ロシアンルーレット

敗 者 復 活 戦

 

19.

 民宿の名は川上荘。近くに川など見当たらないが、山の中だから平地に比べたら川上に違いない。そんなことを思っていた真也だったが、宿屋の入り口とは別に設けられた小さな玄関に「川上」という表札を見つけて、「ご主人の名前なんだ」と理解した。
 民宿は木造3階建て。歴史がありそうな重厚な作りだ。
 真也は恐る恐る宿の暖簾をくぐった。最初はやや暗い印象を受けたが、目が慣れれば行動に不自由はない。やがて、壁も床も柱も梁も黒光りするほどに磨き抜かれていることに気がついた。

 建物の古さはそのまま威厳となって眉を圧する。だが、同時に心の底から安らげる空気も感じることが出来た。どっしりとした質実剛健な木造作りの建物は、夏の暑い日差しにもなんら影響を受けず、また冬は厳しい寒気を遮って、旅人を心地よく迎えてくれそうだ。それは長い長い期間を経て、熟成されたものに思えた。お客様をお迎えする張りつめた空気と、客がくつろいで過ごした歴史が、染みついている。

 ただしそれは、真也が「旅人」であれば、の話である。
 スタッフの一員として建物の中に入る真也にとっては、まさに緊張だった。なにしろ、初日から遅刻をしてしまったのだから。

 緊張しているとはいえ、息絶え絶えになって走りこんで来た真也にとって、この宿屋の内部に立ち込める空気を肺いっぱいに吸い込もことは気持ちのいいことだった。疲れがスーッと引いていくような気すらした。

 内部はシーンとしている。
 誰かいるのなら、自分の気配を察知してくれてもよさそうなものなのだが、何か大きなものに飲み込まれて自分の気配など消え去ってしまいそうだ。
 玄関を入ったところで、真也は叫んだ。靴を脱いで上がりこむには気が引けた。思わず「頼もう〜」と言いたくなってしまいそうな雰囲気だが、まさかそんなことは言えない。

「すいませーん、小野と申しますが……」
 すいませーんはそれなりの音量が口を突いて出たが、知らず「小野と申しますが」は声が小さくなっている。
 俺は何にビビッてるんだよ、と真也は自分で自分に叱咤した。

 相変わらず建物の中はシンとしている。耳を澄ませばキーボードを叩く音がかすかに届いてきたはずだが、身も心も硬直してしまっている真也には聞こえない。
 何人のアルバイトを採用したのか知る由もないが、集合時間はとっくに過ぎているのだから、何人か自分と同じような年齢風体の人間がいてもいいのに、と真也は思った。
 集合を済ませたアルバイトの面々は、スキー場内に散らばったいくつかのショップや施設を見学に出かけているのだが、遅刻をした真也がそれを知るはずもなかった。

「すいませーん」
 真也はもう一度叫んだ。
 今度は「叫ぶ」という表現にふさわしい音量だった。
 玄関の左手には乾燥室に通じる扉と下駄箱があった。靴を脱いで上がれば、すごそこに申し訳程度のソファーセットがある。右手にはドアと小さな窓があった。パチンコ屋の景品交換所のような窓だ。奥が事務所になっているらしく、相手が誰か確かめるときにはこの小窓が便利だろう。
 そして、右手の扉からロビーに出てすぐのところに古ぼけた木造のカウンターがある。客はここでチェックインをするのだろう。
 中央には大きなストーブがあるが、燃料は何だろう。おそらく灯油だろうが、「薪をくべているのだ」と説明されれば納得してしまいそうだ。

 しばらくして小窓が開き、中から「誰じゃ」と声がした。低くしわがれた声だ。
「すいません、小野と申します。今日からアルバイトで……」
 最後まで真也がしゃべり終えるのを待たず、低くしわがれた声は「ふん」と言って、小窓が閉まった。
 すぐに横手の扉が開いて、中から一人の男が出てきた。恰幅はいいが背は低い。中年と老人の中間くらいの年齢に思えた。真也がその男から受けた印象は「人情は厚いが頑固」だった。

「ま、入れ」
「失礼します」
 尋常ならざる雰囲気を真也は察知した。約束の時間に遅れたからだろうと真也は思った。それ以外に原因は考えられない。
 真也は男の背中を追って、事務室の中に入った。

