想い出ライブラリー

-5-

 

 ポケットの中が振動した。携帯が何かを着信したらしい。おそらく哲西からのメールだろう。私にはいわゆるメルトモはいないし、クラスメイトの女の子たちと他愛ない会話をやりとりする趣味もない。あの小さなボタンをちまちまと押すのが面倒だからだ。
 無差別広告メールを受け取るのもうっとおしいので、メールアドレスはやたらに長くしてある。数字とアルファベットが混在するのはもちろん、アルファベットは無意味に大文字と小文字を使い分けていた。
 メールアドレスを教えた友人は一度は間違いメールをするというややこしさだ。
 こんな私のところにメールを送ってくるのは哲西しかいない。メールは一度やり取りしてしまえばあとはレスすればいいので、いちいちアドレスを打ち込まなくてもすむ。そして、そういう関係にあるのは哲西だけだった。
 異世界に誘われたとばかり思っていた私は、頭の中にクエスチョンマークを描いた。こんなところにも電波は届くのだ。
 ポケットから携帯電話を出した。
 それは手の中でふっと重量を失い、存在感を失くし、透明になって、やがて消えた。
 私が迷い込んだこの世界には、携帯電話というアイテムは存在しない。だから消えた。私はそんなふうに解釈した。
 別にどうでも良かった。

 私を乗せた小さな汽車はトンネルに入った。真っ白なトンネルだ。濃い霧に包まれたのと同じような状態だった。白い粒が私の周りを浮遊している。
 これが「霧」ではなく「トンネル」だと感じたのは、不思議なことにトンネル状に霧が晴れていたからだ。汽車がこの先進むであろう空間が円筒形状になっている。
 長い長い時間をかけて、列車はトンネルを抜けた。抜けてしまえば、長かった時間もほんの一瞬のように思えた。
 目の前に草原が広がった。遠くに雄大な山が聳えている。その山の裾野が大きく広がり、草原状になっているのだった。時折、白樺の木々が視界を遮ったけれども、すぐにそれは終わった。
 よく目を凝らすと、それは草原ではなく高原野菜の畑だったり、森を上から眺めていることに気が付いたり、文字通りの牧草地帯だったりした。
 あの山は、八ヶ岳?
 なんの確信もないが、なんとなくそう思った。
 とすると、この列車は小海線だろうか。
 いや、そんなはずはない。こんな遊園地のおもちゃみたいな列車が、本物の線路の上を走るわけがない。
 しかし、見覚えのある喫茶店を見つけて、私はこれが日本有数の高原列車、小海線であることを確信した。
 線路に付かず離れず一本の道路が走っている。私はその道をサイクリングしたことがある。あの喫茶店で一休みをして、ソフトクリームを食べたことがある。覚えている。はっきりと覚えている。忘れたくても忘れられない。
 まだ私に恋人がいた時のことだ。

 哲西で出会う前、私には恋人がいた。生涯この人だけ。そう思うほどに燃えた恋愛だった。
 夏休み、親には女友達と出かけると嘘をついて、彼と二人っきりでのはじめての旅行。
 有頂天だった。幸せいっぱいだった。
 彼に全てを捧げる覚悟をして迎えた夜。一緒に眠ったベッド。目覚めたときにすぐ隣に愛する人がいる充足感。ブランケットからはみ出した彼の胸。まだ寝息を立てている彼に、そっと手を伸ばす。
 友達に彼氏が出来たと知って、私にはいつそんな日が来るのだろうと何度も思ったことが懐かしくなった。愛する人と二人寄り添うことがあんなに遠く思えていたのに、すぐ隣に彼がいる。
 彼が目覚める。上半身を起こしていた私は胸があらわになっているのに気が付き、慌ててブランケットをひっぱりあげたっけ。
 昨日、あんなに愛し合ったのに。何もかもさらけ出したのに。今更なにが恥ずかしいのだろう。
 私はブランケットを持ち上げる手を止めた。ちょうど胸の突起がかすかに隠れる位置だった。私のそんな姿が部屋の姿見に映っている。まるでそれは映画のワンシーンを見ているようだった。
 主人公は、私。それとも、彼?
 ゆっくりと瞼を開けた彼は、私を見つめた。そして、にっこりと微笑んだ。

 その恋は突然破れた。彼の浮気。ううん、彼は浮気などしていなかったのかもしれない。それは私の不信感から生まれた妄想のような気がした。
 問い詰める私。
 はっきりとしない彼の態度。
 浮気ではなく、心変わりだったのだろう。
 どうしてこのとき、私は自分の中に生まれた彼への不信感に蓋をして、ただひたすら「愛している」事だけを伝えられなかったんだろう。彼はその後、新しい恋人を作ってはいない。心が揺れたのは事実かもしれないけれど、それは一瞬の気の迷い。決して実ることのない片思いでもあったようだ。だけど、私は彼を信じきることが出来なかった。だって、彼の中に私以外の女の子が住みついたんだもの。
 じっと我慢をして、ただ愛していることだけを伝えていれば、彼の中のその人はあっさりと消えたに違いない。今はそう思う。
 けれど、私は本当のことを知りたくて必死だった。うまく説明できない彼に焦れて、私は妄想を膨らませていった。そんな私がうっとおしくなり、やがて私の気持ちそのものに疑問を持ち始めた彼。
 破局はあっさりと訪れた。
 もう少し私が冷静でいられたら、きっと何事もなく、元通りになっただろう。
 恋を失ったことより、自分の感情や行動が制御できなかったことがショックだった。そのために失わなくていい恋を失ったのが辛かった。生涯この人と感じたあのときの熱い思いを自分自身で裏切ってしまった。

