ロシアンルーレット

敗 者 復 活 戦

 

18.

 車内アナウンスで次の停留所がFであると知らされた真也は、降車合図のボタンを押した。明るい電子音が短く鳴り、続けて女性の声で「次、停まります」とテープの音声が流れる。
 いったん立ち上がった真也は、荷物が多いことに思い当たって、もう一度座った。

 都会の混雑したバスじゃない。ざっと見回して乗客は自分のほかに5人いるだけ。しかも道路はガラガラにすいている。バスがきちんと停車してから降りる動作をしても誰にも迷惑はかかるまい。
 なにしろ一冬暮らすための荷物を持っている。80リットルのダッフルバックに25リットルのデイパック、そして身の回りのこまごまとしたものを詰め込んだ10リットルのヒップバック。不規則な減速をするバス車内でこれだけの荷物を抱え込めば、ふらつくのはわかっていた。

 バスのフロントガラス越しにバス停のポールが見えた。
 バス停の傍にコンビニエンスストアーとスーパーマーケットの中間ぐらいの平屋の店があり、道路を挟んだ向かい側には、休業中のようであるがどうやらお土産屋らしい建物があかった。
 そのほかに、小さな喫茶店と、民家というには大きく民宿にしては小さい2階建ての木造住宅がある限りだった。
 バス停があるからこれだけの建物が密集してきたのか、それともこういう場所だからバス停が出来たのか、真也にはわからない。

 他にもホテルやらペンション、あるいは民家が、だだっ広い高原を貫く道路にそってに点在している。建物のない場所は雪に覆われているが、おそらく畑だろう。道路から一歩離れれば、斜面が上空へと吸い込まれていた。横幅の広いゲレンデがのんびりと広がっている。
 真也はバスがきっちりと停車してから席を立ち、デイパックを背負いダッフルバックの幅の広いストラップを肩から下げると、バスを降りた。

 外気に触れて真也は肩をすくめた。
 思いもよらず冷たかったのだ。ひゅううんと風の流れる音が真也を縮こませる。
 アスファルトの地面は凍結こそしていなかったが、地面が冷気を上へ放出しているかのような錯覚すら憶えた。

 スーパーマーケットの先に左に折れる細い道があり、そこを200メートルほど進んだ先に民宿はあると教えられていた。
 バス停横の路上に立った真也は、ひとつ深呼吸をした。これまでさんざん「不採用」を言い渡されてきた真也である。見知らぬ職場へ足を踏み入れるのには慣れている。しかし、やはり緊張はする。今回はいつもの「面接試験」とは異なり、既に採用は決まっている。それでも肩の筋肉がこわばった。

 バスは次の目的地へ向かって発車して行った。降りたのは真也だけ。たった一人、取り残された気分だ。
 一回の深呼吸では緊張は解けなかったが、真也も歩き始めた。

 その瞬間である。
 背中に激しい衝撃を受けて、真也はつんのめった。

 一歩、二歩とよろめくように足を前に出したが、体勢を立て直すことが出来ず、そのまま前のめりに路面に膝を付いてしまった。
 その横を、一陣の塊が追い越していった。
 シェパードだ。

 真也にぶつかってスピードを落としてしまったその大型犬は、やはり自分も頭に衝撃を受けていたのだろう。いまの障害物が何だったのか確認するみたいに2度3度と振り返り、しかし元の速度に戻すために四肢を猛然と動かしていた。
 シェパードをぽかんと見送る真也。

 全速力で走っていたのはシェパードだけではなかった。
「ま、待ってくれえ〜」
 振り返ると今にも腰を折りそうになりながら老婆が走ってくる。だがその力がまもなく尽きようとしているのは誰の目にも明らかだ。老婆は真也のいる場所まで来ると、ゼエハアと息を切らしながらとうとう座り込んでしまった。

「わ、悪いな兄ちゃん」と、老婆は言った。
 兄ちゃんとは自分のことらしい。
「大丈夫ですか?」
「わしはええ、わしはええさけ、キャンディを捕まえてくれ」
「キャンディ?」
「あの犬じゃ」

