17.
島崎が紹介してくれたスキー場のバイトをとりあえずの「職場」にすることに決めた真也は、島崎との電話を終えるとすぐにミコに連絡した。 真也からことの成り行きを一通り聞き、しばらくの沈黙の後、ミコは言った。 「そうよね。バイトでもなんでも、とりあえず働かないとだめよね」 ミコがなぜしばらく黙っていたのか真也には手に取るようにわかった。二人の仲が遠距離恋愛になるからである。 しかしミコも真也の財布の中身が窮状を告げていることは勘付いている。働かずにダラダラと平気で過すような人間にはなって欲しくない、とも思う。 だからミコは「遠くに行くのね」とか「なかなか逢えなくなるね」などとは言わなかったし、真也もそのことには触れなかった。 翌日の午後、島崎から電話がかかってきた。3日後の午後4時までに現地に入って欲しいとのことだった。冬のアルバイト第一陣数名がいっせい入るらしく、まずはしばらく使っていなかった建物の大掃除や修繕、倉庫に立てかけられたままになっているレンタルスキーの整備など、開店準備がとりあえずの仕事になるとのことだ。 現地までの交通費を払うとほとんど手持ちのお金が底をついてしまう。真也は一瞬、暗い気持ちになったが、3食付の住み込みアルバイトだから、とりあえず食うには困らない。 小遣いに事欠くかもしれないとも思ったが、そのために定期を崩すのもなんだか馬鹿馬鹿しかった。少しでも節約するために3日後の朝早く出発して、普通列車だけを乗り継いで現地に向かうことにした。 その日、ミコは仕事を終えるとまっすぐ真也の下宿にやってきた。それから2日間、職場には真也の部屋から通い、夜は真也と一緒に過ごした。そして3日目の朝、真也を見送った。ほとんど寝ずにセックスに没頭したが、二人とも眠気は感じていなかった。異様な上昇した興奮の余韻がまだ身体中に染み付いていたのである。 出発の朝、「これで弁当でも買えば?」と、ミコは5000円札一枚を真也に手渡した。涙が出るほどの5000円だった。5000円という金額に重みを感じたのは久しぶりだった。 |
真也は「じゃあ」と後ろを振り返りつつ軽く手を上げ、それ以降は振り返らずにまっすぐ駅へ向かった。しばらくは遠距離恋愛になるが、冬シーズンのみの、期間限定のアルバイトだし、真也はそれを重大なことだとは感じていなかった。 ミコは多少は寂しさを感じたものの、真也にとってはその方がいいと思っていたし、会おうと思えばいつでも会える距離でもあるのだから、やはり深刻には考えていなかった。それどころか、「スキーシーズンになったら会いに行こう。その時は真也にも休みを取ってもらおう」と気楽に考えていた。 休みがとれないというのなら、友達と一緒に出かければいい。昼間は友人とゲレンデですごしたとしても、夜には会える。それに、何年というスパンで物事が動く「転勤による単身赴任」とはわけが違う。所詮はアルバイト、春が来れば解雇されて戻ってくるのだ。 寂しさを紛らわすためにあれこれ考えているうちに、真也の姿は視界から消えた。角を曲がったのである。 ミコは真也の下宿に戻り、荷物をまとめた。当分ここに来ることはないだろう。始発列車に合わせて起きた真也を見送ったのだから、仕事に出かけるまでにはまだ十分な時間があった。ミコは掃除をして、戸締りを確認してから、愛しい男の匂いがタップリと染み付いた狭い部屋の空気を肺の中いっぱいに吸い込み、その場を後にした。 入り口を施錠し、ドアノブに手をかけて確かに鍵がかかっているのを確認するまでの間、息を止めていた。 アソコがジュンとなった。 真也の感触が身体中にこびりついていた。一晩中熱い塊が自分の中で蠢めき、よがりまくっていた自分の痴態が脳裏によみがえる。やっぱり少し寂しいなと思った。 |
