杜の庵
エピソード5 朝霧

 

 北海道の夏は短い。8月も下旬になると、昼間の陽射しはギラギラと強いのに、夕刻になるとすっと太陽が傾き、まるで初秋の趣だ。
 帯広行きの終バスが出る16時。太陽は既に山の向こうに隠れ、昼間の明るさを保ちながらも時は夕暮れに向かう勢いを増しつつあった。
 これが「気配」というものだろうか、と恵は思った。まだ昼なのに、夕暮れを感じる。まだ夏なのに、秋を感じる。
「そろそろ、夕食の準備、手伝わなくちゃ」
 散歩から戻って来た恵は、ログハウス「杜の庵」の入口で、そっと気合を入れた。恵はこの「そっと気合を入れる」というのが好きだ。誰にも気付かれない程度の小さな呟きと、大きな深呼吸。こうして恵は気持ちを入れかえるのだ。
 6月の始めに「杜の庵」にやってきて、居候として住みつくことはや二月半。午後の散歩は恵の日課だった。散歩といってもゆうに2時間山の中を歩き回る。午後のティータイムでそこそこお客の入る時間帯だが、「遠慮しなくていいよ」と庵の主もその妻も、散歩を勧めてくれるから、それに従っていた。
 宿賃も食費も払っていないが、給料も貰っていない。朝食を手伝い、掃除をし、夕食を手伝う。それ以外の時間はフリーだった。


 帯広からの最終バスが到着するのは19時。このバスに今日の宿泊客は乗ってくるはずだった。男女合わせて7人のグループ。久々に「杜の庵」も賑わう。
「杜の庵」の主な商売は、喫茶と食事だ。宿泊は付け足しに過ぎない。客室だってたった3室しかない。しかも、そのうちの1室を通年でバス会社が借り上げている。19時についたバスは運転手ともどもここで夜を明かし、翌朝の1便として帯広に出発するからだ。従って、二組の客が来れば満室なのだ。
 とはいえ、庵の主ももともとは「宿泊業」でやっていくつもりだった。広大な山懐に抱かれて過ごす一夜はさぞかし魅惑的に感じてくれるだろうと、庵の主は考えていた。しかし、壮大な自然がある、ということは同時に、観光資源が何もないとイコールであった。わざわざこんなところに宿泊に来る物好きはほとんどいなかった。すぐ近くまで来ていた鉄道が廃止になったのも痛手だった。鉄道はローカルバスに接続して、この杜の庵にまで至っていたのだ。公共交通に頼る旅人が、その一番奥までやってきて、あとは「杜の庵」をベースにして数日間山歩きや森林浴を楽しみ、そして帰ってゆく。旅行者のそんな行動パターンをイメージしていた。
 けれども、その目論見は見事に外れた。やってくるのはもっぱら車やバイクの旅人。彼らは自分の足を持っているので、こんな何も無い所であえて宿泊する必要はない。何も無い所でいっとき「ああ、自然以外は何もないな」と感じれば、それで満足して旅立ってゆく。宿泊してくれない。しかし、そのかわりに、お茶を飲んだり、ご飯を食べたりしてくれた。鉄道とそれに接続するローカルバスが廃止され、この現象に拍車がかかった。だから今では喫茶と食事がメインなのである。
 もっとも、鉄道がなくなったおかげで、帯広まで直通するバスが出来てしまったのだから、かえって便利になったともいえる。皮肉なものである。ただし、本数は半分になったけれど。
 まあそのようなわけで、夏のシーズンといえども、満室になることは珍しい。しかも、小人数で旅する人が増えているので、満室になってもせいぜい4〜5人。だから、今日のように一気に7人グループが来るとなれば、大賑わいと言えるのだった。
「杜の庵」のメニューは四季で変わる。連泊しても同じメニューにならないように、季節ごとのメニューは3種類用意されている。恵は居候を始めてからずっと「夏メニュー」を経験していたから、3種とももう手馴れたものである。バスのドライバーも7日ぐらいのローテーションでしか回ってこないから、同じメニューに当たる事はあまりない。バス会社からは、その点については気を使わなくていいと言われていた。
「我が家の夕食は、三日に一度はトンカツだからな。それにくらべりゃ随分マシ」などと言うドライバーすらいたりする。
 季節が変わってメニューをかえたばかりの頃は、ドライバーの意見を聞くことにしている。その結果、さらにメニューのマイナーチェンジをすることもあった。ありがたいモニターなのである。


