ロシアンルーレット

敗 者 復 活 戦

 

20.

 風景が妙に暗く見えた。都会よりも夕暮れが早いように思える。
 もちろんそれは気のせいだが、これまで都会にいたせいで、季節の移ろいを実感せずにいたのは確かだ。

 そして、都会よりも確実に寒い。風があるせいで体感温度はそれよりもさらに低い。真也のみじめな気持ちに追い討ちをかけた。
 就職できないどころか、アルバイトにまでしくじってしまった……。

 バス停まで戻ってきた真也は、時刻表を確認した。最寄のJR駅までのバスはまだもう1本ある。所持金は底を突きかけていたが、バスに乗る金はまだある。ひょっとしたら、特急には乗れなくても普通でなら帰りつくことが出来るだろう。しかし、このままアパートに帰って何がどうなるというのだ。
 真也は考えた。
 ミコにだってあわせる顔がない。
 携帯電話の電池にはまだ余裕があった。いっそのことミコに電話をして、なにもかも正直に話してしまおうか。そして、お金を持って迎えに来てもらおうか。ミコはきっと来てくれるだろうし、そうすれば特急で帰ることが出来る。そして、就職はあきらめて、アルバイト探しに専念する。なにかの仕事はあるだろう。その間、ミコのところに転がり込む手だってある。いや、日払いのバイトだって構わない。特急代はすぐに返せるだろう。

 でも……
(人に紹介までしてもらったアルバイトなのに、集合時間に遅れたから採用されませんでした、なんて情けないことを俺はミコに言えるのか?)
 真也は「言えるわけがない」と思った。

 いずれは言わなくてはならないだろう。遅かれ早かれ島崎さんから香織を通じてミコの耳に入るに違いない。そのとき、自分自身の力で、採用にならなかったアルバイトをフォローする何かを見つけてすらいない、なんて恥ずかしい状態で平気なのか?

 真也がそんなことを考えているうちに時間が過ぎ、バスがやってきた。真也はバス停から離れ、乗客でないことを運転手に知らせた。バスはスピードを落としかけたが、あらぬ方を向いてバスを無視する真也に、間もなく運転手は「乗客ではない」と判断した。再びアクセルを踏んでバス停の前を通り過ぎて行った。
 さてと。
(これで僕に残された道はもう何もない)
 もう帰ることも出来ないし、どこかの宿に泊まる金もない。

 タクシーを呼べはまだ帰れるなと真也は自分を慰めた。金はミコに借りればいい。
 ここからタクシーに乗ったらいったい何万円かかるだろうか。
 恥ずかしいことをする勇気がなくてバスを見送ったくせに、真也はまだそんなことを考えていた。

「おや、さっきの役立たずの兄ちゃんじゃないかえ」
 手に不透明なビニール袋を提げたおばあさんが真也に声をかけてきた。どこかのスーパーで買い物をしてきた帰りだ。役立たずはひどいなと真也は思ったが、キャンディーという名前ばかりかわいいずる賢くて生意気なあの犬を、自分が捕まえられなかったのは事実である。抗弁する気力もなかった。

「あ、こんにちわ」
 とりあえず真也は挨拶をした。
「何をしとるんじゃ? こんなところで。ここの人じゃなかろう? 友達か親戚でもおるんか? 迎えが来なくて困っとるのかのお? なんちゅう家じゃ? わしが知っとったら案内してやるがのう」

 のんびりと話すキャンディの飼い主に、真也は「あなたのせいで職を無くしたんだ!」と叫んでやりたくなったが、牧歌的なおばあさんの所作や会話に、そんな気力はわかなかった。
「ま、立ち話もなんじゃ。ちょっと上がっていかんか? これでも悪いことしたと思うとるんじゃ。茶くらい出すぞ」
 バス停そばの「休業中らしいお土産屋」の裏へ、老婆は回り込んで行った。