 壁には日ごとに縦線で細かく区切られたスケジュールなどを書くための大きなホワイトボードと、もらいものらしい広告の入ったカレンダー、真新しい掛け時計があった。デスクがいくつかあり、そのうちのひとつにはパソコンやプリンターがセットされていて、建物の外見とはミスマッチである。あとのデスクには書類が積んであったり、ブックエンドに挟まれてノート類が立ててあったり、電話がおいてあったりした。ミーティングにでも使うのか、会議室用のテーブルがふたつ並んでいる。そして、部屋の一番奥に応接セットがあった。真也はそこに座るように促された。

「失礼します」
 真也は指示されたように応接セットのソファーのひとつに座った。
「小野さんか……」
「はい」
「わしがここの主の川上じゃ」
「よろしくお願いします」

 何度もの面接試験を経験している真也は、基本的なノウハウは既に心得ている。なるべく明瞭な声で言ったつもりだった。頭もきちんと下げた。
 だが男の反応はかんばしくなかった。真也が下げた頭を元に戻すと、男はかすかに下を向きながら、しかし目だけは真也を見据えていた。鈍い光を放つ目だった。川上は面接の試験官として真也に接するつもりなどないのだと、真也は感じた。

 一呼吸おいて、川上は「てっきりもう来ないかと思った」と言った。
「すいません」
「来ても、もっと遅い時間か、とも思ったな。だが、この時間に来れたということは、予定通りのバスには乗った。そうじゃな?」
「はい」

 川上は少し考えているようだった。真也から一瞬だけ視線をそらしたからだ。それはほんのわずかの時間だったが、真也は息が詰まりそうになった。いまだかつて、こんなに重い空気の面接など経験したことがない。
「じゃあ、なぜこんな時間になった? 降りるバス停を間違えたか?」
「いえ、そういうわけでは……」
「散歩でもしていたか? 大事な約束の時間をほったらかしてまで」
「いえ、それは……」
 真也は事情を説明しようとしかけたが、遮られてしまった。

「言い訳は、いい。どんな事情があろうとも、遅刻は致命的じゃ。あんたがこれまでどんな仕事をして、どんな生活をしていたか、そんなことは知らん。だが、ここは宿屋じゃ。7時に朝食を出すと案内すれば、7時に朝食の用意が整ってないといかん」
「……はい……」
 真也はどんな言い訳も事情もこの人には通じないと思った。

 普段の真也なら「事情を聞いてから、それが正当な理由かどうか判断しろよな」くらいには思うのだが、そんなことを考える気力さえ、もう失っていた。

「なぜか、わかるかね?」と、川上は言った。「なぜ、宿屋は遅刻が許されないか、わかるかね?」と、繰り返した。
 真也は「サービス業だから」だと思った。客とスタッフのどちらの都合が先か、と言えば客に決まっている。その程度の「サービス業の基本」は心得ているつもりだった。だが、返事できなかった。間違った答えを言って叱責されるのが怖かったわけではない。決して大声で真也を叱責などしないこの中年と老人の中間世代の、静かだが重々しい言葉の迫力に負けてしまったのである。

「信用している人がいるからだ。7時に飯を食ったらすぐに山に行こう。7時に飯を食ったら今日はすぐに出発しよう。7時に戻れるように朝の散歩に行こう……。お客さんはな、お兄ちゃん、こっちの都合に合わせてくれているんじゃよ。客なんだから我侭を言ってもいいはずなのに、自分の事情を優先させたいはずなのに、こっちが朝飯は7時と言えば、それに合わせてくれる。それはこっちが約束を守ると信じているからじゃ。あえてこっちの都合に合わせてくれとるんじゃ。レストランではそうではないだろう? 客は腹が減ったと言う自分の都合で店に来る。注文したらすぐさま自分のために料理をしてくれると思っておる。だが、宿屋は違う。こっちの時間に客が胃袋をあわせてくれるんじゃ。そうまでしてくれているのに、約束を守れないなど、とんでもない話だとは思わんか?」

 真也は「はい」と答えた。

 答えてから、やはり言い訳をすべきだと判断した。
 今日の遅刻は、老婆に頼み事をされたからだ。困っている人を見捨てるわけにはいかない。
 こういう頑固で筋の通った事を言う人なら、「人助け」の一言で理解してくれるかもしれないと思った。事情説明をするならこのタイミングをおいて他にない。
 サービス業とは人様の世話をすることだから「人助け」に通じるものがあるし、そもそも食事の用意や掃除といった宿屋の基本的な業務はアルバイト一人でするわけではないだろう。誰かが人助けのために欠けたら、残ったメンバーでフォローしていくのも大切なことだと真也は思うのだ。
 この老人と議論をするつもりはなかったが、主張するだけはしてみよう。