 19時。バスが到着した。乗客は9人いた。しかも、9人とも「杜の庵」に入ってくる。
「え? え? あれえ?」
 接客の手順は決まっている。宿帳を書いてもらい、部屋に案内する。その間に、ほとんど仕込みを終えていた料理に、最後の手を加える。客が客室で旅装をといた頃、食事はちょうどいい具合に出来あがっている。
 しかし、用意されていた食事はあくまで7人分。普段食堂を営業しているから、2人分増えたところで食材のストックはあるけれど、いつものように段取り良くすぐに提供する、とはいかなくなってしまう。
「どうかしたの?」
 奥から庵の妻が顔を出した。
「なんか、人数が違うんですけど」と、恵は困惑して告げた。


 予約内容は、男性5人、女性2人の合計7人。だが、やってきたのは、男性5人、女性4人だった。いずれも20代前半と思われたが、中にはもしかしたらまだ未成年かもと思える顔立ちの者もいた。多分若く見えるだけだろう。「杜の庵」に2ヶ月半滞在して、様々な人に出会い、恵も少しはわかるようになってきたのだ。
 客室は12帖、10帖、6帖がそれぞれ一室づつ。6帖をドライバーが常に使っている。残りの12帖に男性が5人、10帖に女性が4人と宿泊すれば、なんら問題なかった。
「二人ぐらい増えたってどうってことないだろう?」と、男の一人が言った。
「ええ、大丈夫ですよ」と、妻は言った。
 だが、大丈夫ではなかった。
「ええー? 一緒の部屋になるのー? そんなの聞いてないわよ」と、女の一人が言った。これは宿への不満でなく、自分たちを誘った男どもに向けられた言葉だ。
「なんとかしろよ!」と、さっきの男が居丈高に言った。これは宿に言っているのだ。
 細かいことはかわからないが、7人グループが9人になったのではなく、7人がどこかで出会った二人を誘ってやってきたらしかった。だから、彼らは9人のひとつのグループではなく、男女混成の7人グループと女性の2人組なのだ。
 最初わからなかったが、話しが進むうちに、事情が飲み込めて来た。7人グループの男女比は5対2。もともと女性が少ない。しかも、何かのサークルらしく、いっしょにいることが多いので、いわゆる男と女という感じではないらしい。そんな彼らが2人旅の女の子と知り合った。彼女達は学生で、気ままな北海道旅行を続けていたところ、とりたてて計画があったわけではないので誘いに乗ったのだが、実情はナンパに近い。そんなわけで、男性の5人とナンパされた2人は盛りあがっていたのだが、彼女達と7人グループの中にいた女性2人とはしっくりこず、とてもじゃないが相部屋などできそうにないのだった。
「でもね、お客さん、うちは部屋がふたつしかないんですよ」と、庵の主も手を止めて厨房から出てきた。これが解決しないことには、宿帳を書いてもらうことも出来ない。食事が多少遅れたって仕方がないだろう。
「約束が違うじゃない!」
「約束なんかしてないだろ!!」
「なんとかしてよ」
「なんとかしろよ。俺達は客なんだぞ」
「もういいわよ。帰るから」と、二人組の一人が言うと、「そうね」ともう一人が反応した。
「折り返しのバスは何時ですか? おなか空いたから、出来ればご飯食べていきたいんですけど」
「いや、申し訳ないがお客さん、バスは明日の朝まで出ないんですよ。私もバスも、ここで泊まりです」と、ドライバーが口を挟んだ。


