想い出ライブラリー

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 廊下は薄暗くひんやりしていた。とはいえそれは、さっきまで私がいた普通の世界と比較しての話である。
 「普通の世界」???
 ということは、ここは「普通ではない」世界なのだろうか?
 何をもってして私は、さっきまでいたのが「普通」でここが「普通でない」と判断したのだろう? この世のものでない気配を感じる私だからこそ、そういうことがわかるのだろうか?
 振り返ると、エレベーターの扉は閉まっていた。ゲージが何階にいるのかを表示するパネルもなければ、呼び出しボタンもない。そこがエレベーターであった痕跡を示すものは何もなくなっていた。ただ、壁があるのみ。
 どうせソンナコトだろうと思っていたので、私は別に驚かない。
 これといった照明はないが、歩行に困難をきたすほどではない。では、光源はどこなのだろう? よくわからない。なんとなくぼんやりと景色が浮いているようにすら思えた。

 視覚的には「かび臭い廊下」、だけど、特別な匂いは感じない。
 私はゆっくりと前進する。勉強部屋の前を通り過ぎるように、足音を立てない。
 ひた、ひた、ひた。
 そんな音がしたわけではない。心の中で感じた擬音語だ。
 誰かが耳をそばだて私の行動を監視しているとも思えなかったが、なぜか足取りは慎重になる。
 ぶうううぅぅん。
 耳の奥で音がした。それは、テレビの画面に映っていた映像が消滅するような音。それもスイッチを切ったのではなく、電源コードがコンセントから抜けてしまったような、誰かの意思とは無関係にやむなく何かが断ち切られたような。
 私はまた振り返った。
 やっぱり・・・・
 エレベーターの扉があったはずのそこにはもう何もなくなっていた。エレベーター跡地の壁すらも消滅し、私の前方に広がるのと同じように、振り返ったそこにも無機質な廊下が続くだけである。

 前にすすむしかない。
 私はそう思った。

 平凡だったと思う。
 外の空気や温度やざわめきは感じる事が出来るけれど、決して外に出ることの出来ない世界。まるで鳥かご。
 そう、私たちは学校という鳥かごで、あらゆるものから保護されて暮らしてきたのだ。平凡に決まっている。
 異界の気配を感じる私でさえそうなのだから、ノーマルな同級生達はさぞ退屈だったに違いない。
 退屈な日々。
 だけど、私たちはその退屈に慣れきっている。退屈を退屈と感じる神経すら麻痺している。
 お題目を唱えるように繰り返される教科書の中のフレーズ。それを暗記しさえすれば世の中全てこともなし。
 とはいえ、そんな私たちにだって、いくつものエポックメーキング的な出来事はある。
 そう、あれは5歳の時の私。
 迷子になってしまったのだ。
 それも、バスの中で。
 誰と一緒に乗っていたんだろう。
 そんな幼いときに、1人でバスに乗るなんて考えられない。誰か大人と一緒だったに違いない。だけど、誰と一緒だったかは思い出せない。ともあれ、私はバスの中で迷子になってしまったのだ。

 廊下にはいくつもの扉が不規則に並んでいた。
 廊下をゆっくりと進みながら、この世界がどこかかび臭いものであると感じたその理由を私は理解した。色彩がモノトーンなのだ。白と黒の間に横たわる無限のグラデーション。そこにはありとあらゆる灰色が存在してた。
 かといって、赤や青などの色彩が完全に欠如しているわけではない。
 うっすらと、申し訳程度に、なんらかの色合いが息づいている。
 私の左側に現れた扉は、ほんのりと赤く、その所々が青かった。
 赤いのは私のほっぺ。青いのは・・・・、迷子になって蒼白となった私の顔色だった。

 廊下にある扉の材質が鉄らしいとわかるのに、それほど時間はかからなかった。扉は左にスライドして開いた。いつの間にか私はフルカラーの世界に跳躍している。薄い黄色とでもいうのだろうか、ベージュに限りなく近いその色合いに塗り込められた鉄の扉には、青と赤と緑のストライプが描かれていた。取っ手のような凹みがあった。
 スライドして開いた扉は戸袋には完全に収まらず、わずかに飛び出していた。そこには黒いゴムが上から下まで扉の縁にそって貼り付けられていた。緩衝材だ。
 バスの扉だった。
 開いた扉の向こうには3段のステップ。幼い5歳の私にはその段差は少しばかり一生懸命にならなければ登る事が出来なかった。
 誰かが私の手をとっている。見上げればそれが誰なのかはっきりするだろう。
「あそこに座りなさい」
 随分年上の女性の声だった。和服を着ている。顔に見覚えはなかった。
「はあーい」
 かわいらしく答えた私は、言われるままに前から4つ目の椅子に座った。ガクンとバスが発車する。すぐ横の通路で地面から垂直に立っていた細い棒がぐらぐらと揺れた。
「おっとと」
 年老いた男の人の声がした。棒はおじいさんが突いていた杖だった。
 私は席を立ち、そのおじいさんに「どうぞ」と言った。
 幼稚園でそのようにするよう習ったからだ。
「おやおや、やさしいお嬢さんだこと・・・」
「えへへ」
 私は少し得意だった。