 涙がこみ上げていた。風景がだんだん曇ってきていた。私はそっと瞼を手で拭った。
 ピエロが私の横に座っていた。
「え?」
 囁くような声が出た。
 ちょっと待って。ピエロは機関車を運転していたんじゃなかったっけ?
「僕じゃない。あっち」
 ピエロは草原の中の道を指差した。
「だって、だって」
 運転手であるピエロが運転席を離れている。にもかかわらず、汽車は相変わらずのペースで走っていた。
 そうだ。ここは普通の世界じゃない。何があっても不思議ではないのだ。
「ほらほら。僕を見てても仕方ないでしょ?」
 ピエロの指差す先には、自転車に乗った私がいた。そして、その先を走る彼も。彼は何度も私を振り返った。素敵な笑顔だった。
 そう。そう。
 彼はいつも私にあんな最高の表情を見せてくれていた。きっと辛いことや悲しいこと、色々な悩み事もあっただろう。でも、私には笑顔だった。
 私にはわかる。それは彼が私のために作ったものではないということが。ただ私と一緒にいられるというだけで、彼はあんな笑顔でいられるのだ。
 どうしてそのことに、気が付いてあげられなかったんだろう。
 私が彼にとってどんなに大切な存在だったか、今ならわかる。
「ほら、もうすぐキミを追い越すよ」
 ピエロが言った。

 汽車と自転車は並んだ。私の横顔。前から振り返って私を見る彼と、それに応じる私。
 彼に負けず劣らず、最高の表情で自転車を走らせている。
 そう、そうだった。
 素敵な笑顔を振りまいていたのは彼だけじゃない。私だってそうだった。彼と一緒にいられるというだけで、私はあんな笑顔でいられるのだ。
 汽車は自転車の私を追い越してゆく。汽車の私は自転車の私を振り返る。
 ああ、最高!
 わたしはどれくらい長い間、あんな顔をしていないのだろう。
 汽車が喫茶店の横を通り過ぎる。
 自転車の彼と私はスピードを落とし、喫茶店の前に自転車を止める。
 どんどん離れていく素敵な私と列車の中の私。
 ああ、あの表情の私をもっとよく見ていたい。
 けれども、汽車はどんどん進んでゆく。
 決して早いスピードではない。なにしろ遊園地のこども汽車だ。たかだか速度はしれている。
 でも、もう見ることは出来ない。なぜなら、あのときの私と彼は喫茶店の中に入ってしまったから。

「はい」
 隣の席のピエロが私に手鏡を差し出した。
「これ、私に?」
 ピエロは黙って頷いた。
「やだ、もう」
 あんな素敵な自分の顔を見た後に、今の自分の姿など見れるわけがない。どんなに惨めな表情をしているのだろう。それを思っただけで陰鬱な気持ちになる。
 私は首を横に振った。けれど、ピエロは差し出した手鏡を引っ込めなかった。
 仕方なく私はそれを受け取った。
 手に取るだけで、鏡を覗き込むつもりはなかった。
 ピエロは私の手をつかみ、鏡が顔の前に来るように動かした。
「やだ」
 私は自分の手に力を込めて、それを横へやろうとした。
 その一瞬、私は鏡の中の自分を見てしまった。鏡を押し戻そうと入れた力が、抜けた。
「え? これが、私?」
「そう。悪くないでしょ?」
 悪くいどころじゃない。彼と二人でサイクリングしていたあの私とほとんど変わらない。
「幸せを思い出したんだね。いい表情をしているよ」と、ピエロは言った。
「そ、そ、そうかな…」
 戸惑いつつ顔を上げる。もう隣にピエロはいなくなっていた。

 新しい恋をしなさい。そうすれば幸せはすぐ隣にやってくるよ。
 ピエロは私にそう伝えたかったのだろうか。
 ピエロの本心はわからない。けれども私にはそのように思える。
 ううん、そんなこと、もうとっくにわかっていた。
 わかっていたけれど、認めるのが嫌なだけだったんだ。
 誰だって、恋をすれば失恋もする。
 恋しているときは、この人だけ、この人だから、っていう想いが熱く燃え上がる。燃え上がらない恋なんて嘘だ。
 失恋すれば誰だって胸が痛い。
 失恋が怖くて、新しい恋が出来ないのは、間違ったことなの?
 そう、あなたはそれを間違っているんだって言いたかったのね。私は心の中でピエロに向かって囁いた。
 幸せはすぐ傍にある。そのことに気が付かないだけ。
 いいえ、気が付いているのかもしれない。私は実はとっくに気付いていた。けれど、認めたくなかったんだ。認めて受け入れたら、その先には破局が待っているかもしれないから。
 でも、それを怖がっていたら、目の前の幸せも失ってしまう。
 ふん。わかっているわよ、そんなこと。
 ただ、勇気がなかっただけ。
 ちょっと勇気を出してみるのもいいかもしれないね。
 列車は森の中を進んでいた。

 

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