 表通りに面した部分は雨戸がしっかりと閉ざされてすっかり死に絶えたようだが、裏へまわると生活の匂いがした。ゴミ用のポリバケツがあり、ささやかだが表札のかかった裏口がある。中からは灯りが漏れていた。
「おや、電気を消し忘れていたようじゃの」
 老婆はドアノブに鍵を差し込んで、「ん?」と顔をしかめた。
「鍵もかけ忘れていたようじゃ」
 無用心な。うっかりするにもほどがあると真也は思ったが、おばあさんは何とも感じていないようだ。
「まあ、おあがり」

 入ったすぐそこが板の間でキッチン兼廊下だ。畳を縦に2枚ほどつなげたくらいの長さだった。身体を丸めてうずくまっていたキャンディーがのそりと顔を起し、尻尾を振った。右側にはさえぎるものがなく、そのままたたみの部屋になっている。6畳ほどの広さだ。コタツやストーブや箪笥やテレビなどがごちゃごちゃと置かれているが、整頓はされていた。さらに右奥は襖が閉じられていて、その奥が老婆の寝室だろうか? 少なくともこの畳の部屋に誰かが寝起きしているような風情がない。

 キッチン兼廊下の行き止まりは扉になっている。
 老婆はその扉を指差して、「トイレはその先じゃ」と言った。
「ドアを開けて左側が風呂、右側がトイレ。階段の下じゃから天井が低い。頭を打たんようにな」

 そういえば、いつからトイレへ行っていなかっただろう? 不意に尿意を催した真也は「お手洗い、お借りします」と言った。
「うむ、どうぞ」と老婆は返事をした。

 真也はとりあえずホッとした。ここでトイレを借り、老婆に茶を振舞ってもらったからといってなんの解決にもならない。しかし、刻々と暗闇が迫るバス停から、きちんとした照明があってかつ風を遮る壁のある場所へ入ることが出来ていくらか心が和んだ。

 板の間の突き当たりの扉を開けると、右側には階段があった。外からこの「休業中のお土産物屋らしい建物」を目にしたときは、平屋にしては高く、2階建てにしては低い中途半端な高さだと思ったが、昔の身長の低い日本人にはこの程度で良かったのかもしれない。

 左手にはやはり扉。風呂である。そして正面には引き戸があって、その先が表の道路に面した店舗に違いないと真也は感じた。
 階段は7〜8段ほど先で屈曲しており、おそらく180度折れ曲がってこちらに戻ってくるのだろう。その下のスペースを利用してトイレが設けられていた。階段の横にある扉を開けると、トイレだった。天井は段になっており、奥に行くほど低い。やはりこの上が折り返した階段なのだ。

 用を済ませて和室に戻ると、コタツの上には湯飲みがふたつと、煎餅を入れた籠が用意されていた。湯飲みからは湯気が上がっている。
「召し上がれ」と老婆が言うのが先だったか、真也が湯飲みに手を出すのが先だったか。
 暖かい湯飲みを真也はまるで小動物でも抱えるかのように両掌で被って暖をとった。

「もうバスも無い。行くトコがねえんなら、泊まっていってもええぞ。息子も娘も独立しおった。気楽な一人暮らしじゃ」
「あの、ご主人は……?」
「とおに死におったわ」
「あ、すいません」
「何を謝る。人は必ず死ぬし、たいてい男が先に死ぬ」
「は、はあ」
「2階が空いておるからのう」
「いや、その……」

 真也は返答に困った。確かに今夜ここに泊まらせてもらえるのは有難い。だが、それで根本的な解決にはならない。しかし、日も暮れ、寒さの募る高原の夜、身動きできないのも確かである。
「どうせ、行くところ、ねえんじゃろ」
「まあ、そうです」
 真也は肯定した。
「酒と飯を用意するでな。遠慮せんでええ。久しぶりの客じゃ。この歳じゃ襲われる心配もないしのお」
 老婆はケタケタと笑った。
「明日は明日の風が吹く。ゆっくり休んだらええアイディアも浮かぶ。のう」
 真也はなんだか何もかもを見透かされているような気がした。

