第1話 オフィス「風の予感」 =5=
僕たちはもう一度おさらいすることにした。 僕は自分の出した結論の根拠となることだけを清花に話したのであって、行く先々で何を見て、何を聞いたのか、全てを清花に語ったわけではない。 「これじゃ、清花が自分で調査した方が早かったかもね」 「そんなことないわ。ホテルの一室で、居ながらにして色々なことを知ることができるんだもの」 清花の言葉で僕は救われる。 「普通なら、和宣くらい聞き込んでたら、なんかその中にヒントがあるんだけどなあ」 清花の台詞が僕の頭の中を何度も行ったり来たりした。 清花は感じ方が足らないと言う。 どうすれば、もっと、感じることができる? もう深夜2時を回っている。 僕が見聞したことだけで全てを満たしているのか、それともまだ調査すべき事項があるのか。それだけでも導き出しておかないと、明日、どこから手をつけていいのかもわからない。 「焦らないで」と、清花が言った。 「別に、焦ってはいないけれど」 そう、焦っているつもりは無かった。あるのは、仕事をきちんと遂行しようという意思だけだ。 けれども、清花にはそれが焦りとうつったのだろうか。 「ほうら、深呼吸して。必要だったら、ビールのあと1本や2本、飲んでみたら?」 言われたとおり僕は深呼吸をした。 「一応、今は仕事中だろ? ビールなんか飲んでいいの?」 「お、余裕が出てきたな。その調子、その調子」 清花にうまい具体にのせられてるのかもしれないが、それはそれでいいだろう。 「じゃあ、お言葉に甘えて」 僕は冷蔵庫の扉を開けた。 「和宣が、タバコ吸えたらねえ。わけてあげるんだけど」 「遠慮しとくよ」 「じゃあ、わたしも遠慮するね」 そのかわり、と言いながら立ち上がった清花は、2度3度、深呼吸をして、背伸びをした。どんな意味があるのか知らないけれど、前後屈や屈伸までする。 このまま放っておいたら、腕立て伏せや腹筋でもしかねないとすら思ったが、さすがにそこまではしなかった。 そのかわり、「ふう〜〜〜」と大きく息を吐いた。最初の深呼吸とは違って、そこには大きなため息が含まれているような気がした。 そして、清花は、目を閉じた。 綺麗だった。 笑っているでも怒っているでも泣いているでもなく、さりとて無表情でもないそのなんともいえない表情。普通よりも少し幸福感を感じさせる穏やかな息づかいが、ほんのわずかの空間をはさんで、僕の傍にある。 そして、彼女の柔らかな視線。見つめるでもなく、そらすでもなく。 それは始めてみせる表情では。僕の部屋で、パジャマ姿で、コーヒーを飲んでいたあの時。やっぱり清花はこんな顔をしていたっけ。 「あ、なんだか、クラクラしてきちゃった」 清花は首のコリをほぐすときのように、頭を前後左右に動かした。 「酸欠状態かな。はりきりすぎちゃったかも」と、照れ笑いする。 そして清花は、スツールから僕の隣に移動してきた。 そして、僕の肩にチョコンと頭をのっける。 彼女の髪からはタバコの臭いがする。 しかも、酒臭い。 なのに、僕はちっともイヤじゃなかった。 タバコと酒の匂いの中に、微かに清花の香りが混じっていたからだ。そう、女の子って、こういう香りがするんだよな。長い間、忘れていた。 「あ!」 思いつくことがあって、僕は清花がもたれていることを忘れて立ち上がった。 清花の身体がころりんとベッドに転がる。 「なあに?」と言いながら、清花が身を起こす。「なにかいいこと、思いついた?」 お甘えモードだった清花も、背筋をぴんと伸ばす。口調もしっかりしている。 じゃあ、さっきのお甘えモードは、お芝居か? だとしたら、たいしたやつだ。 「いや、でも、あんまり現実的ではないかも」 僕はアイディアを語るのを躊躇した。それは、現実性の乏しい、突飛な思い付きだったから。 