 とにかく双方譲らない。ひどいのは5人の男達で、宿のキャパも確かめずに女の子を引っ張ってきたくせに、「俺達は客なんだからナントカしろ」だの、「予備の部屋ぐらいなくて宿なんかするな。万が一のことがあったらどうするつもりだ」とか、言いたい放題だ。
 万が一のときは、当方では男女別相部屋をお願いしているんですよ、と恵は思ったが、口には出さなかった。
 埒があかないと見た主は、ドライバーに先に風呂に入るように勧め、運転手はその言葉に従った。
「バスがここに泊まるんだったら、運転手はバスで寝させろよ。そしたらひと部屋空くじゃないか」との暴言に、よくこの場に運転手がいなかったなと恵は思った。風呂へ行くために、ダイニング兼ロビーを出たところだった。多分、聞こえてはいるだろうけれど。目の前でそんなことを言われたら運転手も反論するしかなかったろう。なにしろ、呑めない話なのだから。だが、耳に入ったとしても、立ち去ったあとだ。聞こえなかった振りをすればいい。
 翌日、ドライバーが主に語ったところによると、「俺も運転のプロだが、あんたも宿屋のプロだ。余計な口を出さずに、プロに任そうと思ってね。知らん振りをしていたが、正解だったよ」
 庵の主は、客達に告げた。
「お客さん、それは出来ない相談ですよ。ドライバーさんはバスの終業点検をして、きちんと施錠して、本人は明日の運行の為にきちんと休まなくてはいけない。それが仕事ですから」
 それはやんわり諭すような口調だったが、内心むかついているだろうなと恵は思った。
 責任は全て自分達にあるくせに、そのことにちっとも思い当らず、他人に責任を転嫁して、言いたい放題。そればかりか、自分の思いだけを叫んで、解決への一歩を踏み出そうともしない。そうだ、こんな馬鹿は大学にもいたなと恵は思う。
「もういいわ。私達、外で寝るから」と、2人組のひとりが言った。
「え? 外って?」
恵が驚いて復唱すると、彼女達は、自分の持っているバックパッキングをぽんぽんと叩いた。
「小さいけど、テントを持っています。寝袋も。荷物だけここに置かせて下さい。それから、食事もお願いできますか?」
「うーん」と、庵の主は顎に手をやりながら、唸った。
「そうだなあ。多分、熊は大丈夫だと思うけれど、外で寝るべき人は、他にいるような気がするけれどなあ」
 2人旅の女の子達はくすくすと笑った。
「あ、あのう・・・」
 あることを思いついた恵が、おずおずと声をかける。
「寝袋があるんでしたら、私の部屋に来ませんか? 狭いですし、汚いですけど、何とかなると思います」


 気まずくなったために、結局7人組と2人組は、食事中も相互に会話を交わすことはなかった。
 2人旅の女の子達が食事を終えると、「後のことはいいから、お二人を案内してあげて」と、恵は庵の妻に言われた。
 7人組は酒などを注文して、超スローペースである。キャパも確かめず2人組を誘ってひと騒動起こしたことなどどこ吹く風だ。アルコールが入るにつれて声も大きくなって来る。
 恵は言われた通り、2人組の女の子を自分の部屋へ案内した。
 恵の部屋は、「離れ」である。といえば聞こえはいいが、もともとはふたつあった屋外設置タイプの物置のひとつである。庵の主が、その片方を書斎にしようと、窓やエアコンを設置して水道を引いた。そこを恵が使わせてもらっているのである。
 元が物置だけに、住居としては妙だ。長方形のきちんとした形なのはいいとして、長辺側を3分割したその中央に両開きの扉があるのだ。扉を開ければもちろん中は丸見えになる。そして、決定的な欠点は、中から鍵がかけられないことだった。物置を内側から鍵をかけたりはしない。外出時に外から施錠することは出来るけれども。もっとも、こんな場所で誰が覗くわけでもないのだが。
 恵は扉を入って左側の3分の一のスペースをカーテンで区切り、その中を寝床にした。これで寝床だけは入口から素通しでなくなるし、一応は寝室とリビングがわかれた形である。扉の向かい側に洗面台があり、なぜかその上に窓がある。このため、鏡が取り付けられず、洗面しながら自分の顔をチェックすることは出来ない。主のヒゲもじゃ熊面を連想して、「あれじゃ鏡なんて必要ないよね」と思った。そして、窓の上にエアコンが取りつけてあった。「杜の庵」にはストーブはあるがエアコンはない。冷房など必要ないのだ。しかし、涼しい北海道の山の中でも、人の居住や空気の循環が全く考慮されていない閉鎖空間では、夏は温室になってしまう。だからエアコンが必要なのだ。
 リビングと寝室をカーテンで区切ったその構想は、自分でもなかなか良かったなと最初は恵も思っていたものの、いざそこで生活を始めると、それが現実的でないことに気がついた。帯広に出て買って来たポータブルテレビも、寝転がって見るために寝室スペースに持ち込まれた。読みかけの本も、スタンドを借りて、やはり寝転がって読んだ。枕元に本が積み上がるので、小さな本棚も買った。リビングスペースには、最初から置いてあったデスクとスツール、そして旅行カバンが置かれているばっかりだった。
 狭くて殺風景だけれど、このリビングスペースに寝袋を持ち込んだ女の子が2人並んで寝るのは楽勝だ。部屋のレイアウトを改めて思い出しながら、「うん、大丈夫」と心の中で頷いて、恵は2人を部屋に招き入れた。