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川上祥子は鏡の前でため息をついた。 (あたしって、ちっとも、美しく、ない……) いわゆる「ブス」ではないと思う。小・中学校を通じて「やーい、ブース」などと囃したてられた経験はない。せいぜい男の子グループと口喧嘩をしたときに、女子グループ全員に対して、あらゆる種類の悪口を言われた中に「ブス」という単語が混じっていた程度である。 しかし、個人的に「ブス」と言われなかったということは、「美人」でもない、ということでもある。ブスでないのはわかっているが、美人でもない。 そもそも、世の中に絶世の美女なるものはそうそう現れたりしない。そんなことはわかっていた。しかし、学校や学年という単位でミスコンをすれば、優勝間違いなしの秀でた存在、程度の美人なら自分の周囲にもいる。 もって生まれた顔の造作だから、自分がそうなれるとは思っていなかったし、そうなりたいとも思わなかった。 けれども、そういう飛びぬけた美人のお話ではなく、ふとした瞬間に「あ、この子、かわいい」「あの子、綺麗」と感じることがある。 目がくりくりしていて愛らしかったり、鼻筋が細くてすっきりしていたり、唇が色っぽかったり、ほっぺがほんのりピンク色だったり、表情がおちゃめだったり、顎のラインがカッコ良かったり……。その要素は様々だが、何かひとつ、そういうものを持っている子は多い。 もちろん、何一つ持っていない子だっている。 それどころか、明らかに形が崩れている子もいる。 けれど自分はそういう子と比べて「まだマシだよね」とは思えなかった。 そんなことを考えても慰めにはならなかった。要は他者との比較ではない。自分が自分の素顔を気に入るか気に入らないか、である。 そういえば、「祥子は顔が小さくていいね」と言われたことが何度かある。 褒められた気がしなかった。他に褒められるべき場所がないのだと逆に落ち込んだ。 「きめの細かい肌ね。ツルツルしてて素敵」と見つめられたこともある。 だが、そんなものは、肌と肌を接近させないとわからないと祥子は思っている。真っ黒に日焼けした高校陸上部員には関係のないことでもあった。 |
「またまたそんなこと考えてるの? 祥子はきわめて普通だよ、普通」 小学校からの友人である高安美由紀には何でも打ち明けることが出来た。 とりたてて話題もないときに、祥子はなんどか自分の容姿のことを美由紀に話したことがある。そのたびに美由紀は「普通だよ」と言った。「そんなことを気にして、ウジウジ気に病んでいるときの表情が一番ブスだと思うな」 女性の顔かたちを表現するのに、「普通」だとか「標準」だとか言う単語を使うのは、はたして適切だろうか。しかし、祥子の場合、そうとしかいいようがない。無邪気に笑えばかわいらしいし、しかめっ面をすれば見苦しい。つまり、普通である。 ともあれ、毎朝身繕いのために鏡の前に座るのは、苦痛だった。 嫌でも自分の顔と対面する。 容姿について考えざるを得なくなるのだった。 “ウジウジ気に病んでいるときの表情が一番ブス” つまり、毎朝鏡を見ている自分の顔が一番醜いということか。しかし、自分の顔を確認できるのは鏡を見ているときである。 あたしは一番嫌いな自分しか知らないのだろうか。 ならば、まだ救われる……。 |