 酒を飲み、食事を取り、風呂にも入らせてもらって、出て来たら、また酒。
 疲れが溜まっていたのかデロンデロンになってようやく2階に上がる。

 2階には廊下というものがなく、だだっ広い板の間と、扉が二つあった。だだっ広い板の間は元は店舗の商品などが置かれていた物置らしかった。真也は老婆に言われたとおり、手前の扉を開けた。布団が敷いてあった。
(いつの間に……、そうか、風呂に入っている間に寝床の準備をしてくれていたんだ)
 真也は感謝した。
 のらりくらりと布団の中に入る。

 そして、後悔した。
 酔った勢いとはいえ、どうしてこんなことを引き受けてしまったんだろう? 老婆から仕事の話を持ちかけられて、一瞬「よっしゃ!」と思ったが、多分に酒の勢いもある。冷静に考えたら、まるで自信などなかった。

 布団の中で、老婆とのやり取りを思い返す。
 老婆と差し向かいで酒を飲む。無言でいるわけにはいかなかった。なぜここに来て、どうして夕暮れのバス停でしょぼくれていたのか。酒で口が軽くなったのもあるが、誰かに聞いて欲しかったのだろう。問われるままに答え、問われないことまで口にした。
「職もなく、金も無いか。情けないのお。じゃったら、ここで働かんか? 年金も仕送りもあるで、もう店を閉めて3年になるが、あんたがやるんだったら、今年の冬はまた店を開けてもええ。店をするのはわしも好きじゃ。じゃが、身体がいうことをきかんでのお。朝から晩までいうんも辛いし、重いもんを持ったり、高いところにものを上げたり降ろしたりするんも苦痛じゃ。じゃが、店でお客とあれこれ喋るんは楽しいからのお」

 真也はやらせてください、と言った。
「そうかそうか。引き受けてくれるか。なら、明日からさっそく準備じゃ。掃除もせんならんし、仕入れもせんならん。給料は儲けをわしとあんたで折半でええじゃろ。サラリーマンみたいに月給いうて決まった額は出せんがな」
 文句は無かった。
 とりあえず、今日の飯が食えて、寝泊りするところがあって、あとは帰りの交通費と大家さんに振り込む自分の下宿の家賃が払えれば十分だ。いくら寂れた土産物屋といっても、それくらいの売り上げは上がるだろう。バス停の目の前だし、向かいのスーパー兼コンビニのようなところは営業時間が長いとは思えなかった。面接に行った民宿でも、ロビーにあったお土産はさほどのバリエーションは無かったなと思い返す。うまくいけばある程度お金がたまるかもしれない。

 さらに……。
 今後の就職活動で役に立つだろう。面接で「田舎のお土産物屋を再建しました」とでも言えばいい。打算に過ぎるかもしれないが、事実である。ミコにだって、言い訳が出来る。アルバイトの面接に遅刻したことはきっと罵られるだろうが、負け犬に終わらず、ちゃんと自分でフォローしたのだから。
 そしてなによりも、「採用」が嬉しかった。思えばはじめての「採用」であった。雇用保険も失業保険も無いし、手取りの保証すらも無いが、がんばればがんばった分だけ稼げるのだ。
 酔った頭でいいことばかり考えた真也だったが、布団に入ったとたんになぜか高揚感が急にしぼんだ。

 そして、自分に問うた。
 自分に出来るのか?