 扉を開けると、熱気がむっと飛び出して来た。かといって開けっ放しにしておくとあっという間に虫達がじゃんじゃん侵入してくるので、2人をリビングスペースに上がらせるとさっと扉を閉めてエアコンのスイッチを入れる。ぶうーんという音とともに、一条の冷風が流れ出して来るが、これが部屋全体に行き渡るには少し時間がかかりそうだ。
 旅装を解いた2人に、恵はお風呂に入るように勧めた。
「そうするわ。ごめんなさいね、迷惑かけて」
「いいのよ。お友達が遊びに来たみたいで、ちょっとワクワクしてるし」
 それは本当だった。杜の庵の居心地は悪くない。主も妻も良い人だし、住居と食事を与えてくれるかわりに仕事の手伝いをするという「居候」の関係も、他人が見たらどう思うかわからないけれど、それなりに上手くいっていた。
 けれども、その関係を維持するには、越えてはならない一線がある。庵のオーナー夫婦はあくまで他人である。家族でもなければ友達でもない。いわば、居候という契約の上に成り立っている関係なのだ。
 夜、ひとりになると、そのことを思い知らされる。
 同じ敷地内に住んでいながらも、「今日はもうあがっていいわよ」と言われたら、そこから先はオーナー夫婦とは別の「世帯」なのだ。
 不要になったドラム缶を貰ってきて、五右衛門風呂を手作りしたのも、「星を見いながらワイルドにお風呂に入りたかったの」なんて言い訳はしたけれども、本当は「お風呂を使わせてもらいます」と、いったん物置に引き上げたあとでノコノコ「庵」に戻って来るのがなんとなく気が進まなかったからである。
 しかしそれも夏の間だからこそ出来ること。「浸かるだけ」ならともかく、地面に置いたすのこの上で身体を洗うなど、これから先の季節では現実的はでない。「潮時が近づいているのかなあ」と、恵はふと考え込むことが増えていた。


 2人組は荷物を開けて風呂の用意をはじめた。会話がないのも気まずいな、何かしゃべらなくちゃと恵が思っていると、向こうから声をかけてきてくれた。
「あたしは木村沙織」と、眼鏡をかけているほうの女の子が言った。肩までのサラサラストレートヘアーがエアコンの風にふわふわ揺れていた。「で、こっちの物静かなのが、大沢美香」
 そういえば、「帰る」とか「外で寝る」とか言っていたのはもっぱら沙織の方で、美香は沙織に対してしか声を出さなかったなと恵は思った。
「わたしは、山科恵です」
「山科さんは、ずっとここでアルバイトをしているの?」
「6月から。でも、アルバイトじゃありません。居候なんです」
「居候? なんか、前時代的ね」
「そうかしら」
「うん。昭和初期の、作家修行中の、文学青年みたいね」
 偏見のような気もしたが、恵はそれについては黙っていた。そして、逆に質問をしてみた。
「木村さんと大沢さんは、学生なんですか?」
「まあそうだけど、その『です・ます調』なんとかならない?」
「あ、だって、一応、お客様ですから」
「それはそうなんだけどさ。あなたの部屋に泊めてもらうわけだし、別にお客様だのナンだの硬い事言わなくてもいいじゃない」
「だけど、私達、客よ。今日の宿泊料は、どうなるのかしら」
 それまで黙っていた美香が言った。
「さあ、それはオーナーに訊いてみないと」と、恵は答えた。
「何言ってるのよ。払うに決まってるでしょ。さ、お風呂お風呂」
 なんだかんだとザックから引っ張り出した沙織が宣言して立ちあがった。

