黄金丘陵の古い寺院

 

 明日は僕のおごりで日本料理、か。
 そうみんなが高らかに宣言するからには、今日はいったい誰の郷土料理が出るのだろう?
 そんなふうに期待したのは、実は大間違いだった。出されたのは、なんの菜っ葉かわからないものをむしっただけのサラダ。塩コショウを振って焼いただけのステーキ。粉をお湯に溶かしただけのスープ。そして、パン。それだけだ。
 あと、地元産らしい少し甘口の白ワイン。裏の小川でさっきまで冷やしていたものらしい。

「これはどこのお国の料理なんだい?」
 僕は半ば皮肉で聞いたのだが、答えは簡単だった。
「スーパーマーケットの安売りタイムセールスの寄せ集め」
「明日は僕が日本料理をご馳走するんだろう? だったら今日だって、どこかの国の料理、というわけじゃないのかい?」
「だから、今日は我々のおごりじゃないか。金を出せとか礼を言えってんじゃないよ。だけど、ほら、料理の礼は料理で返してくれってことさ」
 僕とのやりとりを担当してくれたのはジルだった。
 シンディはケタケタと笑っているだけ。エイショーにいたっては、興味がなさそうで、料理とワインに夢中だ。

 ま、いいか。

 料理はとりたてて美味いとは言えなかったが、悪くは無かった。なにしろ、余計な手をかけていない。サラダだって、おそらく市販のドレッシングを振りかけてあるだけだし、これでは「失敗」のしようもない。
 それに、パンとワインが良かった。料理を褒めたりはしなかったが、パンとワインの出来がいいと言うと、シンディが「この街のパン屋が、朝、焼いたものだ」とまるで自分が焼いたみたいに自慢気に言った。ただし、ワインは「どこにでもある安物よ」と。
 いわゆる名のある高級ワインでないことは僕にもわかるが、これで安物なのか? なるほど、ユースホステルの食卓に持ち込まれるくらいだから、僕達のような旅人が手軽に買える程度の値段なのだろう。
 それがこれほど心地よいとはね。ワインボトルを僕は手にし、頭上にかかげた。賞賛、の意味である。

 2本目のワインのコルクが開けられ、今度は誰の驕りなのか、チーズと生ハムが食卓にならんだ。
「これはワリカンだぞ」と、ジルが言った。解説によると、厨房の冷蔵庫に誰でも使っていい食材がオーナーの手で収められている。勝手に食べていいが、後で申告し、お金を払うのだとか。
 シンディはフルーツまで切っている。なんだか急に豪華になってきた。ワインも3本目が封切られる。いやはや、ワリカンにするとはいえ、これでいったいいくらかかるのやら。宿泊料の安いユースホステルに泊まっているのに、これじゃなにをしてるやらわからない。

 そして、僕はいつのまにか、このユースホステルで再会できるかもしれない日本人の女の子のことについて語っていた。
「きちんと約束はしたの?」と、シンディ。
「いや、きちんとはしていない」と、僕。
「じゃあ、あてにしないほうがいいぜ。痛い目にあって落ち込んだって、つまらないだけだからな」と、ジル。
 やはり彼は、何か女性関係でちょっと辛い目にあったのだろう。

 そして僕は、半ば酔った頭の片隅で、ひとつの結論に達することが出来た。
 いくら居心地がいいといったって、ここはパリやロンドンでもなければ、どこかエキゾチックな港でもなければ、古い歴史の残る街でもない。人々がささやかに生活している田舎町である。そんな町が、何日も滞在する旅行者に与えてくれるのは、平穏な安らぎと、そして計り知ることの出来ない退屈である。つまり僕は、絶好の退屈しのぎなのだ。
 幸い、ここにはアルコールもつまみもある。足らないのは話のネタだ。
 そこへ新しい旅人がやってくる。話のネタはどれも新鮮だ。彼ら彼女らが僕に語る色々なことも、彼ら彼女らにとっては何度も聞いた話だろう。けれど、僕がそれを耳にするのははじめてである。何度も聞かされた話であっても、それに対する僕の感想やコメントは、全く新しい。シンディもジルもエイショーも、何度も同じことを語りながら、しかし違う人の反応を受け、自分のことをもう一度見つめているのだと僕は感じた。
 旅で、同じところに長い間留まり、そしてただ、語り合う。その目的は、ただひとつ自分との対話なのだ。

 結局、僕達は屋根の上には上がらなかった。アルコールを過ごして危険だったし、それよりもそんなことはもうどうでも良くなっていた。
 話は色んなところをぐるぐる回り、またシャルルのことになった。
「きちんと約束はしたのかい?」と、今度はエイショーが訊いた。

 翌朝、果樹園に仕事に出る前だというオーナーがやってきた。食べた冷蔵庫の中身を精算した。
「よく食べる日本人だなあ」と彼は言った。
「僕一人で食べたわけじゃない」と、僕は反論した。

