エイショーが果樹園に手伝いに出かけてしまうと、僕は何もすることがなかった。 1階のバルコニーに出て、ビールを飲んだ。テーブルや床に落ちた影が揺れているのを見て、ああ、気持ちのいい風が吹いていると思った。 アルコールを煽りたい気分などどこにもない。空気も風も爽やかだ。だから僕は、ひとくちずつゆっくりとビールを飲んだ。後半はぬるさを感じるほどだった。相当時間をかけて飲んだつもりだったが、最後のひとくちを飲み終えると、とても短い時間のような気がした。 町へ出て食堂に入り、地元の人たちに混じって食事をした。食料品店や酒屋などには何度か通ったが、そういえばここで食堂に入るのは初めてかもしれない。鉄道駅から延々歩いて辿り着いたそのときのこの町は、荒野の真ん中で朽ちたように思えたが、何日か過ごしてみると、確かに生活の匂いがあった。 食後、僕は駅から続く道に出て、しばらくたたずんでいた。ふっとシャルルが現れるような気がしたからだ。しかし、現れなかった。酒屋で冷えたビールを買い、バス停小屋に座って飲んだ。その間、上りと下りのバスが1本ずつ通った。どちらが上りでどちらが下りかわからないけれど、要するに往復それぞれ1本ずつってことだ。 どちらのバスからも誰も降りてこなかった。 ユースホステルに戻った僕は、事務室のパソコンを借りて、メールチェックをした。誰からもメールは届いていない。 寝室に戻って、ベッドで横になっているうちにうたた寝をした。 |
「メシ、食いに行こう」 エイショーに起こされた。 「どこか、いい店でも知ってるかい?」 「いい店は知らないが、なじみの店はある」 「じゃあ、そこにしよう」 ついたそこは、カウンターが5席、テーブルが4つ、昼間は大衆食堂で夜は酒場、インテリアにもメニューにもとりたててこれといった特徴のない、「ここが俺のなじみの店だよ」と紹介されれば、簡単に納得しそうな、日常使いにふさわしそうな店だった。 「何が食べたい? スペイン料理はわかるのかい?」 エイショーが訪ねてくれた。 「実はよくわからない。パエリアって米の料理があるだろう。それは食べたいが、後は……」 「適当に肉料理と魚料理を頼んでいいか?」 「任せるよ」 「ふ。俺も無口な方だが、おまえもこうしてると案外無口だな」 「いや、ちゃんと受け答えしているつもりだけど……」 「そうかい」 エイショーはニヤリと笑った。そうか、僕は無口なのか……。 そうかもしれない。相手から何か話題を向けられたら、決してそんなことは無いのだが、自分から雑談しようということは、考えてみればあまりない。ジルやシンディがあれやこれやと話しかけてくるから、これまではそれなりにお喋りに興じていたけれど、無口なエイショーと一緒だと静かなもんだ。 しかし、黙っていたのでは料理の注文も出来ない。彼から色々と話しかけてくれるのは、それなりに気を使ってくれているのだろう。 僕も何か話しかけなくてはいけない。 しかし、そう思えば思うほど、話題が出てこなかった。 |
「もうちょっと、飲むかい?」 「そうだね。このままユースホステルに帰っても、何もすることがない」 空になったグラスと皿を下げに来たウエイトレスに、エイショーはオーダーを追加した。飲み物以外にも何か頼んだようだ。 話題は無いが、居心地は悪くない。 アルコールとタバコ、そして様々な料理の匂いが店内に充満している。ウエイトレスが横を通り過ぎると、トレイの上のコーヒーから漂う香りが鼻先をかすめ、すれ違いに大男がトイレに向かうと、ひどい体臭がした。 こんなに密度の濃い様々な匂いを感じたのは久しぶりだった。 匂いだけではない。音も相当なものだ。よくわからないBGMがかかっているのに、テレビもついている。誰も彼もが何かを喋っている。話が興に乗っているのか、それとも異議を唱えているのか、テーブルをバンバン叩くやつもいれば、床をどんどん踏みつけるやつもいる。