 朝、寒さで真也は目が覚めた。
 路面の水溜りの表面に薄氷が張って冬の訪れを告げるように、真也の肌も氷の薄布で覆われていた。
「う、寒……」

 畳の上に敷かれた布団である。多少寝相が悪くても、ベッドのように下へ落ちるということがない。そのため、真也は胸から上を布団からはみ出させていたのである。
 あらためて布団に身体を沈めたが、おいそれと温まってこない。自分の身体そのものが冷え切っているため、布団の内側にも暖気がこもらないからだった。

 それにもまして、空気の冷たいこと。
 都会ではまだ秋が徐々に深くなっていっている季節だが、標高も緯度も高い高原地では、一晩太陽エネルギーが途絶えただけで、ここまで冷え込むのだ。

 寝床にいても結局身体はあたたまらない。逆に目が冴えてくる。時計を見れば7時30分。昨夜はおばあさんとお酒を飲みながら随分話し込んだ気になっていたが、就寝したのは案外と早かった。夕刻におばあさんの家に招かれ、食事、風呂、酒。他には何もしていない。頭の片隅から、一番最後に時計を確認した時刻を引っ張り出す。確か、10時過ぎだった。普段の真也ならまだ宵の口である。たいていは日付が変わってから眠る。
 従って、7時30分の起床は、十分な睡眠をとった、ということである。

 階下では人の気配がする。
 広い物置スペースと小さな部屋が二つあるきりの2階だが、洗面台が備えられていた。軽く顔を洗って居間に顔を出した。

 朝食の準備が整っている。意外なことに、パンとコーヒーと目玉焼きだ。自分だけなら朝食をとらない。ミコと一緒に夜をすごした時は、ミコが朝食を作ってくれるのだが、ミコだって一人のときは朝食をとらないと聞いて、二人で笑いあったものだ。
 彼女と2人の時だけに存在する朝食。
 それを、昨日知り合ったばかりの老婆と二人で食べるのは、なんとなく居心地が悪かった。

「店の雨戸を開けるのは久しぶりじゃよ。時々電灯は灯して、掃除はしていたがな」
 朝食を終えた真也は、おばあさんに案内されて、店舗スペースに足を踏み入れた。商店街の片隅にある古いよろずやのようなイメージを持っていた真也は、おばあさんが照明のスイッチを入れて、イメージが誤っていたことを知った。白熱灯が黄味がかった光で店内を照らすのかと思っていたのだが、蛍光灯の灯りが白々と充満したのだ。

 真也が驚かされたのはそれだけではない。
 土産物や駄菓子などを並べる陳列スペースとレジがあるきりだろうという想像は裏切られた。
 小さいながらにキッチンとカウンターがあり、飲食できるテーブルや椅子までがあったのだ。

 テーブルも鉄板がしつらえられたお好み焼き用のものだ。真冬のスキー場で着膨れた客が座るには少し狭いが、4人用のテーブルが二つある。キッチンには大小3つのコンロとたこ焼き用の鉄板まであった。4列×6個のたこ焼きが同時に焼ける鉄板が2連。ジュースサーバーに生ビールサーバー、コーヒーメーカー、中華まんのスチーマーまである。
 短冊状になったメニューが壁にかけてあり、それによると、「焼きソバ」「お好み焼き」「たこ焼き」「もんじゃ焼き」「クレープ」「おでん」「中華まん」「ソフトクリーム」「お汁粉」「カレーライス」などとなっている。ソフトクリームサーバーはキッチンの中ではなく、レジカウンターの横にあった。真冬にソフトクリームや生ビールが売れるのかと一瞬思ったが、ゲレンデをかっ飛ばして、あるいはさんざん苦労をして降りてくると、保温力の高いウエアの中で体温が上昇し、冷たいものがよく欲しくなったよなと真也は自分のことを思い出した。

 にもかかわらずレストハウスは暖房が効きすぎていて、入った途端に気分が悪くなったこともある。
 薄着で働くスタッフ達にはちょうど良くても、激寒のゲレンデから室内に入ったら暑いことこの上ない。

