想い出ライブラリー

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 私は、成田風子。17歳。高校2年生。

 朝が苦手な私は、いつもボーっとしたまま学校に向かう。朝食を食べても、トイレへ行っても、口の中に歯ブラシを突っ込んでも、朝の「ボー」は納まらない。目覚めたときの朦朧とした感覚を残しながら、私はフラフラと通学する。そして、学校へと歩くうちにようやくはっきりと現実を認識できるようになる。
 私の中へ飛び込んでくるさまざまな刺激のためだ。
 登校中に友達に話しかけられることはほとんどないけれど、例えば日によって異なる太陽の光の強さや雲の厚さや風の具合といった天候に関することとか、散歩させてもらっているさまざまな大きさと形の犬たちのその姿態とか、すれ違ったり追い越したりしていく車やバイクや自転車とか、あらゆるものが私の中に覚醒をもたらしてくれる。

 私は異形のモノの気配を感じることも多い。むしろ何も感じることなく学校へたどり着ける日のほうが珍しい。
 私が知覚できる異形のモノたちというのは、明らかに死人の霊であることもあったし、おそらく肉体はまだどこかで呼吸をしているであろう生霊のこともあったし、動物霊の場合もあった。また、この世のものではないもの─それは妖精だとか天使だとか妖怪だとか餓鬼といった類のものだが─を感じることもある。

 幼稚園のころはそのようなものにはさっぱり反応しなかったけれど、小学校に上がるころから徐々に感じるようになり、生理が始まったころから顕著になった。
 気配しか感じなかったものが、最近ではその姿を認めることが出来る。

 そういったモノ達が見えるのだということを、私は一度だけ友人に話したことがある。友人たちはその日から私のことを奇妙な目で見るようになった。別に異形のモノが私にとりついているというわけではない。ただ存在するものを、感じたり見たりすることが出来るだけである。だが、それだけで友人たちは私までもが怪異なもの、と感じたのであろう。私にとってはただの世間話でしかなかったのだが、クラスメイトにとってはそうではなかったようだ。

「わあー、あの子犬、かわいい」
「あそこの電柱のとこに、自縛霊がいるわ」

 同じレベルで話すことに無理があると気がついたのは、友人に気味悪く思われてからだ。

 私は登校中に時々考え事をする。テーマは色々だ。今日は私にだけ見たり感じたりすることが出来る異形のモノ、そしてそのことに対する友人たちの評価についてだった。考え事をしているときはそちらに神経が集中しているらしく、異形のモノの存在を感じることはない。それどころか、通学路で出会うさまざまな事象にすら刺激を受けない。
 まるで条件反射のように、ただただ学校へ向かって歩いているだけだ。
 よくこれで車に轢かれたりしないなと自分でも感心する。

 こうして今日も学校まで辿り着いたのだが、思考に耽っていた為に異形のものにも出会わなかった代わりに、目覚めたばかりの「ボーっ」からも抜け出せていなかった。

(ううん、そんなことないわ。私はもう、はっきりと覚醒している・・・)
 外からの刺激を受けない代わりに、あれやこれやと思考をめぐらし、おかげで私の頭の中はかなりスッキリと目が覚めていた。
 にもかかわらず、なに?
 この、ぼんやりと、まるで脳みその中に霞がかかったような感じ。

 ひとつ、深呼吸。

 霞がかかっているのは脳みそではなく、自分の目の前の風景なのだと気がついた。なんか、ぼんやりしている。
 まるで異次元に平行して存在するもうひとつの「この世」を、薄幕を通したその先に見ているようだ。
 なんかおかしな具合になったものだな、と私はため息をついた。
 しかし、おかしいのは風景だけではなかった。異形のものの存在すら感じるこの私が、人の気配をまるで感じないのだ。気配だけではない。実際、私の周りには誰もいない。私と前後して通学してくるはずの生徒たちも、朝練をしているはずの運動部員たちも・・

 どうして?

 いつもと、違う。

 何か、妙。

 私は身体の芯から湧き出す得体の知れないものに反応して、身震いをした。恐怖、というのとは、少し違う。武者震い、だろうか。
 いくらわたしが「感じやすい」体質といっても、周囲がいつもどおりならとりたてて何も考えなかっただろう。自分のその「感じやすい」体質のせいだと無理やりにでも自分を納得させたに違いない。けれど・・・
 どうして、誰もいないのだろうか?