 しかし、まっすぐ庵の本館(?)へ3人は向かわなかった。星空があまりに綺麗だったので、立ち止まってしまったのである。2ヶ月以上住みついている恵も、こんなに美しい空を見たのは始めてだった。秋が近づき、空気が澄んできているのだ。
 星空を見上げながら、また会話が弾む。
 それによると、今回のこの2人の旅は、ちょっと傷つくことがあって落ちこんでいる沙織を、美香が誘ったのだということだった。
 意外だった。朗らかに良くしゃべる沙織の傷を癒す旅に、物静かな美香の方が誘っただなんて。逆だといわれればすぐに納得いくけれど。
「意外ですね」と、恵は言った。
「そうでしょ。でも、このコの方がずっとずっとあたしなんかよりしっかりしてるのよ。強いし、芯はあるし」
「よしてよ」と、美香は言った。
「あたしがべらべら喋って明るく振舞うのは、弱い部分を隠すためなのよ、ね」
「ね」とは、沙織から美香に同意を求めるためのものだったが、美香は何も反応しなかった。


 「杜の庵」は、入口を入ったところがロビー兼ダイニングである。7人組の宴会は盛り上がっており、惨憺たる状況だった。
 恵は沙織と美香を風呂に案内した後、「どうなってるんですか?」と妻に聞いた。
「どうにもこうにも・・・・」
 テーブルの上には、中途半端に食べ残された食器が散らかっており、そこかしこにビールビンが乱立している。
「なんか、つまみ作れよ」
「チューハイはないのー?」
 つまみったって、夕食そのものがまだ残っている。が、そちらに手をつけようとする様子はない。もはや彼らにとってそれは残飯らしかった。
「じゃあ、こちらおさげしますね」
「何するんだよ。まだ残ってるじゃないか」
「チューハイさっさと持って来いって言ってるんだよ」
「そんでさー、たけしが彼女と間違えて、チューしてきたんだよねー」
「あの教授は黙ってても単位くれるから大丈夫って。俺なんかまともに出席したことないよ」
「こらー。チューハイまだかっつってるんだよ!」
「もー、あんなバイトやってられっかってんだよ」
 フォークで皿を叩く音、テーブルの足をける音などが混じる中、ガチャーンと食器が床に落ちて割れた。アルコールで前後不覚になった奴がテーブルにおいていた自分の手で食器を跳ね飛ばしたらしい。
「親と喧嘩するし、もう最悪」
「中出ししたって拭いたらそれでいいじゃんか、なあ」
「灰皿ー!!!」
「チューハイー!!!」
「ギョーザとラーメンとライスはまだかー!!!」
「ギャーハハハハハ」
 ここは場末の居酒屋じゃねえ!!!!
 バーンとこいつらのテーブルを叩いて叫んでやろうと一歩足を踏み出したとたん、庵の主に手を掴まれた。
「なんだよ。いくら客商売だからって、傍若無人に振舞わせとくことないだろ」と、口に出かかった言葉を呑みこんだのは、夕食一人前分を載せたトレイを妻に差し出されたからだ。
「ドライバーさんに運んであげて。ここで食事をしていただくわけにはいかないわ」
「そ、そうですね・・・・」
「トレイに載りきらなかったから、お茶とお吸い物とご飯、すぐにお持ちしますって言うのよ。わかった?」
「はい」
 馬鹿な大学生の現実を見せつけられて、恵は悲しくなった。が、数ヶ月前までは自分だってああいう連中と同じ身分だったのである。そう思うとさらに落ちこんだ。