ナイフやフォークが食器に触れる音も届いてくる。 動かなくなったまま放置されていると思われていた柱時計が、ボンボンボーンと時報を奏でたりもした。秒針などないので、稼動しているかどうかなど、チラと見ただけでは判断がつかないのだ。 柱時計の上にカレンダーがかかっており、今日は何日だったっけと僕は目を凝らした。 いや、今日がどういう日かはわかっている。この町で過ごせる最後の日なのだ。明日、パリへ向かわなくては、帰りの飛行機に間に合わない。 「俺に、気を遣わなくてもいい」 エイショーが言った。 「明日、出て行くんだろう?」 「ああ」と、僕は言った。「休暇が短くてね」 「ジルもシャルルも出て行った。その直後だから、言い出しにくかったんじゃないのか?」 「その通りだよ」 正直、ホッとした。今朝からなんとなくそわそわして落ち着かなかったのは、そのせいなのだ。酒を飲んだり、町をうろついたりして、気分を紛らわせようとしたけれど、どうもうまくいかなかった。 理由はふたつあった。ひとつは、とうとうシャルルに会えなかった、ということ。そしてもうひとつは、ジルとシャルルが居なくなったその翌日に、僕も出て行かなくてはならないという、一種の罪悪感だった。 個人的事情なのだからそれは仕方ないのだが、どうしても割り切ってエイショーにそう伝えることが出来ないでいた。ジルもシャルルもいなくなり、エイショーだけになったユースホステルにはもう居たくないんだ、キミのことはどうでもいいんだよ、そう思われはしないだろうかと、ビクビクしていたのだ。 だから、エイショーから言い出してくれて、ホッとしたのだ。 「カレンダーをじっと見つめたりして、俺から言い出して欲しかったのかい?」 「実は、そうなんだよ」 まいった。そこまで気付かれていたとは。 最初からそんなことを考えていたのではない。カレンダーを見つけてそういう作戦で行こうと決意したのでもない。カレンダーを見ながら、「明日、出発するしかないな。どうやって言い出そうか」とか、せいぜい「カレンダーを見つめる僕の様子に、エイショーが何か感じ取ってくれたらいいな。でも、それは無理な話だろうな」ぐらいのものだ。 だが、エイショーはしっかりと気がついてくれた。 「しかし、それはさっき、そうだったらいいなと思っただけで、最初からそんなつもりだったんじゃない」 「わかってるさ。おまえさんは、頭は回るが計算高いことをするようなズル賢いやつじゃない」 「言い切るね」 「ああ、だから、酒に誘ったんじゃないか」 「人を見る目には、自信があるってことかい?」 「自信はあるが、自信過剰でね。時々失敗する。だから、今日はホッとしてるよ。おまえさんが、俺の思ったとおりの人物でさ」 金魚鉢サイズのガラス鉢が目の前に置かれた。薄赤の液体で満たされ、フルーツの切り身が入っている。 小さなお玉でグラスによそって、飲む。 「サングリアだ。何杯も飲みながら、フラメンコを観る」 「ここで、フラメンコのショーが?」 「あるわけない。ショーは無いが、サングリアはある。難しいカクテルじゃないからな。スペインに来たら、一度くらい飲んでおくのも悪くない」 「そうだな。ありがとう」 「いや、俺も今日が初めてだ。俺が飲みたかったんだ」 |