 おじいさんは席に着くと、ステッキを両足で挟んだ。
 そして、私に手を伸ばした。
「バスは揺れて危ないから、この手を掴んでいなさい」
「はい」
 私は素直に従った。
 ブオーン、ブオブオブオーン。
 バスは小刻みにスピードを上げたり下げたりした。カッチカッチと方向指示器の音がして、その都度窓から差し込む光の加減が変化していった。
 幾本かの前髪が垂れてきたけれど、右手はおじいさんに預けている。左手は・・・、なんだろう、何かを持っている。それが何かは自分でもわからない。
 ともあれ両手がふさがっていた。髪をかきあげることも出来ない。目の前に一本一本の髪がはっきりと見え、光が正面から差し込むと黄金色に光った。
 こんなに太陽が低いだなんて、もう夕暮れが近いのだ。
 5歳の私にそんなことまでわかるはずがない。変だなと思ったが、私は17歳なのだ。
 でも、私の目の前に展開している光景は、明らかに私が5歳のときのものだった。
 小さかった頃の自分の記憶なんてほとんどない。けれど、このときのそれは鮮やかだ。
 なにしろバスの中で迷子になったのだから。
 私を連れてバスに乗った大人の人は、いったいどこにいったのだろう。まず空席をひとつ見つけてそこに私を座らせ、その人はどこか他の空席に座ったのだろうか?

「風子ちゃん、降りるわよ」
 私に声をかけた大人の人は、私がそのあとについてくるものだとばかり思って、振り返りもせずバスを降りていった。
 私は動けなかった。
 おじいさんは半ば居眠りをしているけれど、私の手だけはしっかりと握ってくれていた。席を譲ってくれた私を危ない目に合わしちゃいけないと必死だったのかもしれない。その暖かなこと。力強いこと。さっきバスが揺れたときはふらついていたのに、それがまるでウソのように力強い。
 自分自身を満足に揺れから防御することができなくなった老人でも、守るべきもののためには力を振り絞る事が出来るのだ。と、考えたのは当時の私ではなく、17歳の自分である。
 私の意識は17歳と5歳を行き来しているけれど、ともあれ私のために温かく握り締めてくれている老人のその手を振り払うことは出来なかった。当時も、そして、その幻想に旅している今も。
 居眠りから醒めるたびに私をまず見つめるおじいさんのその優しい目。
 その視線をそらすことも出来なかった。
 おじいさんの顔を見るのにも飽きた私は、窓の外に夕焼けを見つけた。赤くてどこか淋しげな夕焼け。
 バスが向きを変えるたびに私は首を回した。建物に遮られて空が見えなくなるとわたしはしかめっ面をし、畑の向こうに再び夕焼けが現れるとほっとしたような気持になった。
「ところでお譲ちゃん。どこまで行くのかな?」

 そして私は我に返った。
 どうやら5歳の私にとって、そのバスは乗りなれたものらしかった。なぜなら、途中までは景色に見覚えがあったからだ。そして今、回りにあるのがはじめてみる風景だと気がついて愕然とした。

 それからの記憶が定かではない。
 時折泣いていたようでもあり、慰められていたようでもあった。困惑顔で私を覗き込んだ制服のおじさんは多分バスの運転手さんだろう。
 泣いては泣き止んだようである。
 そして再び、私の記憶が蘇る。
 バスは終点で折り返し、わたしは一番前の席に座って外をじっと見つめた。暗くなってきていて不安だったが、なじみのあるバス停を見落とすまいと必死だった。おじいさんは私の横に立ち、手をつないだまま、一緒になって外を見てくれていた。
 やがて、見覚えのある風景。
 バス停。
 そして、私をこのバスに乗せてくれた大人の人の姿。

 こうして振り返ってみると、5歳の私には大冒険だったあのバスの旅も、本来降りるべき停留所から終点までわずか15分ほど。そして、折り返してきてやはり15分。合計30分のホンの小さな迷子だった。
 知らない道を行ったり来たりしたのではなく、わたしはただバスに乗っていただけ。ずっと隣にはおじいさんがいてくれた。
 親切のつもりで席を譲ったのに、とんだ迷惑をかけちゃったな。
 バスから降りた私は、元の廊下にいた。奇妙なエレベーターから吐き出されたあの廊下に。
 バスの扉だったはずのそれは、廊下に不規則に並んでいる寡黙なドアのひとつに戻っていた。

 

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