 シェパードは遥か前方を走っていた。道路はゆるいカーブしており、せり上がった丘陵の陰に隠れようとしている所だ。真也との距離は300メートルほどだろうか。
 あのスピード、あの距離。とうてい追いつけるとは思えなかったが、「早うせい。なにしとるんじゃ。逃げられるじゃろ」と老婆に急き立てられる。どういうわけかシェパードは走るのを止めて振り返り、こちらの様子を伺っている。
 あのまま待っていてくれれば捕まえられるだろう。

 そういえばキャンディはリードを引きずって走っていた。散歩の途中で逃げ出したものと推察できた。真也は「荷物見ててよ」と老婆に言い残してダッシュした。

 真也はキャンディとの距離を半分につめた。自分に向かってやって来ているのだとキャンディは理解したのだろうか。嬉しそうに「わふっ」と声を上げた。腰を降ろしてお座りの姿勢になる。尻尾まで振っている。
 うんうん、いい子だ。そのまま待っていろよ。

 真也は走るスピードを緩めた。キャンディが自分を待っていると確信し、これ以上は逃げないと安心したのではない。息が切れてきたのである。
 幸いなことに、キャンディはそれ以上逃げようとはしなかった。大きな舌をはみ出させた口から「わふっ、わふっ」と声を漏らしながら、立ち上がって真也の方に向かってくる。ためしに真也は「キャンディ、来い」と叫んでみた。大きなシェパードは尻尾を激しく振りながら、真也に向かってダッシュした。

 真也は立ち止まって両手を広げ、「さあ、おいで」のポーズをした。
 突進してくるキャンディ。真也はリードの状態を確認する。真也から見てそれは大型犬の左側に垂れており、地面の上をしゃかしゃかと滑っている。
 真也は頭の中でキャンディ捕獲の場面をイメージした。
 あれだけの大きな犬だ。突進されたらひとたまりもない。少し身体を斜に構えてパワーを減殺しつつ、紐を掴む。あるいは、足で踏んづけてもいい。よし、それでいこう。

 だが、キャンディは真也との衝突を直前で自ら回避した。
 身を翻すとはまさにこのことだ。

 真也の左をするりとすり抜けて通り過ぎた。リードはさらにキャンディの左側にある。掴むことも踏んづけることもできなかった。
「おい、こら、待て」
 不思議なことにキャンディは言われたとおりにした。ひょいと首を後方に曲げて真也を見ている。目が愛らしい。
「勝手に行ったら駄目だろ」
 真也はキャンディに向かって、一歩、二歩と足を進める。その途端、またキャンディは走り出した。追いつけない。

 キャンディに悪気などなく、それが犬の習性なのだということを真也は後で知った。飼い主である老婆と真也が会話を交わしているのを、キャンディは目撃している。だからキャンディは、真也を飼い主と同格か、あるいは飼い主と仲の良い友達と感じたのだ。つまり、自分にとっては味方。
 その真也が自分の名を呼んだり、追いかけたりしてくる。
(遊んでくれてるんだ)
 そう判断したキャンディは、真也が追いつけなくなると待ち、追いついてくるとまた走り出す。

 シェパードは賢い犬だから、「命令」として凛と「待て」を言い渡せばきちんと待つ。しかし、真也の発した声は「命令」ではなく、犬にとっては「じゃれて遊ぶための声かけ」だった。
 結果として、犬は捕まらない。
 なにしろ相手は運動量十分、日々の鍛錬を欠かさない大型犬である。都会で動力に頼りきった生活をしていた真也においかけっこで捕まるはずはないのである。

 いつのまにか真也はもとの位置に戻ってきていた。スーパーマーケットがあり、バス停が立っていて、老婆が座り込んでいる。そして真也は、「犬を捕まえてくれ」と懇願したときの老婆と同じように憔悴しきっていた。立ったまま膝の上に手を置き、やや前傾姿勢で視線はまっすぐ地面。肩が大きく揺れる。深呼吸する余力もない。このまま息が整うのを待つしかなさそうだった。