「おっしゃる通りだと思います。遅刻したことは申し訳ないという気持ちでいっぱいです。ですが、今日は……」
 しかしまたも真也の台詞は遮られてしまった。
 川上は決して真也を上回る大声を出したわけではない。むしろ、真也よりも小さく低い声だ。しかし、真也が発言を途中でひっこめてしまうには十分なほど重厚な声色だった。
「客に特別な日はない。今日は事情がありました、では通じんぞ。下宿屋ならまかないのおばちゃんが365日のうち一日くらい朝寝坊したって許してもらえるだろうが、客は毎日変わるんじゃ」
「……はい」
「わしも、今日、あんたを迎えるために、手を止めて待っていた」
「申し訳ありません」

 何もかも終わってしまったな、とだけ、感じた。
 後に娘の祥子と親しくなって知ったことだが、冬のシーズンを迎えてのバイト学生の募集については、毎年のようにすっぽかす人がいる。以前は、道に迷ったのだろうか、とか、途中で交通事故に遭ってはいないだろうかなどなど心配したものだが、その都度、裏切られたというのだ。
 電話で問い合わせれば、「うっかりしてました」とか、「それはもうやめました」とか。
 それでも、ほとんどの学生は期日を守ってやってきて、しっかりと働いてくれる。だから、「最近の若いヤツは」などとは思わなかったが、そのかわりに、「腐った人間はいつの時代にもいる」と考えるようになった。
 いちいち問い合わせるのもバカバカしくなって、学生が携帯電話をほぼ100%所持する頃から、いちいち問い合わせるのは、やめた。いつでもどこでも、しようと思えば連絡くらいできるのだから、必要なら電話できるのだから。
 真也も祥子からそのことを聞いた時、「走る前に電話をすれば良かった」と、後悔した。

 いずれにしろ、全て終わったのだ。
 バスを降りて犬に追突され、その犬を捕まえるように老婆に頼まれて、そして、その犬がなついている少女に泣かれた。そんな出来事がまるで遠い世界での事象のように思えてきた。映画のスクリーンの中で繰り広げられているフィクションのように。フィクションに踊らされて現実を見失ってしまったのだと、真也はうなだれてしまった。

「帰ってくれ」
 今までの語り口調と同じ調子で、川上は淡々と告げた。
「わしは約束を守ってあんたが来るのを待っていた。だが、あんたは約束を守らなかった。だから、わしもあんたを採用すると言う約束はなかったことにする。わしがあんたを採用しない理由は語った。話はこれでおしまいじゃ」

 真也はうなだれた。
 もうこれで、行き場がない。打つ手もない。現実を突きつけられた思いだった。
 帰りの交通費すらも、もう、無い。

「窓の外を御覧なさい」
 川上は急に優しげな口調になった。それは雇用主と従業員という関係では既に無いことを物語っているの。
 真也は言われたとおりに窓の外を見た。決して広くない道から宿の敷地内にマイクロバスが乗り入れて止まったところだった。中から何人かの若者が降りてくる。彼ら彼女らは自分と似たような年齢のように思えた。

「彼らは4時までにここに集合してくれた。あちこちに散らばるうちが経営する施設を、見てもらってきた。私はこれからオリエンテーションをせねばならないので、これで失礼するよ」
 川上は席を立った。
 これ以上ここにいても仕方がないと真也は思った。
「すいませんでした。失礼します」
 真也は立ち上がった。

 外に出た真也は、我ながら潔かったなと思った。しつこく食い下がろうと思えば出来ないこともなかっただろう。どうせ採用されないのなら、恨み言や捨て台詞のひとつも残していくことも可能だったろう。しかし、そんなみっともないことはしなかった。
 我ながらカッコいいじゃないか。
 しかし、カッコよくても、問題は解決していない。
 これから、どうやって生きていくというのか?

 山の空気は美味かったが、山の空気では腹は満たされない。
 飲み食いする程度の金はあるけれど、その程度の金しかない。
 宿を取ることも、帰宅することも叶わないのだ。
 いつのまにか肩を落として、もと来た道をバス停に向かって歩いている自分がいた。
 みじめだった。

 

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