していた彼は、やがてわたしの血まみれの顔面に驚いた。彼に気が付かれないうちに立ち去ろうと思っていたのだが、傷はともかく、わたしは自分がしようとしていたことの危険さに思い当たって鼓動が早くなり、息苦しくなって、立ち上がることができなくなってしまっていた。 彼は「どうしたの?」と言った。 わたしは交通事故にあったと答えた。けれど、警察や病院はごめん告げた。仕事上どうしても犯罪スレスレのことがあるから、あまり関わり合いになりたくないのだ。彼は一人暮らしだからと自分の下宿に誘ってくれた。 女の子を一人暮らしの部屋に誘っておきながら、ちっとも下心がありそうには見えなかった。彼はそういう人だと実はわたしは直感的に気が付いていた。それだけでなく、なんとなくいいパートナーになれそうな気さえした。自分で言うのも変だけど、徹の死後どこかへ行ってしまっていた、わたしが持つ本来の明るさとか、自然体で人と接することなどが、蘇ってきたのだ。 魂の位置というのがあるのなら、わたしと彼は近いところにあるような気がした。この人が、わたしの新しいパートナーかもしれない。徹とのことはまだ想い出の引き出しにしまうことができないでいるけれど、なにか予感めいたものがあった。 わたしは、仕事を一緒にやらない? と、彼を誘った。 |