 そのあと僕は、宿泊料の精算を申し出た。
「いつまで?」
「まだ、決めていないけれど……」
「じゃあ、1泊分ずつ貰おうか。とりあえず、昨日の分」
「今日の分も払っておきますよ」
「いや、それは明日の朝でいい」
「でも、ユースホステルは前払いが原則でしょ?」
「そりゃあそうだが、揉め事はごめんだからな。これまでにもちょいちょいあったんだよ。『やっぱり帰るから、今日の分を返してくれ』とかな。夕方にもココに寄るが、そのときは食べ物の補充に来るだけだ。金なんぞ持って来ていない。家に帰れば、女房が夕食の支度をして待っているし、子どもたちの勉強もみてやらなくてはならん。金を取って戻ってくるなんぞ面倒だしな。で、言ってやったんだよ。『契約は成立している。それをそっちが正当な理由ナシにキャンセルするんだから、金は返さん』とな。そしたら、ブチ切れやがって、全く……。 いや、俺も悪かったんだよ。金を取りに戻るのが面倒だからなんて理由で断ったんだからな。後ろめたくてね」
「僕はそんなこと、言いませんよ」
「誰も最初はそう言うさ。宿泊料の倍も飲み食いするやつがケチだとも思わん。だが、いざとなったら、はした金が惜しくなるものさ。それが人間ってものさ」
「明日の朝、早くに、僕が金を払わずに逃げていったら、どうします?」
「今までにそんなヤツは居なかったよ。早くに出発する客は、みなどこかに金を置いていく。丁度が無くて、大目に置いてくことも度々あるさ。そのときは、悪かったなあと思うが、その分、次の客にサービスすることにしてる」
「でも、僕は逃げるかもしれませんよ」
 意地悪かなと思ったが、僕は繰り返して言ってみた。
「逃げて得をしたと思うなら、逃げたらいい。そのかわり、そのさきずっとやましい思いを抱えて生きることになるんだ。ザマアミロだ」
 強がってはいるが、やっぱり何人かには逃げられたんだな、と僕は思った。
「ま、いずれにしろ、揉め事はゴメンだ。金はあとでいい。もし、何月何日までここに滞在するって気持ちが定まったら、教えてくれ。そのときは全額もらうよ」
 僕が1泊分の代金を払うと、エイショーはオーナーと一緒に出て行った。果樹園の仕事を手伝うらしかった。

 午前中は、ジルとシンディに伴われて、食料品店に行った。だが、店の前で二人と別れた。
「どんな料理が出来るかは夜になってのお楽しみ、今、何を買ったかわかってしまったらつまらないだろう?」
 そういうと、二人は適当に散歩をして、適当な店で昼食をとるから、おまえも昼間は好きにやってくれ、と言った。
 僕は夕食の買い物を済ませ、それから自分の昼食用にパンとコーラを買った。ぶらぶら歩いて、幹線道路にある掘っ立て小屋付きバス停までやってきた。熱い日差しを少なくとも避けられる場所だ。
 コーラがぬるくならないうちに飲もうとリップを開け、ついでにパンをかじった。
 シャルルはやってくるだろうか。僕はバス停の壁に張られた時刻表を見ながら、そんなことをぼんやりと考えていた。そのうち、一台のバスがやってきて、停まった。誰も降りなかったし、僕も乗らなかった。運転手は不思議そうな顔をしてバスを出発させた。

 バス停を後にした僕は、ワインを3本買ってからユースホステルに戻って、昼寝をした。せっかくだから、黄金丘陵の古い寺院を訪ねても良かったのだが、なんとなくそんな気にはなれなかったのだ。
 そのかわり、ユースホステルへの戻り道で、時々振り返って黄金丘陵の古い寺院を何度となく眺めた。木々の枝葉が邪魔をして、なかなか思うとおりのアングルで見ることはできなかったが、それでも「ああ、ついにここまでやってきたんだなあ」という思いは抱くことが出来た。
 夕方、屋根裏から屋根に登ってみよう。あの黄金色の丘陵はきっと夕日を浴びてそんな色に染まるに違いなかった。
 だが、昼寝をしているうちに、日が沈んでしまった。
「晩飯作ってくれよオ」とジルにせがまれて、ようやく目が覚めたのだった。

 晩飯は、散らし寿司もどきである。
 正しく言えば、五目飯かもしれない。

 酢飯が彼らに受け入れられるかどうか、自信がなかったからだ。もちろん、日本風の米酢も手に入らなかった。ワインビネガーでも良かったのだろうか? よくわからない。
 具財も適当だ。椎茸があったので、これを甘辛く煮た。エビはボイルして開いた。そして、薄焼き卵を焼いて、細く切った。しかしとても錦糸玉子と呼べるようなシロモノではない。魚介類がエビだけでは淋しいが、どんな魚を買ってきて、どのようにすればいいのかわからなかったので、オイルサーデンとツナの缶詰を買ってきて、ざるで油を切ってから載せた。
 出来上がってみれば、ご飯を冷ますのを忘れており、暖かい上に具を載せることになってしまった。これなら丼ということになるかもしれない。ごはんにも味がついていないし、こんなのでいいのだろうか?
 ミソ汁か澄まし汁でも添えれば良かったのだろうけれど、まさか鰹節があるわけもなく、仕方ないので日本でもおなじみのメーカーであるクノールのインスタントスープで誤魔化した。