 ダイニングが片付いたのは12時を回っていた。
「ふうー」と、珍しく庵の主がため息をついた。7人組は客室に引き上げたものの、それでもたまに嬌声が響き、なにをやっているのか時にズシンドタンと振動までが伝わってくる。
「やっぱり俺、バスの中で寝るわ」と、姿を現したドライバーに、主は水割りをいっぱいおごってやった。
 ドライバーがバスの中に引き上げると、主はコーヒーをみっつ入れた。
「まーったく。ああいうアホウの相手が嫌で、こんな山の中に引っ込んだってのに、年に何度かはこういうことがあるなあ、やっぱり」
「バーンと文句のひとつでも言えばいいのに」と、恵は言った。
「ま、あれもお客、これもお客、だよ。恵ちゃん」
「サービス業だから、我慢するんですか?」
「うーん、それはちょっと違うなあ。我々は正当な報酬をもらうわけだから、引き換えに食事や飲物や寝床を提供するんだけどね。サービスってのは、そういうことじゃないんだよなあ」
「じゃあ、どういうことなんですか?」
「ま、彼らは、支払うお金の分しか、得るものがない、ってことだよ」
「・・・・?」
「わからない?」と、妻が恵の目を覗き込みながら、言う。
「わかりません・・・・」
「ここにやってくるお客には、支払ったお金以上のもの、つまり本当のサービスを受けて帰ってもらってるつもりなんだよ。我々はね。けど、彼らは支払った金の分を飲食して宿泊したに過ぎない。つまり、最低のサービスしか受けられなかったって事だよ。自分達が横暴な振る舞いをすることによって、ね。全て自業自得。良いサービスを受けようと思ったら、客はスタッフをノセなくちゃいけないんだよなあ。な、いろんな客を見てると、勉強になるだろ。もっとも彼らはそういう最低のサービスしか知らないから、それで満足して帰るんだろうけれど、もったいない話さ。自分達が損をしてるってことにすら気がついていないんだ」


 翌朝、恵は気になって、早起きをした。
 午前5時30分。
 ドライバーはバスの始業点検を終えて、「杜の庵」に入るところだった。
 主も妻も起きていた。いつもならドライバーが勝手に鍵を開けて出発していくのだが、昨夜はバスの中で寝たために、誰かが起きて鍵を開けてやらなくてはならなかった。
 ドライバーが部屋に荷物をとりに行く間に、妻はコーヒーを淹れた。恵もご相伴に預かる。
 そしてバスは、朝霧の中を出発して行った。
 それからしばらくして、沙織と美香も庵のダイニングにやってきた。すぐに朝食になる。
「ご相談があるんですけど」と、沙織が言った。
「なにかな?」と、庵の主が応じる。
「私達、あの人達と一緒のバスには乗りたくないんです。だから夕方のバスに乗ろうと思うんですが、それまで時間潰すところ、ありますか?」
「ああ、それならいくらでもありますよ。そうだ、恵ちゃん、案内してあげなさい」
「いいんですか?」
「ああ、いいよ」
「あのう、それから・・・」と、美香が言った。「昨日私達、客室ではないところで、持参の寝袋で寝たんですが、宿泊料はどうなりますか?」
「ああ、宿泊料なら頂くよ。ご飯もお風呂も提供したでしょう? 客室で寝ることを拒否したのはアナタ方ですから、いわば権利放棄ですよね。それに、たとえ恵ちゃんの部屋であっても、寝袋であっても、もしなにかあったら、私達は宿屋としての責任をとらなくちゃいけない。だから、宿泊料はもらいますよ。わかってもらえるかな?」
「はい。わかります!」と、沙織は明るく返事をし、「仕方ないよね」と、美香は言った。
「うん、わかってくれたなら、特別に、この杜の庵特製カレーをお昼にはおごりましょう」
「ええ? ほんと? ヤッタア!!」と、叫んだのは、ほかならぬ恵だった。
 常連のお客から度々聞かされていた「特製カレー」、しかしそれは、手がかかるので夏のシーズン中はお休みしていたのだ。庵の壁で何気に裏返されたままかかっているメニューが、表向きになる日がついにやってきた。1500円もする、特製カレー。
「そろそろ秋ですからね」と、庵の主は言った。
「じゃあ、さっさと朝ご飯を食べて、トレッキングに行きましょう!」
 恵は沙織と美香のお尻を叩いた。
 例の7人組は、沙織と美香が早朝の1便で出発したと嘘を教えられ、彼女達が恵に連れられて雄大な自然の中を巡っている間に、二日酔いの頭を抱えて2便で帯広に向かった。

 
 特製カレーを巡るお話は、また今度。

 

 エピソード6 「恋するキッチン」

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