「それ、奢ってくれたら、踊ってあげるよ」 ひとつ向こうのテーブルに座っていた娘さんが、僕たちのテーブルの上のサングリアを見つけて、声をかけてきた。 隣のテーブルにいた髭オヤジが、「ひゅーひゅー、いいねえ。けちけちせずに奢ってやれよ」と囃し立てる。 「もちろんだ。彼女になら、踊ってくれなくたって、奢ってやらあ」と、エイショーが調子のいいことを言った。 「そりゃあ、おもしれえ」と、店の主人らしき男がギターを持ってやってきた。おかみさんがちょっと眉を曇らせたが、仕方ないわねと言わんばかりに腕を組んだ。 テーブルがそれぞれ少しずつ壁に向かって移動させられると、中央にちょっとしたスペースが出来た。背もたれのついた椅子に腰掛け、店主は足を組んで、ギターを構えた。 「その衣装で踊るのかい?」と、娘さんをからかった。彼女はキャミソールにデニムの短パンだったのだ。露出された肌に色香は感じるが、確かにフラメンコの衣装ではない。 「しょうがないでしょ。これしかないんだから」と、彼女は頬をわざと膨らませ、「そのかわり、花を添えてあげるわ」 彼女は、自分の居たテーブルでことの成り行きを見守っていたもうひとりの女の子の手を引いた。友達同士で呑みに来てたのだろう。 「ちょ、ちょっと。わたしは……」 「いいからいいから」 手をつかまれ、中央に引っ張り出された彼女の友人は、それでもまんざらではなさそうだった。踊るのは恥ずかしいけれど、踊りそのものには、自信がないわけではない。そんな感じだ。 眉をひそめたはずのおかみさんの手には、いつのまにかカスタネットが握られていた。 |
ジャララララン! 親指を除く、4本の指が、太いほうの弦から細いほうの弦へ向けて、軽やかに流れる。それが合図となって、二人の踊り子が、ダダン、ダダンと床を踏む。タタタタタと信じられない速さでカスタネットが鳴る。 確か小学校の授業のとき、カスタネットの扱いは習った。左手にはめて、リズムを崩さないように、右手でタン、タン、タンと打つのである。しかし、おかみさんのカスタネットはそうじゃない。両手にはめて、それぞれの指をわずかにタイミングをずらして内側に折り曲げ、一本ずつの指で次々と掌の中のカスタネットを打つのだ。 こうして、即興のフラメンコは始まった。 ギター1本とは思えないほどの多彩なメロディーが店内を飛び交い、彼女たちが床を踏みしめる音はまるでバスドラムごとく、そしてカスタネットの絶妙のリズムが遠く近く感じられて、二人の美少女の舞は、場末の酒場をまるで天国の花園のように感じさせた。 マシンガンのように襲ってきた音の数々がやめば、そこには無音という音の世界が広がり、ふわりと踊り子の腕が空をゆらぐと、再び音楽が再開する。 各テーブルからサングリアの注文が次々入り、ウエイトレスはてんてこ舞いだった。 祭りの時間はほんの15分ほど。曲の区別や切れ目の判断が出来ない僕には、それで何曲だったのかさっぱりわからないけれど、主人が額の汗を拭ったところで、ショーは終りになった。 拍手喝さいを浴びながら、ゆっくりと自分の席に戻った彼女たちは、自分たちのグラスを持って、僕たちのテーブルにやってきた。 「今夜のお相手は決まりかい?」 「東洋人のモノじゃ、満足できないんじゃないの?」 周りのテーブルから下品な野次が飛ぶ。しかし、それも悪い気がしない。 最初に踊ってあげようかといった娘はローラと名乗り、こっちは友人のアンナよ、と紹介した。無口な男二人を前にして、ローラとアンナは何一つ困ることなく、あれこれと喋り続けた。 お酒のせいもあるし、踊りを終えてハイテンションになっているせいもあろう。とにかく楽しくって仕方ないという笑顔で、次から次へと言葉を紡ぎだしてくる。 雑談になればなるほど、僕の英語はあやしくなるが、彼女たちもそれほど英語が堪能なわけではない。時々口ごもるが、エイショーはスペイン語が相当できるらしく、適宜翻訳をしたりして、僕たちの会話が白けることは無かった。 「スペインの女性は、誰でもフラメンコが踊れるのかい?」 「やだ〜。そんなことはないわよ。私たちは好きで踊ってるけど」 「大学で、ときどきクラスメイトに披露するくらいよ。見知らぬ人の前で踊ったのはこれが初めて。あ〜、恥ずかしかったわ」 「堂々としてたじゃない」 「ギターとカスタネットが上手だったせいよ。のせられただけ。最初は伴奏なしで踊らされるのかと思って、ぞっとしたわ」 「うそうそ。