あの物件、つまりお好み焼き屋は既に不動産屋を通じて人手に渡っている。買い手がついているというだけで、契約行為はまだかもしれないが、少なくとも不動産屋の管理下にはあるわけだ。だとすれば、僕の思いつきは不可能に近い。 「いや、多分、むつかしいよ」 「むつかしくてもいい。現実的でなくてもいい。とにかく、話してみて」 「いや、限りなく不可能に近いよ。やっぱり、ダメだ」 「ってことは、わずかながらも可能性はあるんでしょ?」 「いや、それは言葉のアヤで、実際にはダメだと思うよ」 「話す前から、ダメダメ言うな。いいから話せ。業務命令!」 「そうまで言うんなら、話すけどさ」 「そうそう。言っちゃえ言っちゃえ。和宣にはできなくたって、清花ちゃんにはできるかも知れないでしょ?」 |
どうせ実現できっこない、そんなのはダメだ。 そう思い込む僕に、清花は「ダメダメ言うな」と言った。 そうなんだ。僕にはどうもその気がある。 これまで、さんざん聞かされてきた。「始める前から諦めるな」とか「何事もチャレンジ」とか。前向きとか、後ろ向きとかいう言い方ももある。うんざりだ。 好きな女の子に告白できないでいたのも、そのせいだろう。 断られたらどうしよう、嫌われたらどうしよう、気持ち悪がられたらどうしよう。何もせずに先の心配ばかりして、行動をひとつも起こさない。確かにそれじゃ、一歩も先へ進まない。 けれど、僕はそれが悪いことだとは思わない。 後ろ向きだと批判されてもいい。 気の進まないことを、無理してやったって、何の価値がある? 果敢にチャレンジしたって、失敗したらただの徒労だ。 これが僕の本音なのだけれど、このことで随分悩んだ。自分はダメ人間ではないのか、と。イヤなこと、気の進まないこと、得意ではないこと、こういったこと全てに背を向けるのは、結局逃げているだけではないのか、と。 こんな人生では、何も得られないんじゃないか、と。 「バ〜カ、何、言ってんだよ。逃げようとする本能が無くなったら、命なんていくつあっても足りないぜ。君子危うきに近寄らずって言うじゃないか」 そう言ってくれたのは、高3の時のクラスメイトだった。 「お前は、いわゆる勝ち組だから、そんなことが言えるんだよ」 「ほんっと、バカだなあ。勝ち組って、なんだ?」 彼は第一志望の大学に軽く合格できる学力を持っていた。スポーツもそこそこチームメイトに迷惑をかけない程度のプレイはできる。性格も見栄えも悪くない。何かの係になっても、そつなくこなす。人より秀でていることに関し鼻にかけるようなことはしないし、標準より劣っていることは何も無い。普通にしているだけで、いい奴であり、デキル奴なのだ。 「お前のことだろ」 「俺の何が勝ってるっていうんだよ。そんな他人の評価、気にしてどうするよ」 「そういうのは、劣等感を持ってない奴が言うことなんだよ。俺なんか、何をやらしても標準以下。負け組ってやつだ」 「バカ言え」と、奴は言った。「そうだな、例えば俺は手先が不器用なんだ。靴紐を結ぶのに、何分もかかることがある。小学校のときは、彫刻等を使った授業で何度も指を切った。それ以来、俺は一切、刃物は持たない。家庭科で料理を作るときなんか、逃げ回ってたんだからな」 「お前が、逃げ回ってた?」 「先生には叱られたよ。そんなんじゃ、いつまでたっても上手になりませんよ、って。でも、指を切るってわかってて、包丁を持つ馬鹿はいないだろ? 危機を察知してるんだよ。これって動物の本能だぜ」 そのときは、さすがにそれは言いすぎだ、と思った。でも、今は彼が言ったことを理解できる。勝ち組だの負け組だのが、他人の無責任な評価であるのと同じく、前向きに生きろだの、果敢にチャレンジしろだのも、他人の無責任な価値観だ。 