「情けないのう、最近の若い者は」
 老婆はすっかり回復して、好きなことを言ってくれる。

 さすがにシェパードは頭がいい。これまでの追いかけっこと違い、遊び相手の真也の状態が普通ではないと悟ったらしく、5メートルと間を空けずに停止している。真也がいつまでたっても追いかけようとはしないので、また腰を下ろしてしまった。しばらくはそのままで振り返って真也を見ていたが、やがて立ち上がって向きを変えて座りなおした。今度はまっすぐ真也に正対した。つぶらな瞳は愛らしいだけでなく、まるで「どうしたの? 大丈夫?」と語りかけてさえいるようだ。

(ちくしょー。かわいいなあ)
 さすがに今度は逃げないだろう。いや、走って追いかけるから走って逃げるのだ。
 ゆっくり近づけばいいのである。
 ようやく息が整いつつあった真也は、そっと足を踏み出した。

「キャーンディ」などと、自分でもびっくりするほど甘ったるい声をかけている。
 お婆さんに頼まれて捕縛するべき対象ではもはやなくなっていた。キャンディの目と仕草に心を奪われた真也は、頭のひとつでも撫でてやりたい、という気分になっていた。
 キャンディは顔を上げ、口を開き、「おおーん」と小さく啼いた。甘えている声だ。

 あと一歩、あと一歩を踏み出せば、リードに手が届く。真也は自分の目がギラリと光ったことに気付かない。なぜならそれは無意識のことだったからだ。「あと少しでキャンディに間違いなく手が届く」という思いが、目の光をそれまで「かわいいな、おまえ。頭くらい撫でてやるよ」から「捕まえてやる」に変化したのだ。
 キャンディはその変化を見逃さなかった。

「まだ遊んでもらえる」と感じたキャンディは素早く立ち上がると方向転換し、再びダッシュをはじめた。
 え?
 お、おい、こら、どこに行くんだよ。

 もう真也は声にもならなかった。息は整いつつあったけれど、体力が回復したわけではない。条件反射でダッシュしてしまったけれど、後がまったく続かなかった。キャンディの姿はどんどん遠ざかってゆく。
 まあいいや、どうせまたどこかで立ち止まっているだろう。

 キャンディの前に立ちふさがり、進路を止めたのは一人の少女だった。真也がバスの中から見た原色の彼女、川上祥子である。タンクトップとショートパンツから健康的に伸びた四肢からは湯気が立ち上っていた。真也はそれが一瞬オーラかと思ったが、そうではなかった。彼女の運動量が尋常でないことを知った。小麦色の健康的な肌、風になびくさらさらストレートのセミロングヘア、肌で光る汗。まるで季節感のない彼女のその姿は、これまでに真也が出会った女の子たちとは異質だった。

「キャンディー!」
 真也の時は横をすり抜けたくせに、祥子には飛びついていった。

 前足を上げると女子高生の身長などものともしないシェパードは遠慮なしに彼女の肩に両前足をひっかけた。スポーツで鍛えられた祥子のボディはそれをしっかりと受け止める。真也のように跳ね飛ばされたりはしなかった。
 祥子は何度かキャンディーのなすがままに顔を舐めさせていたが、すぐに足元のリードを拾い上げた。
「もう、また勝手に走り回っていたのね」

「お、おまえなあ」
 真也はキャンディーに向かって叫んだ。
「舐めてるのか、こら」
 ついぞ真也の手には握らせることのなかったリードを、キャンディはいとも簡単に祥子に与えたのだった。
(俺と彼女のどこか違うって言うんだ)
 真也は心の中で呟いた。

「いっけない。今日は早く帰らないといけなかったんだ」
 祥子は腕時計を見た。
 4時35分。
 今日はこの冬のアルバイト第一陣が到着する日である。

 予定を思い出す。アルバイトの人たちは4時に集合。まず兄の運転するマイクロバスで我が家が経営する施設を一巡する。それはレンタルスキー屋だのお土産もの屋だのスキースクールだのである。ゲレンデ内にも小さな喫茶店を持っている。こちらは懇意にしている近所の主婦2名に任せているからアルバイトを投入することは滅多にないが、そこも一応まわるのだろう。
 いずれも同じS高原内だが施設の目的によって立っている場所が違うから、こうしてオリエンテーション的に巡回しないとなかなか全てをアルバイトに把握させる機会がもてない。
 そして、5時からがいよいよ面接である。