 私は校舎に足を踏み入れた。
 そこで私はとんでもないものを発見した。

 鉄筋コンクリート造りの4階建て校舎。私の教室は4階だ。遅刻ぎりぎりに飛び込もうものなら、今にも死にそうになる。4階までの階段を一気に駆け上がらないといけないのだから。息もたえだえになり、顔面蒼白。教室の扉を開ける頃にはまともに喋ることなど出来なくなる。それどころか、席にすらつけない。がくがくと震える膝に両手をついてその場で立ち止まり、後から後から湧き出してくる汗に不快感を感じながら、とにかく息が整うのをひたすら待つ。結局、席につけないまま時間切れとなり、「そんなんじゃ遅刻だな」と教師に宣言されるのだ。
「遅刻・・・って、ひいはあ、・・・そんな。一生懸命・・・、はう! ・・ダッシュしたのに・・・」
「時間にはきちんと着席して、すべての体制が整っている。それでいてはじめて、遅刻ではない。学校ってのは、ただ来さえすればそれでいいってもんじゃない。ともあれ、遅刻は遅刻だ」
 わたしは、この4階の教室をどんなに恨んだろう。
 4階が恨めしいのは登校時だけではない。体育の時や理科実験室への移動の時もそうだ。2階に比べてハンデがありすぎる。2階より3階は5分遅く授業を始め、5分早く終わらないと不公平だ。4階ならさらに5分追加して、10分遅く授業を始め、10分早く終わる・・・・。それじゃ、授業になんないか。
 せめて・・・
 そう、せめてエレベーターがあればなあ。

 私が発見したとんでもないものとは、エレベーターだった。そんなものが学校にあるはずがない。だからこそ「あればいいのに」と愚痴ったりするのだ。
 しかしそれは、私の目の前にあった。

 まさか、そんな!

 一瞬わが目を疑ったが、しかしそれは、目の前にある。ついに学校にエレベーターが設置されたのだ。考えれば不思議ではない。年をとった先生だっているし、バリアフリーなんて言葉もある。
 でも、根がひねくれているのか、私はもう暗い未来について考えていた。

「生徒はエレベーターを使用するのを禁ずる」

 早晩張り紙が提示されることだろう。エレベーター使用に関する規則なんてものは既に出来あがっているかもしれない。先生から言われて重い教材を運ぶときとか、体調が悪いときとか、車椅子の者とか、来客とか、エレベーターの使用が許可されるのはどうせそういう限られた場合に決まっていた。考えればわかる。1学年約120人、合計360人が、たった一台のエレベーターを使うことなど出来るわけがない。
 エレベーターが設置されたからといって、使用については条件付になるのが目に見えている。その条件の中に「いまにも遅刻しそうな者」が含まれるとは到底思えない。
 私はクラスでなんらかの委員をしているわけでもないし、従って先生に教材運びに指名されることもないだろう。朝には弱いけれど、いたって健康だし、エレベーターに乗りたいがためにわざわざ骨折なんぞしたくない。となれば、せっかくのエレベーターに乗ることなく私はこの学校を卒業するのか? 多分、その可能性は高いだろう。

 ならば、一度だけ・・・

 幸い、周りには、誰もいない。見咎められることはない。
 私はエレベーターに、乗った。

 乗ってから、大切なことに気がついた。
 乗るときに誰かに見咎められなくても、降りるときは? そこまで考えが至らなかった。
 エレベーターが4階に着き、おもむろに扉が開く。するとそこには、エレベーターが4階にやってくるのを待っていた先生がいたりなんかする。それがまた校内で一番こうるさい生活指導主任だったりしたら最悪だ。えてしてこういう場合は「最悪」になるものだ。
 エレベーターはゆっくりと上昇する。
 そうこうするうちに私は「誰かに見られて叱られる」などということよりも、もっと大切なことに気がついた。
 このエレベーター、いったいいつ設置したんだ?
 昨日まで、こんなものはなかったし、工事すらしていなかった。

 しかも・・・・
 いったいどこまで上昇するんだ?
 いくら鈍足なエレベーターでも4階分などとっくに上がりきっているはずだ。でも、まだエレベーターは上昇を続けている。
 私はケージの中をぐるりと見回した。
 階数を表示するものもない。そういえば、私は「4」のボタンを押したりなどしていない。エレベーターに乗り込むと同時にドアが閉まりケージが上昇し始めたので、それらのことを疑問に思わなかったのだ。

 背筋がゾクリとした。
 正体不明のエレベーターに恐怖したのではない。何かの気配を感じたのだ。
 そういうものに敏感な私は「何かの気配」ではなく、「はっきり」と感じるのが普通である。この私にして「何か」と感じさせるもの、それはいったい、何だ?

 私はそれ以上考える事も神経を研ぎ澄まして感じることも出来なかった。
 がっくーん。
 大きな衝撃がエレベーターを襲ったからだ。
 しかもそれだけではない。
 世界が急激にぐるんぐるんと回り始めたのだ。
 後で考えると単に私が眩暈に襲われただけかもしれない。だけど、最初の衝撃はホンモノだった。

 そして、私は気を失った。

 意識を取り戻した時、私はエレベーターの床に寝そべっていた。ゲージは傾いてなどいなかった。ゆっくりと身体を起こす。周囲を見回す。
 あの衝撃はなんだったんだろう。エレベーターのどこか一部が破損しているわけでもなく、名残はどこにも発見できなかった。

 エレベーターの扉は開いていた。
 目の前に広がる廊下は、見たことのないものだった。
 明るくもなく、暗くもない。終点が見えずどこまで続いているのかわからないが、すぐそこで行き止まりになっているような気もする。
 得体が知れない。
 私は一歩、エレベーターから廊下へ足を踏み出した。

 

-2- へ

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