 この店はゲレンデから少し離れているから、それほど客の入りは見込めないだろうけれど、ただでさえ混雑するゲレンデのレストハウスを、セルフサービスのためトレイを持った客たちがスキー靴を履いてノロノロと動き回るあの居住性の悪い空間を思えば、それを嫌ってこういうノスタルジックな万屋風の店を探し当ててくる客だってある程度はいるはずだ。
 ウエイターや食器洗い等で飲食店の経験はある。自ら調理するのは初めてだが、チャレンジするしかあるまい。飲食物の提供をすることで、ただの土産物屋をするよりも客の滞在時間は長くなる。注文をして出てくるまでを待ち、さらにそれを食べる時間が必要だ。その間、客は退屈しのぎに各種土産物に視線を走らせるだろう。
 ゲレンデ内をくまなく調査したわけではないけれど、このタイプの店は他にはないのではないだろうか? 真也は勝機は十分にありと見た。

 木製の雨戸を開け、戸袋に入れた。店の正面は全面ガラス張りで、外からも良く見える。もちろん、太陽の光が存分に店内にも注ぎ込んでくる。風は冷たいが気持ちのいい朝だ。

 真也はさっそく掃除を始めた。
 どこから手をつけていいのかわからなかったし、実際の開店前にはもう一度念入りに清掃しなくてはならないだろう。それならいっそと、目に付くところから手をつけることにした。

 おばあさんに許可をもらって、店内に放置されていた古い商品は全て処分した。もう何年も前に放送していたアニメのキャラクターグッズや、色の霞んでしまった「S高原」と書いた提灯や、多分もう放電してしまって使い物にならないであろう電池、その他色々だ。天井や壁にこびりついていた汚れを丁寧に床に落とし、陳列台も磨き、そして床を掃いてモップをかける。ガラスを磨き、蛍光灯も外して拭いた。

 キッチンやテーブルなどはおばあさんがメンテナンスを始めた。同時に、あちこちの業者に電話を入れていた。今年の冬はまた店をするのでよろしく、というわけだ。
 真也はミコに電話を入れた。そして、自分のアパートからパソコンとプリンターを送って欲しいと頼んだ。

 犬のせいで面接に遅刻をしてアルバイトがだめになったこと、そのかわりにその犬の飼い主であるおばあさんにお店を任されたことなど、おおよその顛末を語って聞かせると、ミコはけたけたと笑った。
「それもまた人生よね」と。

 ミコは「週末にレンタカー借りてそっちまで運んであげる。泊めてね」と言って電話を切った。
 末端のアルバイトをするはずが、店を一軒任されたいわば「店長代理」に変身してしまったのだから、ミコとしても様子を見たかったのだろうと真也は思った。

 夕方になると、祥子が台車にストーブを積んで運んできた。シェパードのキャンディがお気に入りの女の子だ。
 彼女に会うのは何度目だろうと真也は思った。
 バスの車窓から彼女を見た瞬間の事を思い出した。
 そして昨日、さっぱり自分の言うことを聞かなかったキャンディが、祥子には従順だったことも脳裏に蘇った。

「祥子ちゃん、すまんのう」
「いいのよ。もう使ってない石油ストーブだもの」
「真也、ボーっとしてないで、自分の部屋に運ぶんじゃ」
「え? 僕がもらっていいんですか?」
「ああ、川上さんに頼んだ。ストーブなしで一冬越すのは無理じゃ。昨夜だって相当冷え込んだじゃろう」

 川上、さん? そういえば、自分が面接に遅刻した民宿も「川上荘」だ。
「もしかして、キミは?」
 真也は祥子に質問をした。
 祥子は「そうよ」と答えた。
 そして、続けた。「じゃあ、あなたが面接に遅刻してバイトを首になった、え〜と、小野くんだっけ? 祖父が言ってたわ。骨のありそうな若者だったけれど、仕方ないって。ふ〜ん」

 祥子は真也をまじまじと見た。
「2階に住んでるの? 運ぼうか。手伝ってあげるわよ。そっち、持って」
 祥子はストーブの両側についている、手を引っ掛けるためにへこんだ場所を持った。反対側を真也が持ち、二人して運ぶ。