彼と出会ったことで「僕は僕でいいんだ」と思えるようになったのだけれど、ここでの清花の発言もまた衝撃的だった。 「和宣にはできなくたって、清花ちゃんにはできるかも知れないでしょ?」 その通りだ。 できるとかできないとか、得手不得手とか、好き嫌いとか、向き不向きとか、みんなそれぞれ違う。だから、できること、得意なこと、好きなこと、向いてること、そんなことだけをすればいい。できない人がいたら、自分がしてあげればいい。そのかわり、自分のできないことは誰かに助けてもらえばいい。それだけのことなのだ。 |
そんなわけで、僕は自分の思い付きを清花に話した。 「どう? 僕は手の打ちようがないように思えるんだけど、なにか方法はある?」 清花は「う〜ん」としばらく腕を組んでいたが、やがてこれみよがしにパチンと指を鳴らした。どうしてこうも芝居がかった所作をするんだろうか。まあいいか。これが彼女なりのけじめというか、メリハリなんだろう。 「イケる。それ。使えるよ!」 清花は、嬉々として叫んだ。 「どうやって?」 「こうするのよ」 清花は僕の耳元に唇を近づけてコソコソとその方法を説明した。 僕たちの他には誰もいないんだから、内緒話なんてする必要はないのだけれど、確かにそれは人に聞かれるとヤバイ内容を含んでいた。 僕は清花の提案に驚いて言葉を返した。 「犯罪だ!」 「まあ、厳密に言えばそうかもしれないけど……」 「厳密もなにも、犯罪だろ?」 「でも、誰にも迷惑はかけないし、それどころか、お店が綺麗になって感謝されるかもよ? 少なくとも誰の財産も命も危険にさらさないわよ」 「もし見つかって逮捕でもされたら、僕の経歴が危機にさらされる」 「それはわたしも同じじゃない」 「それはそうだけど……」 「だったら、やめとく?」と、清花。がっかりした表情の中、目だけはしっかりと僕を見据えていた。 そこには「やめるだなんて言わないで」という哀願と、「他に手があるなら言ってみなさいよ」という挑戦のニュアンスが含まれていた。 「しょうが、ないか、な……」 しぶしぶであるが、OKするより他に無い。もとはと言えば僕のアイディアだし、清花はそれを実行可能なようにアレンジしただけだ。 「よし、決定!」 声高に清花が言う。 「いっつも、こんなことをしてるのかい?」 半ば呆れながら、僕は訊いた。 「時と場合によるけど」 なるほど、交通事故で血を流していたとき、彼女が警察とかに関わりたくないと言った意味がようやくわかった。もとより、捕まったり世話になったりする気はないんだろうけれど、なるべく遠い位置にきょうとするのは当然だ。 「でも、ほとんどは直接手をくだしたりはしないわ」と、清花は続ける。「そのための便利屋杉橋じゃないの。下請けに出すのよ。さあ、そうと決まれば早速電話よ」 って、結局、人任せじゃないか。 「和宣にはできなくたって、清花ちゃんにはできるかも知れないでしょ?」 僕は清花の台詞を思い出していた。そして、固有名詞と若干の文章を入れ替えてみた。「清花ちゃんにはできなくてたって、杉橋ならできるわよ」と。 言い換えれば、「適材適所」というところか。 「君子危うきに近寄らず」にしても「適材適所」にしても、よくまあ都合のいい言葉が溢れているものだと思う。もしかしたら、人間は昔から、厄介ごとからは逃げていたのかもしれない。 「ほら、何をしてるの? さあ、電話」 受話器を持ち上げて、僕に向かって差し出す清花。 僕は今朝もらったばかりの名刺を取り出した。そこには「犯罪以外何でもやります、便利屋杉橋」と印刷されていたが、看板に偽りありだ。 真夜中だというのに、杉橋はすぐに電話に出た。 まだ起きていたのかと訊くと、「今、起きました。枕元に電話を置いてあります。