幼い頃の想い出をはっきりと味わった私は、この奇妙な場所の正体についてなんとなく理解しはじめていた。 ここは私だけの特別な場所。 心の奥に深く閉ざされた小宇宙。 私自身でさえもはや明確に思い出すことの出来なくなってしまった過去が鮮明に記録されているメモリー。 バスの中で迷子になってしまった5歳の頃のことは、もう滅多に思い出さなくなっていたけれど、それでも時々ふと考え込んでしまうことがある。当時1人でなど乗るはずのなかったバス。その中でどうして私は1人っきりになってしまったんだろう、と。 その答えが、用意されていた。 ここには本人すら認識していない、あるいは本人だからこそ気が付かなかった、私と私を取り巻く様々な事物が収められているのだ。 |
見渡す限り続く廊下、無数のドア。 私はこの扉を片っ端から開けていきたい欲求に駆られた。しかし同時に、それらは本当は開いてはいけない禁断の場所のようにも思えた。 人は時とともに多くのことを忘れていくものだ。自らの歴史の全てを記憶していたら、思い出に押しつぶされてしまう。楽しいこともたくさんあったけれど、辛く悲しいことももちろんあった。マイナーな感情が全て私の内部に蘇ってしまったら、おそらく私はもう一歩も進む事が出来なくなるだろう。ううん、私だけじゃない。人ってそういうものだと思う。 風化するから、進化するのだ。 |
扉のいっぱいある廊下、これは一人一人に用意されているのだろうか? |
自分の過去への興味は絶大だが、私はそれどころではない重大なことを思い出した。私は学校へ通う途中だったのだ。 主観的には「学校だと思われる」建物に入った。そして、存在しないはずのエレベーターに乗った。しかし、見た目は学校でも、私がいま居るここは学校ではない。 なぜなら、私がここに居るということは、教室に居ないということである。時間はそれなりに進んでいるはずだから、すなわち私は遅刻という忌むべき行為を行ったのである。 やばい・・・・ 校則や罰則規定のほとんどない学校だけれど、そのかわりに「反省文」というやっかいなものがある。どんな些細なことでも、粗相のひとつひとつに反省文を書かされるのだ。これが実にうっとおしい。 しかも一度は書き直しを命じられるという不文律のようなものまである。いつだったかのPTAの会合で、停学だの退学だのに教育的効果はない、自分を振り返り反省し未来に生かすためには、熟考させる事が肝要である、そのためには反省文が一番だ。そんな議決がなされたらしい。 援助交際が学校にバレて反省文を命じられた同級生は、いたたまれずに学校を辞めてしまったほどである。 |
そんなわけで、私はとにかくこの奇妙な場所からの出口を探すことにした。といっても、これといった特徴のない廊下である。無機質で同質のドアが左右にずらりと並んでいるだけだ。どちらに進んでいいかもわからない。 しかし、とにかく一直線の廊下である。砂漠で迷ったときのように、まっすぐ進んでいたつもりが大きな円を描いて歩いており、元の場所に戻ってしまっていた、などということはありえない。どちらかに進み続ければいい。 (いったい、今何時だろう?) どれくらいの時間、私は5歳の思い出の中にいたのかさっぱり感覚がつかめなかった。 私は腕時計を見た。 (え? なに、これ・・・?) 腕時計は歪んでいた。SFのドラマやアニメの時間移動のシーンに出てくる時計のように、楕円につぶれた時計の枠はさらにぐにゃりとあちこちで不定形のカーブを描き、その中で時を刻むはずの針達もその歪みにあわせて波打っていた。秒針は相変わらず進み続けている。指す位置によって必要な長さの異なるいびつな時計だが、秒針は見事な器用さで伸びたり縮んだりした。 もちろん、現在時間など読み取れなかった。 1から12までの時刻を表す数字が、極端に離れていたりくっついていたり、あるいは縦に並んでいたり。順番こそ入れ替わっていなかったが、針がどこを指しているかなど判断のしようもない。 そもそも文字盤式のアナログ時計の場合、時計の見方を教える小学校の授業のようにいちいちじっくりと覗き込んだりしないだろう。もっと感覚的に、パッと見ただけで、今が何時なのかをつかむはずだ。 歪んだ時計ではそれは不可能だし、それ以前に私は気持が悪くなって顔をそむけていた。 見慣れたものがいつもと違うということにこんなに違和感を覚えるとは思わなかった。違和感は私の神経の微妙な部分を逆なでし、常軌では発露するはずのない気色の悪さで私を覆った。 気分の悪さは顔をそむけるだけでは解消されなかった。それどころか、どんどん私を侵食していった。精神が逆流するかのようだった。 それは耐え難い辛さだったが、ある一点を超えたとき急に楽になった。ああ、気を失って倒れたんだなとなぜか私は自分の状態を認識していた。 |
私はベッドの上に寝かされていた。右の肩がひどく痛む。おそらく倒れたときに右肩から廊下に激突したんだろう。頭を打たなくて良かった。 いや、本当に頭は打っていないのか? 神経を後頭部に集中させて痛みがないことを確認する。 うん、大丈夫だ。 |