「祥子、今日は大切な面接だ。もうクラブは引退したんだろう。学校が終わったらさっさと帰ってきてくれ」 祥子の祖父が言った。 祥子は高校3年生。夏休みが終わればもうクラブは引退である。だが、祥子は後輩たちに混じって走っていた。受験勉強の必要がないからだ。あまり有名ではない大学ではあったが、祥子は既にスポーツ特待生として進学を決めていた。 冬になれば家業の手伝いに忙殺されることになるから、もしアルバイトをしたとしてもその頃には辞めなくてはいけない。家業はスキー民宿とレンタルスキーとお土産やなどで、小さいながらもスキースクールも経営している。相当ハードだ。冬の間だけだが、家業手伝いでもらえる収入はコンビニなどのアルバイト代をはるかに凌駕してもいた。だから中途半端にアルバイトをする気にもなれなかった。 だから祥子は、引退後も後輩たちと一緒に走っていた。 後輩たちに煙たがられる先輩もいて、「○○先輩が引退してほっとした」なんて声も聞こえるけれど、どうやら自分はそれなりに慕われているらしい。先輩に対する礼儀や気遣いもあるのだろうけれど、そういう部分を割り引いても、後輩たちには好かれているなと思う。 顧問の先生にも「指導、頼むな」と言われていた。 記録は残せなかったけれどもインターハイにも出場しているし、有名な大学ではないにしろスポーツ特待生での進学も決まっている。そういう祥子は実は「慕われている」というより後輩たちにとっては「憧れの先輩」なのだが、祥子はそのことに気がついていない。 自分の胸に飛び込んできてくれる後輩たちがかわいくてしかたない、それだけだった。 「わかってるわよ。だけど、面接ならおじいちゃんだけでいいでしょう?」 「そういうわけにいくか。これから寝食を共にする連中だ。祥子にもしっかりと見てもらわないとな」 なーにが祥子にも、よ。 ついこの前までは完全に子ども扱いしてたくせに。 祖父の発言はともかく、川上家にとって、祥子は貴重な存在ではある。 なにしろ、 経営者側の仕事も、アルバイトの連中と同じ仕事も、なんでもかんでもこなすことができるのだから。 経営者である祖父には経営者としての仕事があるから、細々とした事は何もわかっていない。雑巾の位置も、サブレの在庫管理も、レンタルスキーのメンテナンスも、祥子の方が良く知っていた。実際に現場を取り仕切っているのは二人の兄と地元採用の唯一の社員、そして祥子の母親で、高校生の祥子にはこれといった役所はない。だから、アルバイトの連中とも一緒になって、何でもこなした。マヨネーズの買出しもスキースクールのコーチも宿のチェックインも……。オールマイティにこなせるのは祥子だけなのだ。 「だけどさ、おじいちゃん。わざわざこんなとこまでやってきてくれた人に『不採用だ』なんて今更言えるわけ無いじゃない。実際、そんな前例もほとんどないんでしょう?」 「若いくせに前例がどうのこうの言うな。わしは毎年、常に全身全霊を傾けて面接している。その結果100%採用になっているにすぎない。だめなヤツが混じっていたら不採用にする」 やれやれ。 いずれにしても、一冬の仕事と割り切ってやってくるアルバイトなんて、もともと多くを期待することなんて、できないんだけどなと、祥子はため息をついた。 |
アルバイトの連中は午後4時集合。兄の運転するマイクロバスでお土産物屋、レンタルスキーの貸し出し所、そしてスキースクールの受付兼事務所などを回った後、民宿で午後5時から面接というスケジュールだった。 放課後、少しだけ走る時間がとれそうだ。 祥子はその日の授業を終えると部室にダッシュして、猛然とトレーニングウエアに着替えた。 山の秋は冷える。後輩たちは既に長袖長ズボンのジャージを着用していたが、祥子は相変わらずタンクトップにショートパンツだ。走れば身体はすぐに温まるし、熱が衣服の中にこもると不愉快だ。他の部員に比べて明らかにカロリー消費量が多いらしい。 「先輩、今日は早いですね」 「ごめん、今日だけは一緒に走れない。あまり時間がないから、飛ばしたいの。距離は縮めたくないから」 「飛ばすんですか?」 目を輝かせたのは、祥子を一番慕っている2年生、高石留美だ。 「ご一緒していいですか?」 「いいけど、ついて来れなかったら置いてくわよ。待たないからね」 「望むところです。先輩の本気を一度見たかったんです」 あたしの、本気か。 