 そして、祥子は、囁くように言った。「ごめんなさいね……」
 バイトを首になったことかと思った真也は、「いいよ。理由はどうあれ、遅刻したんだから」と返事した。
「じゃなくて、さっき、小野『くん』なんて言ったこと。あなたはウチの従業員じゃないものね。まして、年上なのに、くんだなんて」
「従業員には『くん』って呼ぶのかい?」
「そう。祖父にそうしろって言われているの。あたしは経営者サイドの人間だから、ウチで働いている者に対してはそういう口のきき方をしなさいって」
 なるほど、徹底している、と真也は思った。

 廊下と物置の区別のない2階の広間。そして、部屋へと通じる扉。真也と祥子はゆっくりとストーブを床に下ろし、真也は自分の部屋の戸を開けた。
(しまった。万年床だ)
 布団くらいたたんでおけば良かったと後悔したが、もう遅い。年頃の女の子がこの部屋を訪ねてくるなんて、いったい誰に想像できただろうか。

「あら、意外と綺麗にしているのね」
 布団が敷きっ放しになっているにも関わらず、祥子は感心した。
「へ?」
「ウチのバイトの男の子の部屋なんか、ひどいものよ」
「男の子の部屋をのぞいたり、するの?」
「やあねえ。たまに掃除をしてあげないと、ゴミ箱だか部屋だか区別がつかなくなるからよ。あ、ウチみたいなとこは相部屋っていうか、雑魚寝だから。冬のアルバイトだけの人のために個室なんか用意出来ないのよ。女の子の部屋はさすがにマシだけど、それでもそれなりに汚いわ」
「まあ僕は昨日着いたばかりだし、昨夜は寝ただけだし、今日は朝から働いてるし」
「まだまだこれから汚くなるのね」
「そういうこと」

 よっこらしょと2人でストーブを室内に担ぎ入れる。
「じゃあ、たまに掃除しに来てあげようか?」
 真也は冗談だと受け止めたが、冗談だからといって「じゃあ、頼むよ」と同じトーンで返事するわけにはいかなかった。
「まさか。掃除くらい自分で出来るよ」
「遠慮しなくてもいいって。あたし、時々、ここに遊びに来てるから。キャンディに会いに」

 そうだった。祥子はキャンディのお気に入りなのだ。
 くう〜ん。
 さっそく甘えた鳴き声がした。さっきまで姿を見せなかったキャンディが、いつのまにか2階に上がってきており、祥子の足に頬をすりすりさせている。

「ウチ、家が職場じゃない。息が詰まることもあるの。そんなときはここに来て、キャンディと遊んで、散歩とかにも付き合うの。おばあさんに代わって散歩させてあげるんだって言ったら、仕事もさぼれるし。スキーシーズンになったらもうしっちゃかめっちゃかで、ここに逃げ出してくるのが唯一の楽しみ、かな。道も雪が積もって走れなくなるしね」
「掃除はともかく、逃げ場に使ってくれるのは歓迎だよ」

 いつまでも決まらないままに延々と続く就職活動。それを経験している真也にとって、「家が職場で息が詰まる」という祥子の気持ちはよくわかる。なぜなら就職活動中の真也にとって、アパートの自室は安らぎの場などではなく、あくまで就職活動の場だからだ。ネットで情報を集めてエントリーしたり、かかってくる電話にいちいちビクビクしたりの連続だった。
「ありがとう」と、祥子は言った。

「ま、キャンディの散歩でも一緒に行こう」
「あら、それはダメよ。キャンディは小野さんよりあたしのことが好きだし、第一、お店が始まったら、散歩させている暇なんてなくなるわ」
「そんなに、この店は繁盛していたのかい?」
「そこそこ繁盛はしていたわよ。でも、そういうことじゃなくて、営業時間中に店をカラにして、犬の散歩なんてしてられないでしょってこと」
「そうだよな。でも、キミはいいのか? 宿屋に営業時間もなにもないだろう?」
「あら、あたしはいいのよ。オーナーの孫なんだから」
 そう言って、祥子はペロリと舌を出した。

 窓の外は日が暮れ始めていたが、真也の心は温かだった。

 

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