 面接といっても、採否を決定するわけではない。都会からはるばる呼び寄せたアルバイトである。既に書類と電話で採用の決まっている人たちばかりだ。だが、老獪な祖父のすることである。いざ、顔をあわせてみて「とんでもない。とても雇えない」とその場で判断が出来るように、「採用」だの「内定」だのといった言葉を使った書類は一切送っていない。ただ、この日のこの時間に集まるようにと指示を出しているだけである。

 祥子は今年から自分も面接に参加するようにと今朝言われた。
 残り25分。自宅兼民宿は、スーパーマーケットの先にある小路を左に折れ、200メートルほどのところである。このまままっすぐ帰宅すれば十分間に合う。だが、鞄も制服も学校に置いたままだ。キャンディとじゃれあっていたわずかな時間が致命傷になりかねない。ここから学校まで往復して、ぎりぎりの時間である。

「ごめんなさい、急いでいるの」
 老婆に頭を下げ、真也に会釈をした祥子は、猛然と走り出した。

 学校に戻る。着替える時間はない。鞄と制服を手に、すぐに引き返す。それだけならなんとか間に合うだろう。しかし、トレーニングウエアのままで面接をするわけにはいかない。汗を撒き散らしながら息を切らして「経営者の孫です」と挨拶するわけにもこれまた当然いかなかった。
 帰宅後、汗をふき、髪を整え、着替える。その間に息は整うだろう。
 それより問題は「あたしはいったい何を着ればいいの?」ということである。

 これまで親戚筋の冠婚葬祭にはおしなべて学校の制服で出席していた。しかし、我が家にアルバイトに来る人たちと会うのに、学校の制服はおかしいだろう。ならばスーツだろうか。スーツならないことはないが、友達と東京へ遊びに行くために作ったものである。就職だの面接だのというのには少々派手だ。将来OLになったとして、その通勤に使えないことはないが、固い場面ではやはりちょっとというシロモノである。第一、リゾート地のアルバイトにやってくる学生やフリーター達がそんな就職試験のような格好をしているはずがない。にもかかわらず自分だけスーツは浮くだろう。

 祖父はどんな格好をするだろう? おそらくいつもと同じスラックスにポロシャツ、そしてせいぜいジャケットを羽織る程度だろう。
 よし、ならば自分も普段着でいいや。
 Gパンにトレーナー。それでいいよね。
 それならすぐに着替えられる。

 陸上部の部室に猛然と駆け込んだ祥子は、ロッカーから制服を取り出して手近にあった紙袋を拝借してその中に放り込み、手に鞄を持った。
 只今の時間、4時46分。ここまでの所要時間11分。このペースだと家に着くのが57分。ぎりぎりすぎる。もっとスピードを上げなくちゃ。

 やれる?
 自問自答する。
 大丈夫。日々のトレーニングは欠かしていない。10分程度ならあと2割増のスピードで走っても、そのまま走りきることは可能だ。

 さらにスピードを上げながら、祥子は思った。
 あーあ、あたしって本当に生真面目よね。気の進まなかった面接への同席なのに、時間厳守のために走っているし、おまけに服装にまで悩んだりして。
 これだからおじいちゃんにいいように使われるのね。
 しかし祥子はそんな自分が決して嫌いではなかった。

 腕時計を見て慌てて走り去る祥子を見送って、真也もようやく「自分がどうしてここにいるのか」について思い当たった。
 自分はここへアルバイトをするためにはるばるやってきたのであり、犬と追いかけっこをするためではない。

 腕時計を見る。4時36分。
「やばい!」
 完全に遅刻である。

 これから冬が終わるまで数ヶ月のアルバイトである。30分程度の遅刻が致命傷になるとも思えないが、まさかということもある。交通費までかけてわざわざ信州の山間までやってきて、職からあぶれてしまったら泣くに泣けない。もはや帰りの電車賃もなければ今宵の宿代すらないのである。

 ダッシュだ!
 さっきから何度ダッシュしただろう。

 全力疾走するパワアは残ってはいなかったが、とにかく走る。息も絶え絶えに辿り着けば誠意は相手に伝わるはず……、そう、信じて。

 

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