しがない零細経営ですから、24時間対応です。で、ご用件は?」 肝心の用件は、清花が受話器をひったくってまくしたてた。 それなら最初から自分で電話しろよ。 「ま、しょうがないですね。引き受けましょう」 オッケーの返事をもらって、一筋の光明を見いだすことができた。 僕と清花は、さっきまで憂鬱に沈みながら考え込んでいたのが嘘のように、「やったー!」とか叫びながら狂喜した。 ノリで僕は清花に抱きついてしまった。 しまった、と思ったけれども、清花は別に僕を押しのけたり、頬をひっぱたいたりはしなかった。そのかわり、きっちりと注意された。それはまるで小学校の先生が「おいた」をした生徒を諭すような口調だった。 「仕事仲間と喜びを分かち合って抱き合うぐらいのことで、わたしはセクハラとか何とか言って、騒いだりはしないわよ。けれどね、パンツぐらいはいてよね。はみ出してるよ」 「あ!」 そうだった。僕は清花に部屋の呼び鈴を押されて、裸の上に浴衣を羽織っただけで彼女を部屋に招き入れていたのだった。 「それから、『仕事仲間と喜びを分かち合っているだけ』なんだから、成長させないようにね」 「ご、ごめん!」 はだけた浴衣をきっちりと重ね合わせ、僕たちは若干の打ち合わせをした後、もう一度杉橋に電話をかけた。 「大丈夫ですよ、必要なものは全てこちらでそろえますから。明日の夜10時頃にはそちらにお伺うかがいします」と、杉橋は言った。 「そうと決まれば、今日はもう休みましょ」 「そうだね」 清花は自分の部屋に戻っていった。 午前3時を回っていた。 いったい彼女が抱えている案件とは何なのだろうか。少なくとも僕の案件に比べればずっとやっかいそうだった。こちらの仕事は早く済ませて、少しでも彼女に楽をさせてあげよう。そんなことを考えているうちに僕は眠ってしまった。 |
館内電話で清花に起こされた。 「あ、おはよう。わたしは出かけるけどゆっくりしていていいわよ。そっちの件はもう解決したようなものだから」 そうだった。清花はもうひとつ別の案件を抱えている。 そちらが大変だからということで、僕は彼女に雇われたのである。 「昨日は、遅くまで、ゴメン」 「いいのよ。気にしないで。おかげで、いい感じになりそうじゃない」 「うん」 「そうそう、午後10時に杉橋が来るから、それまでにおばあちゃんの写真を手に入れておいてね。死ぬ直前のものはダメだけど、あんまり昔のものもダメ。できれば、亡くなる1〜2年前のものがベストね」 時計を見るとまだ7時だった。 昨夜の清花の行動を考える。部屋に戻ってから資料の整理などをして、それからお風呂に入って寝るとなれば、早くても4時、下手をすれば5時頃になったはずだ。なのに、もう出かけるとは。 タフだなあ。 昨日一日で「まるで女子高生」という第一印象がすっかり消え、「ちょっとすごいヤツだなあ」に変わっていた。 颯爽と喋っているときはカッコよかった。僕の間違いを指摘したときはちょっとおっかなかった。さりげなくしていれば、まあ普通よりかは可愛い。無邪気に笑っていると子犬のようだ。 そんなこんなに思いを巡らせているうちに2度寝してしまった。 気が付けば11時。 僕はホテルを出て、再び桜さんの家に行った。 「2年くらい前の山本さんの写真? そんなのあるかしら」 「遺族の人が、是非欲しいと言うことで、頼まれてたんですよ」 とっさに嘘をついたが、まるっきりデタラメではない。確かにこの写真は、遺族の手元に届くのだ。若干の加工はされるけれども……。 「まあ、探してみるわね」 写真は見つかった。山本さんは割烹着を着て写っていた。 「これは?」 「秋祭りの時に撮った写真よ。男たちが神輿を担ぎ、女たちが飯を炊くの。そして、おにぎりを作る。その時のものね」 「もらってもいいんですか?」 