「これが日本料理なのね?」と、シンディに言われて、僕は「どう考えてもこれは日本料理ではない。ライスの種類も違うし、僕だって初めて食べる料理だ」と答えた。
 場は大爆笑になったが、しかし、食事としてはまあまあいけた。
「適当に作って、それでそこそこ食えるんだから、ある意味、天才だよ」と、ジルに評された。皮肉なんだか本気なんだかわからない。

 ワインのボトルが1本、2本と空き、小川で冷やされた缶ビールもいくつか持ち込まれた。
 会話が盛り上がっては消え、違う話題が現れては去った。
 毒にも薬にもならない、なんて言葉があるけれど、僕達が過ごしている時間はまさしくそれだ。
 彼らはこうして、ここで何日も無益な時間をやりすごしてきたんだなと思った。無益だけれど、無駄ではない。僕にはそんな風に思えた。

 そして僕はふと、心に絡み付いていたいくつもの糸が徐々にほぐれていっているのに気が付いた。それは、糸、といっては細すぎる。紐、だろうか。それとも、ロープだろうか。あるいは、心の表面に錆のようにこびりついた澱とでもいおうか。
 ともあれ、僕を何かにつけて不自由にしていたものだ。

 だったら、ここい居ることは、「毒にも薬にもならない」ではなくて、まさしく「薬」じゃないか、と思った。そして、すぐに否定した。薬などという効果を意図したものじゃない。それは、立ち止まってゆっくりと見渡せばどこにでも漂っているもの。けれども、あくせくと動き回っていたのでは、なかなか気が付かないもの。それこそが、人の温もり、などと俗に言われるものではないだろうか。

 怪我の治療を「手当て」という。それはまさしく「手を当てる」が語源になっているらしい。お腹が痛くなったときなど、痛くなった場所に、無意識に手を当ててしまう。それは、人間が本能的に「手を当てれば直る」ことを知っているからなのだそうだ。手には不思議な力が宿っている。人間には自然治癒力が備わっているともいう。手はその増幅器なのかもしれない。
 ここにいることは、心の手当てなんだなと思った。
 みんなが手を当てあって、癒しあっているのだ。
 傷を舐めあう、とも言うのかもしれない。傷の舐めあいと言うと、あまりいい意味では使われないのかもしれないけれど、僕は決して悪いことのようには思えなかった。医学のない動物たちは、文字通り、傷ついた仲間や家族を舐めて癒す。

 旅に出る前、僕は黄金丘陵の古い寺院をこの目で見たら、きっと駆け出して近寄るだろうと思っていた。でも、僕の実際の行動はそうではなかった。手の届く距離にそれはあるのに、何が何でもすぐに近寄りたいとは思わない。
 僕の旅の目的は、もしかしたら古い寺院を目の前で見ることではなく、ここでこうしていることではないだろうか、とすら思えた。
 随分アルコールが回っているので、こんな思考すらも不確かなんだけれども。

「ところで、あの建物は見に行ったの?」と、シンディが訊いた。
「いや、実はまだなんだよ」
「こいつのお目当ては、あんな古い建築物じゃなく、本当は日本人の女の子なんだ」と、ジルがまぜっかえした。シャルルのことを言っているのだ。
「じゃあ、お弁当を持って、明日、みんなで行こうか?」と、シンディが提案する。
「そうだな。俺もあれがなんだか気になってた。明日は果樹園の仕事も休みをもらうつもりだったし」と、無口なエイショーが珍しく自分から声を出した。
「実はね、もし今日の『日本料理』が食べられないシロモノだったらって心配して、バゲットとハムとチーズを買ってあったの。これで明日、早起きしてサンドイッチを作るわ」
「おいおい、信用してなかったのかよ」と、僕は唇を曲げた。
「だって、あなた、料理なんて出来そうな顔してないじゃない」
「料理は出来なくても、アイディアマンのようだぜ。缶詰をたくみに使いこなしている」
 シンディもジルもボロクソだが、エイショーは親指を突き出して「グー」のポーズをしてくれた。
 僕は「へっ」と言って、背もたれに身体を預け、ふてくされたポーズをとった。すると、ジルがなぐさめてくれた。
「美しい女に『ブス』と悪口を言うことはあるが、ホンモノのブスをブスと罵ったりしないだろう? まあ、そういうこった」
「じゃあ、私のことを、かわいいって褒めてくれたアレはなんなの?」と、シンディ。
「おいおい、つっかかるなよ」

 

 

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