顔は喜んでたって。私にはわかるのよ。だからひっぱりだしたんじゃない」 「ローラに抵抗しても、無駄だもの」 「またまた〜」 ローラとアンナの二人だけで会話が進むことも多かったが、決して僕たちに無関係の話をしなかった。4人でテーブルを囲んでいるということをちゃんと意識しているのだ。合コンに来る女子大生やOLなんかより、ずっとマナーを心得ている。 僕たちも一通り、自己紹介のようなものをした。といっても、旅人であり、どんな旅をしているか、という程度のものだ。 「こいつは、女に待ちぼうけを食らわされているんだ」と、エイショーが僕のことを言った。 「別に待ってるわけじゃ……」という僕の言葉を遮って、「でも、とうとう会えずに時間切れ。明日は泣く泣く日本に帰るんだ」と追い討ちをかけるように付け加える。 「そんな女のこと、忘れさせてあげるわよ、ね、アンナ」 「もう、またそんな適当なことを言う……。本気にしないでね」 「本気でもそうでなくても、こういう楽しい時間が過ごせればそれでいいさ」と、僕は返事した。 「ほらほら〜。このお兄さん、世の中の真理がわかってるわよ。いい男よ」 な〜にが世の中の真理だよ、と思いつつ、僕は大笑いをしていた。 |
そして、ついに旅立ちの朝である。 昨夜はあのあと、金魚鉢サングリアをもういっぱいおかわりし、ローラとアンナとエイショーの4人でさんざん喋った。店を出たあとも道端で座り込んで盛り上がった。 彼女たちは時々唄ったり踊ったりした。僕もそれに合わせて身体を動かしたり、あるいはぼんやり眺めていたりした。空を見上げるたびに月の位置が変わっていた。 そんなわけで、ユースホステルに戻った時には、すっかりアルコールは抜けていた。 ベッドに潜り込むと、僕もエイショーも一言も発しないままに、眠りに落ち、そしてすぐに目覚ましが鳴った。外はもうすっかり明るい。 あきらかに睡眠不足だし、身体のあちこちに疲労の切片が残っていたが、不快感はなかった。 エイショーはまだ眠っている。僕は先に事務室に向かい、メールチェックをさせてもらった。結果はこれまでと変わらず。寝室に戻った僕は、なるべく音を立てないように荷造りをしたが、うまくいかない。やはり音のことなど気にせず、ガッツガッツと押し込まないといけないようだ。 荷物を部屋から引っ張り出して、ズルズルひきずるようにロビーへ向かう。全ての荷物がザックに入っていないので、両手に抱え込むようにして持ったが、それでも一度では無理だった。 もう一度寝室に戻り、やはり静かに残りのものを両手で抱え、やっと全ての僕の持ち物をロビーへ移動させることに成功した。 荷造りを終えると、いつのまにかエイショーが起きていた。そっとコーヒーを差し出してくれる。 「ありがとう」 「気にするな」 「いや、起こしちゃって、悪かったな」 「なあに、おまえさんが出て行った後で、もう一眠りするよ」 「そうか」 そのあとは、特に会話もなく、ただゆっくりとコーヒーを飲む。 コーヒーを飲み干した僕に、エイショーは言った。 「そんなに急ぐのか?」 「いや、本当のことを言うと、パリ発の今日の便が、一日遅れるんだ。さっき、電話して確認した」 「じゃあ、もう1泊できるじゃないか」 「ああ、でも、未練が残るし、こんなに朝早く起きるのもナンだから、今日中にパリへ移動しておこうと思う」 「彼女は来ないのか?」 「わからない。あれから連絡がとれない」 「そうか」 エイショーがコーヒーのおかわりを淹れてくれた。 「もういっぱいくらい、飲んでいったらどうだ?」 「そうするよ」 オーナーがのそのそやってきて、僕は昨夜分の支払いを済ませた。 「そうだ。俺に荷物と金を預けていかないか?」と、エイショーが言った。 「え? なんで?」 「急ぐ荷物はないんだろう? 郵便局から船便で送っといてやるからさ。