引退してからは自分が伸びるためのトレーニングはしていなかった。身体がなまらないようにする、という目的も兼ねながら、後輩の指導に主眼を置いていた。 「よし、本気だ!」 部長に断りを入れた祥子は、留美一人を伴って校門から飛び出した。 その姿を何人もの後輩たちが「かっこいいなあ」と憧憬の眼差しで追った。 美しいフォルム、真剣な表情、後ろへ飛び散る汗、けれども「記録へ向かってまっしぐら」だけではない、そこに感じられるのは、走ることの喜び。 それら全ては後輩たちの憧れだった。 親友の美由紀は「あたしは美しくない」と悩む祥子に、何度走っている姿をビデオに撮って、「あなたはこんなに美しい」と言ってあげようかと思ったことだろう。 しかし、思うたびに諦めていた。 記録用のビデオなど祥子は何度も見ているはずだし、そのときの祥子はきっと「走る」ことしか眼中になく、自分が美しいかブスかなどということに意識を向けることなどありえないと美由紀は思ったからだ。 祥子の美しさだけを封じ込めたビデオを作製してやろうかと思ったこともある。 そこそこ撮影技術は持っていると自負していた。 けれども美由紀は、「ビデオを撮りながら祥子と併走することなどとてもできっこない」と諦めたものだ。もちろん、当の祥子は、そんなことは知らない。 |
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真也は午後ののほほんとした日差しの中をバスに揺られていた。 駅に降り立った時は、どこにでもある平凡な地方都市という印象しか持たなかったが、市街地を抜けてバスが高度を上げていくにつれ、「山の中に行くんだな」と実感した。秋枯れの風景の中をバスは進んでゆく。 季節に影響されない針葉樹もどこか精彩を欠き、紅葉を終えた落葉樹はこれからの長く辛い冬を乗り切る悲壮な覚悟に身を固めているようだった。わずかに残った葉が紅葉の名残を残していたが、それらが地面に落ちるのも時間の問題だろう。 この時期、バスの乗客は少ない。地元の人は間違いなく車を持っているし、観光客は来ない。バスを使うのはせいぜい通学生か病院通いのお年寄りだけである。 夏はラグビーの合宿で、冬はスキーでと大賑わいを見せるS高原へ向かっているとは、ちょっと信じられなかった。 傾きを増した陽光のせいでますます寂しげな風景ではあるが、空気は明らかに濃厚だった。駅を降りたときにも実はその気配はあった。だが、それが何なのかはわからなかった。こうして山の中を進むバスに揺られて、その正体を突き止めたような気がした。都会では失われてしまった空気そのものの持つ質感や匂いである。 やがてバスは開けた土地の中に放り出された。 山の中をうねうねと走っていた道は、S高原に辿り着いたのである。 広くてなだらかな傾斜の中に小さなペンションや大きなホテルが散在している。シーズンオフのスキー場はどことなく切なげだ。雪のないゲレンデは禿山状態で、ちょろちょろと草が這っている。ロープも椅子もはずされたリフトの設備は支柱の行進が上部へと向かっているにすぎない。 島崎から聞かされたバス停の名前を思い出す。 車内アナウンスからはまだその名は聞こえてこない。 冬を間近に控えた枯れた高原の風景には不釣合いな、颯爽とした少女がバスとすれ違った。明るい原色のタンクトップにショートパンツ。祥子はバスの横をまるで「ビュン!」と音を立てるがごとく駆け去っていった。 少し遅れて、やはり走ってくるトレーニングウエアの少女がいる。 真也にはその少女が哀れなほど遅く見えた。だが、バスのすぐ横まで彼女が来たとき、それでも相当なスピードで走っていることがわかった。 (陸上の選手、かな?) 真也は振り返った。 最初にすれ違った早いほうの少女が、人並み外れたスピードであったことに改めて思い当たったのである。 |