「ええ、どうぞ。わたしが持っていてもしょうがないから、遺族の人が欲しいって言うんなら持っていってあげればいいわ」 嘘をついて写真を手に入れたことに若干の罪悪感を感じながら、これも遺族の、生きている人のためなんだと、無理矢理自分に言い聞かせる。このくらいの嘘がなんだ。今夜僕たちは犯罪を犯すのだ。 ホテルへの道をとぼとぼ歩いていると携帯電話が鳴った。清花からだった。 「どう? 写真は手に入った?」 「オッケーだよ」 「じゃあもうホテルに戻る?」 「うん。ご飯を食べてからね」 「だったら、ホテルに帰ったら、報告書も仕上げといて。全て上手くいくっていう前提でいいから。そしたら、今夜中に終わるじゃない」 「明日には依頼者に渡せるね」 「あ、渡すのはぎりぎりになると思うよ。社長のOKをもらわないといけないから」 そんなやりとりで、電話は切れた。僕は何か言い残したことがあるなと感じ、「この案件が終わったら、そっちのを手伝うよ」と伝えたかったのだと思い当たった。 |
午後10時。約束通り便利屋杉橋はやって来た。杉橋の足は、色々と必要なものを荷台に載せた軽トラックである。 ビジネスホテルのロビーで、最終打合せをする。段取りに澱みは無い。今夜は杉橋もホテルの部屋を取っている。客でもないのにこんな時間にロビーにいたのでは不審がられるからだ。しかし、泊り客がロビーで書類を広げる様子は、ビジネスホテルでは当たり前の光景だ。 予約のある客は全てチェックインを済ませているのかどうか、フロントマンは僕達には何の興味も示さず、「御用の方はベルを押してください」と書いたプレートをカウンターに置いて、奥へ引っ込んだ。 到着する電車も、時間と共に間隔が開き、駅舎から出てくる人の数も減ってくる。 紙コップで供される自動販売機のホットコーヒーを飲みながら、僕たちは来るべき時間を待った。 ロビーからガラス越しに駅が見える。電車が到着する。時間を確認する。最終電車だ。駅から吐き出された人の数は多くない。それぞれが家路につくと人影は途絶えた。 「そろそろ……」と、僕がいい、「ん」と清花が応じ、杉橋が黙って席を立つ。 行動開始だ。 磁石を張ったアクリル製のプレートを軽トラックの横に貼り付ける。 プレートにはカッティングシートで「財団法人 電気安全保安点検協会」と書かれている。真夜中に見知らぬ軽トラックが来るような場所ではない。誰かに見られても不審に思われないための偽装である。 もちろん我々は作業服姿に着替えている。 腰には様々な工具を刺したベルトを巻いているが、これは全てが偽装ではない。中には必要な道具も納められている。 運転席に杉橋、助手席に清花。僕は荷台に乗る。 軽トラックは、音も無く動き出した。 正確には、「エンジン音をさせずに」だ。モーターの回る音はかすかに聞こえる。 「なに、これ? 電気自動車?」 「ガソリンと電気、動力の切り替えができる改造車なんです」と、杉橋が言った。「真夜中の住宅地ってのは、意外と静かですからね。人気がないのは助かりますが、その分、音が響くんですよ」 お好み焼き屋の前に着く。 僕たちは荷台の荷物を静かに、けれども急いで降ろす。 僕は水の入ったポリタンを持たされた。結構重い。清花はバケツと箒と雑巾とちりとりを持った。 「まるで掃除に行くみたいだね」と僕が言うと、「まさしくその通りじゃないですか」と杉橋は言った。 杉橋はデジタルカメラやその他小道具を持っている。 お好み焼き屋の入り口前にそれらを置くと、今度は「有田商店」というプレートを軽トラックに張る。そして、「近所にあいている駐車場を見つけましたんで、ちょっとそちらにおいてきます」と杉橋は車を移動させた。 僕達の作業のほとんどは、お好み焼き屋の店内である。 つまり、屋外には誰も居ないことになる。