そしたらお前は身軽になれる」 「いや、そんなことまで頼むつもりは無いよ」 「だけど、もしかしたら、ここを出てから、どこかで彼女にすれ違うかもしれないだろう? そしたら、お前はここに戻ってくるんじゃないのか? だったら身軽な方がいいに決まってる」 「万が一、彼女とすれ違ったらそうするだろうけれど、確率はほとんどないと思うけれどな」 「可能性はゼロじゃない。でも、諦めたらゼロだ。諦めていない証拠に、荷物を置いていくんだ。そしたら、奇跡は起きるかもしれない。信じて、荷物をおいていくんだよ。なあに、おまえさんが今日中に戻ってこなければ、明日、荷物は送っといてやるからさ。送料がいくらかかるかわからないから、金は多目においていってくれ。ネコババなんてしないさ。何か見繕ってお土産を入れておいてやるよ」 「まあ、そこまで言うなら……。身軽になれるのもありがたいし……」 「じゃあ、そうしろよ」 |
なんだか妙なことになったなと思いながら、僕は荷造りをやり直した。 僕は行動用のさほど大きくないデイパックを持っている。宿に着いたあとに外出するときや、飛行機の機内など、当座必要なものだけを手元においておくときに役に立つ。ぐしゃぐしゃに押し込まれたデイパックをザックの中から引っ張り出し、一日分の下着の換えと、貴重品だけをデイパックに納めた。 そして、いくばくかの現金をエイショーに渡して、「じゃあ」と手を軽く上げた。 「ああ」と、エイショーは言った。 |
可能性はゼロじゃない。 でも、諦めたらゼロだ。 諦めていない証拠に、荷物を置いていくんだ。 僕はユースホステルから町への坂を下りながら、エイショーの言葉を反復していた。 昨夜の地元の娘達とのひと時は楽しかったし、旅の出会いとはそういうものだと思う。どこかで出会った人と再会したい、などという想いは、旅としては邪道だろう。それも偶然ならともかく、示し合わせるなんて。 昨夜の出会いが本物であり、シャルルとの再会を期するのは偽者なのだ。 しかし、あの屈託のない彼女たちの笑顔を思い浮かべると、なおさらシャルルへの想いは募る。もう一度会いたい……。 そして僕は、ふとあることに気がついた。 あれからシャルルのメールは届かない。けれど、彼女は確かに会いに来ると書いていた。僕は時間の許す限り待つことになっている。 飛行機の遅延がなければ、もう時間切れなのだけれど、実際フライトは一日遅れるのだ。にも関わらず待たないというのは、イコール約束を破る、ということではないだろうか。 その思いが、僕をバス停に踏みとどまらせた。 目の前の道路を、右から左へ、1本。そして、左から右へ一本。バスが行過ぎた。それぞれ2〜3人が乗降したが、シャルルの姿はない。 食料品店でコーラを買い求め、バス停に戻って、もう1本バスを待った。誰も乗り降りしなかった。僕は腰を上げた。そして、座った。 やっぱり、再会を期するなんて、旅人としては不謹慎に思えた。いや、待ちくたびれただけかもしれない。シャルルが約束を守るという保証もなかった。不謹慎は、多分、この場を離れようとしている自分に対する言い訳だ。 次に来るバスは、左から右へ向かう。そのバスの終点は鉄道駅である。これに乗れば、20分ほどで駅に着く。最初に僕が降りた駅とは違うが、同じ路線である。何度かインターネットにつないだときに、これらのことは調べてある。 静まり返った町に、バスのエンジン音が遠くから響いてきた。僕は立ち上がった。 シャルルはこのバスに乗っているだろうか? 乗っていなかったら、僕はこれに乗ろう。 停車したバスからは、誰も降りてこなかった。僕もバスに乗ることが出来なかった。 怪訝そうな顔をして運転手は再びバスを走らせ、僕はその場に取り残された。バスには乗らず、来た道を歩いて、駅を目指そうと思ったのだ。もし、シャルルとすれ違うとしたら、その道だ。 