ログハウス「杜の庵」はバスの終点。片道2時間。雄大で深い森の中にバス停と「杜の庵」がある。 バスは一日3往復。最終バスの運転手は「杜の庵」で宿泊し、翌朝の始発便として帰っていく。 朝が早いので「杜の庵」の主(あるじ)と妻は、始発バスを見送ることはしない。 しかし数日前から愛らしい少女のお見送りが始まった。 山科恵、19歳。だが第一印象は15か16に見える。 熊のようなあるじに見送られるのはゴメンでも、恵が一生懸命手を振るのをミラー越しに見るのは運転手にとっても思わず笑みが漏れそうになる一時だった。 数日前、恵は先のことを考えずに「一番山深くまで行くバスは?」と訪ねてこの路線に乗った。 まさか終点で宿泊して、もう戻らないとは考え及ばなかったようだ。 その時運転手に口添えしてもらって「杜の庵」の客となった。ドライバーが口添えしようとしまいと、その日は満員でなかったから泊まることが出来たし、満員だったとしたら泊まれなかった。 でもそれなりに感謝をしているようだった。毎朝の見送りは恵のささやかなお礼の気持なのかも知れない。 半ば遊びながら青春を謳歌し、ノートのコピーを友達とやりとりして出席と単位を要領よく取る。そんな大学生活に疑問を抱き、せめて自分で選んだ授業だけはまじめに出席しようと決意したものの、勉学や研究にも没頭できるだけの興味を得られず、中退を決意した恵。 不器用と言えば不器用だし、正直と言えば正直だった。 自分に対して嘘をついたり誤魔化したり出来ず、妥協点を見いだすこともできなかった。 純粋だが、純粋すぎて傷つくほど弱くもない。 その純粋さと向き合いながら、不純なことばかりが多い世の中で、この先どうやって生きていくのか。 それを探すための旅。 恵の1人旅を「杜の庵」の妻はそんな風に解釈していた。だから好きなようにさせていた。 「あなたの何もかもを包み込んでくれるような彼が出来るといいのにね」と、妻。 「それは無理ですよ。だって、自分でも自分のことが理解できないんですから」 「理解じゃないの。ただ、大きなもので包み込むだけ」 「よく、わかりません」 「いいのよ。しばらくここにいたらいいわ。ここは大自然があなたを包んでくれる」 「杜の庵」の主要な商いは「喫茶」「軽食」である。ドライブの途中、深い山中にログハウスを見つけて立ち寄る家族連れやカップルが、客のほとんどだ。泊まりの客はあまりない。 宿泊用の客室もたった三室。そのうちひとつはバス会社が年間を通じて借り上げているから、実質2室しかない。 さらに残りのうちの一室を恵が占拠してしまった。 毎日の稼働率が66%という、「杜の庵」とっては驚異的な数字が続いた。 それはそれでめでたいことだけれど、あと一組しか客を受け入れられないとなると不安でもある。 場合によっては相部屋でもいいと恵は言ってくれているが、まさしく恵のように予約もせずバス事情もわからず、ふらりとやってくる客もまれにあるからだ。 「長期滞在はいいけれど、宿泊料だって安くないし、どうだろう、恵ちゃん、居候ということにでもしないか?」 主が珍しく懐具合を心配する台詞を吐いた。妻に言われたからだ。 心の奥に沈殿したものを客が自ら語るのは聴くが、主にとってはそれ以上でもそれ以下でもない。人は語れば心が軽くなる。主はそれを無意識のうちに客商売に応用しているだけなのだ。だから主から客の方に何かを積極的に提案するのは、妻に言われたからとはいえ、とても珍しいことだった。 「それはとてもありがたいんですが。いいんですか?」 「構わんよ。そのかわり、居候らしく仕事も少しは手伝ってもらうが」 「いいですよ。退屈しはじめていましたし、お金も心細くなってきて、明日あたり街に出てお金をおろそうかとか考えていたところでしたから」 妻は恵の財布の中を覗いたのではないか、と主は思った。 「じゃあ、さっそく裏のコンテナ倉庫を整理してくれ」 「わかりました。。。。でも、どんな風に?」 「コンテナ倉庫はふたつある。片方は俺の書斎にしようと思って窓も開けたし水道も引いたしエアコンもある。けど、結局倉庫になってる。そこのがらくたをもうひとつの倉庫に放り込んでくれればいい。そうすれば、恵ちゃんの部屋として使えるだろう?」 恵の表情がパアッと輝いた。 「部屋がもらえるんですか?」 「そうだ。火事にさえならなければ、どう使ってくれてもいい」 「ありがとうございます。じゃあ、さっそく」 「鍵はこれ。左側の書斎コンテナが、ええと、どっちだったかな。ま、開く方で開けてくれ」 キーホルダーに下げられたふたつの鍵。どちらも似たようなものだった。 「はい、わかりました」
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