そんな場所に、電気工事の車が止まっていたら、これまた不審だ。そこで、今度はどこかの個人商店が所有している軽トラックのを装って、適当な駐車場の空きスペースに止めておくのだ。 僕と清花はお好み焼き屋の前で待機。 懐中電灯は持っているが、もちろん点けない。 息を潜めるとはまさにこのこと。 清花は僕にぐっと身を寄せ、じっとしている。 灯りが全くないわけではない。そこここの電柱に外灯がある。入り口前のひさしのおかげで、僕たちがいる場所は影になっているが、それでもうっすらと清花の横顔が見える。清花から漂ってくる女の子の香りは、昨日よりも今日の方が強い。酒やタバコの匂いがないからだろう。 右隣の文房具屋から漏れる光はない。住民は全て寝床についたようだ。左隣はもう商店としては営業していないようだが、普通の住宅としては使われている。2階の奥の部屋に明かりが見える。窓は開いているが、お好み焼き屋の玄関を直接見ることはできない。 向かいはどうだろう。同様に問題なしだ。 「では、忍び込みましょう」 静かに戻ってきた杉橋が、言った。 ウエストバックから小道具を取り出す。 先が90度に曲がった針金とか平べったい金属製の小さな板とか、まあ色々だ。それらをカギ穴に入れたり出したりすること30秒足らず。玄関のカギが開いた。 「杉橋はハッキングも得意だけど、忍び込むのはコンピューターだけじゃないのよね」と、清花。 「好きでやってるわけではありません」 店舗と住宅がドッキングした建物。僕たちは店舗部分に足を踏み入れた。 カウンターはなく、暖簾でキッチンとダイニングが区切られている。4人掛けのテーブルが左右にふたつづつ。テーブルは真ん中に鉄板が備えられている。そこでお好み焼きや焼きそばを作るおなじみのスタイルだった。 早速掃除である。なにしろ山本のおばあちゃんは店を閉めた後もほとんど毎日掃除していたんだから、往年の店内は汚れが目立つようなことはなかったはずだ。だから、満足に照明をつけられない状態ではあるが、ピカピカに仕上げなくてはならない。 「やっぱり、暗いわね」と、清花。 「どうせ必要ですから暗幕を張りましょう。そしたら電気もつけられます」 杉橋は要領よく、玄関入口と窓に黒いカーテンを貼り付けた。 音をたてないように慎重に、だけど正確に。光が漏れたりしないように、目張りもきちんとする。 僕たちの目的はおばあちゃん健在の頃の写真を作ること。店の中で本人が写っている写真を合成で作るわけだ。綺麗な店内でなければいけない。 バッテリー式の照明を灯し、さっそく清掃に取り掛かる。 手箒でテーブルの上を掃き、はたきで窓枠やサンの埃を落とす。 床は箒で吐く。 だが、舞い上がる埃はどうしようもない。 「掃除機、使えたらねえ」と、清花。 「モーター音がするから、無理ですよ。それに、周りが予想外に静かです」 人通りが無いのはありがたいが、しかし、各家庭からテレビやラジオの音声や雑談などの声すらない。これではちょっとした音でも誰かに気付かれてしまう恐れがある。 仕方が無いので、粘着テープのついたロールを床に転がす。 徹底的に掃除をしたかったが、僕たちは不法侵入者だ。そんなに長い時間、不法侵入先で清掃をしているわけにはいかない。結局、鉄板に浮いた錆は落としきることができなかった。 「まあこれくらいは画像処理で何とかなりそうね」と、清花が言った。 こすってもこすってもあまり効果のない「錆び落とし」にうんざりしていた僕は、「ホントに?」と訊いた。 「大丈夫ですよ」と、杉橋が言った。 「でも、表面の洗剤とかは、綺麗にふき取ってください」 「これじゃ、最初から何もしなかった方がよかったかもね」 僕が弱音を吐くと、「そういうこともありますよ」と杉橋は慰めてくれた。 |