この地から遠く離れたどこかの旅行案内所で訊くとしたら、やはり駅から80分歩けと教えられるだろう。メールにここの地名は記したが、交通案内までは書いていない。だからシャルルは、どこかの旅行案内所で訪ねるしかないのだ。 僕は再び歩き始めた。駅へ向かって。 途中でふと、彼女だってインターネットカフェに寄っているのだと気付いた。僕から地名の記されたメールを見て、その場で交通ルートをネットで探したかもしれない。そしたら、80分もかかる道のりを歩いてここへ向かっては来ないだろう。便利なバス路線を使うだろう。 その方が現実的だ。でも、僕は引き返さなかった。 シャルルは僕と同じ駅で降り、そして80分、歩いてくるような気がする。それは根拠の無い、しかし確信に近い思いだった。誰とも出会わないまま駅へ着いてしまい、がっかりするかもしれない。でも、僕はそのとき、そんなにガッカリはしないような気もしていた。 これでいいと思った。 長期旅行者とはいえ、シャルルだっていずれは日本に帰ってくる。もし会えなければ、パリのどこかから、日本に戻ったら連絡頂戴とメールを入れておけば済むのである。ここで彼女に会うよりも、帰国後に彼女に会うよう段取りを整えるほうがはるかに確実で簡単じゃないか。 そう思うと、今日はもう会えなくても別にかまわないと思った。 彼女がどういう行動をとるかとヤキモキして、立ったり座ったり行ったり来たりするよりも、どうせ会えないかもしれないのなら、これだ、と思う道をずんずん歩いていくほうが気持ちいい。この気持ちよさが、旅には大切なのだ。 坂を登って町を後にし、黄金丘陵を遠巻きにした道をずんずん歩く。やがて、道は駅へ向かってほぼ一直線になった。多少のアップダウンがあるから、全てを見渡せるわけではない。比較的高い位置にいるときは視野がきくけれど、低い位置になれば視野は閉ざされる。 傾斜を登りつめると、小さいながらも見覚えのある駅舎が遠くに見えた。あの建物との距離が徐々に近づき、やがて僕はその中に入っていくのだ。そうすれば、旅は終りなのである。 しかし……。あれは……? 駅への道の上に、人影が見える。 まさか、シャルル? ここからの距離では、性別も身長もわからない。じっと目を凝らして、ようやくその人影がこちらへ向かってきていることがわかった。すぐ傍に木が立っていたので、それを基準に近づいて来ているのか、遠ざかっているのかが判断できたのだ。 まさか、シャルル? 旅行案内所の係員は、地元の人は車を置いておくか、家族や知人に迎えに来てもらうだろうと言った。だとすれば、歩いているのは旅人である可能性が高い。しかし、それがシャルルかどうかはわからない。でも、こんな地にやってくるのだから、シャルルの可能性も低くは無い。 僕は早くすれ違いたくて、足を速めた。 道は下っていて、すぐにその人影が見えなくなった。視界の良いところまで戻ってもう一度、眺めようかとも思ったけれど、先を急ぐことにした。 再び登り坂になり、その最高地点に立ったとき、人影との距離は意外と近づいていた。それがさほど身長の高くない女性であり、かつバックパッカーであることが確認できた。 しかも彼女は、何度か足を止めては、こちらに視線を固定させた。まるで何かを確認するかのように。 ためしに僕は手を振ってみた。 顔まではまだ確認できないけれど、彼女も手を振りかえした。 大きな荷物をユースホステルに残しておいて良かったと思った。でかいザックを抱えていては、「あら、約束を破って出発するつもりだたのね?」と言われても言い訳が出来ない。しかし、デイパックひとつなら、「キミが今日、やってきそうな気がして、駅まで迎えに行こうとしていたところなんだ」と言える。 まさか、エイショーはそこまで計算をしていた? まだ彼女がシャルルかどうかはわからないが、手を振ればそのたびに彼女も手を降り返してくれた。 |
おわり