「あ、気が付いたのね。よかったわ」 声の主は保健の先生だ。山岳地帯の渓流に流れる水のような澄んだ声は一度聞いたら忘れない。容姿が声を裏切っている、とは口が裂けても言えないけれどね。 「外傷が見当たらなかったからとりあえず横になっててもらったけれど、あと10分しても目を覚まさなかったら救急車を呼ぼうと思っていたのよ」 「あの、私・・・?」 上半身をゆっくりと起こしながら、周囲を見る。保健室などめったにお世話にならないから100%正しい判断は出来ないけれど、おそらくここは現実の学校の中にある現実の保健室だ。想い出の扉が並んだ長い長いあの廊下から、私は失神をすることで戻ってきたらしかった。 「女子生徒が廊下で寝ているって、ここに運び込まれたのよ。睡眠不足? 夜更かしはほどほどにしないとね」 「え? あ? そうで・・・すね」 睡眠不足なんかじゃない! 私は! 身に起きたことを説明しようとしたが、どうせ信じてもらえないだろうと思った私は、とっさに話を合わせた。 「すいません、ご迷惑をおかけしました」 「迷惑だなんて思ってないけどね、心配はしたわ」 「あ、はい」 そうか、私は廊下に眠っていたのか。 「1時間目が終わるまでまだ30分はあるわ。それまで横になっていなさい。それから、帰るか授業に出るか判断すればいいわ」 「はい、そうします」 保険の先生はベッドのカーテンを引いた。 |
一人きりの空間で、私は考えた。 これまでの私はいったいどういう経緯を辿ったのか、について。 遅刻にはうっとおしい反省文というペナルティが課されるが、今日の私はそれほど切羽詰ってはいなかった。決して余裕があったわけではないけれど、焦って教室に駆け込む必要はなかった。エレベーターになど出会わなければ、階段を普通に昇って5分前には教室に入っていただろうと思う。 廊下で倒れてから保健室に運ばれるまで、どれほどの時間が経過しただろうか? 倒れた私はすぐに誰かに発見されたはずである。その誰かが私に声をかけ、反応しないことに驚いて人を呼び、おそらく何人かで保健室に運び込む。5分はかかっていないだろう。 とすれば、おそらく私が保健室に連れ込まれたのと前後して1時間目が始まっている。授業ひとコマが50分、1時間目が終わるまでにあと30分以上あるとすれば、私が意識をなくしていたのは20分にも満たない。 そのわずかな間に私は夢を見ていたのだ。 いや、あれが夢だったかどうかはわからない。夢にしてはリアルだし、私が既に忘れてしまっていることまで明らかになった。けれど、人は過去の経験を忘れるのではなく、記憶の引き出しの奥深くにしまいこんで思い出せないだけなのだという説も聞いた事がある。無意識下の中に記憶はきちんと収められているのだ、と。 |
夢ではなかったとするならば、矛盾が生じる。 なぜなら、私はいわゆる異次元とか異世界などという所に旅立っていたのではないからだ。私は学校の廊下で気を失い、その後、保健室で眠っていたのである。どこにも行っていない。 だとすれば、やはり、夢。 あるいは、幽体離脱のごとき現象でも起きて、肉体はそのままに精神あるいは意識レベルで別の所に旅立っていたのだろうか。 ともあれ私はもとの世界に帰って来た。のほほんと保健室のベッドで横になっていると、廊下で出口を見出せないでいたあの不安などはどこかへ消し飛んでしまっている。それどころか、この経験を誰かに話して聞かせたい欲求にすらかられる。「こんな不思議な体験をしたんだよ」と。 しかし、それは所詮叶わないだろう。 だって、異形のモノの気配を感じる、というだけで友人達は引いてしまうのだ。 それと今回のことは全く別物だけれど、私がこんな話をしようものなら「もう、風子ったら、またそんなー」で片付けられるのがオチだ。 いやいや、私でなくたってそうだろう。夢を見たか、でまかせを言ってるか。そのどちらかとしか判断できないに違いない。それが普通だ。 ああ、こんな時に、相談できる相手でもいればなあ・・・。 いる! 女友達の中から探そうとするからいないのであって、男ならいるじゃないの。 友達というには近すぎ、かといって恋人というわけでもないあいつが! 異形のモノの気配を察知したり、時には見ることもあるという私の話を、とりあえず聞いてくれるあいつ。 |
「どうも気分がすぐれないのでやっぱり帰ります」 1時間目終了を告げる合図とともに、私はベッドから降り、デスクワークをしている保健の先生の背中に向かって言った。 「そう? 1人で大丈夫? 家の人に迎えに来てもらったほうがいいんじゃない?」 「いえ、それほどでも・・・」 「そう。でも、帰るのならもうしばらく安静にしてた方がいいわ。帰宅途中に道路の真ん中で居眠りでもしたら危ないわよ」 「・・・は、はあ・・・・」 いくらなんでもそんなことはしない。それに、安静にしていたからといって再びあの奇妙な世界に連れて行かれないという保証もない。けれども、保健の先生の認識では私は学校の廊下で突然眠り込んでしまった睡眠不足女である。下校途中に路上で眠ってしまうかも、などと思われても仕方がない。なんとなくだるいのも事実だし、お言葉に甘えることにしよう。 「じゃあ、もう1時間寝ています。それで気分が良くなれば授業に・・・」 「あら、授業はもういいじゃない。帰れる元気があるなら授業に出なさい、とでも言うと思ったの? あなたの顔色を見れば気分がすぐれないことぐらいわかるわよ」 「顔色、良くないですか?」 「そうねえ。蒼いような赤いような・・・。ちょっと普通じゃないわ」 「そうですか」 2時間目が始まってしばらくすると、「すぐ戻るけれど」と保健の先生が席を外した。 私はベッドの脇に置かれた私のカバンを発見し、中から携帯電話を取り出した。カバンだけが教室に運ばれていなくて良かったと思った。 携帯からあいつにメールを打つ。 「今、保健室。気分が悪くて寝てるの。しばらくしたら帰る。学校が終わったら家に来て。相談アリ」 |
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