夜明けの町 |
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第3章
温泉からテントに戻って、僕はそのままそこでもう一泊することにした。外気が徐々に冷えてくるのはわかるけれど、温泉で暖まった僕の身体は、そんなにすぐには冷えなかった。人とのふれあい、語らいというのは、心を温める。最初はアダのことを温泉に無理矢理連れていこうとする厄介者、という風にさへ感じたのが嘘のようである。そのアダは、ここに留まらず先へ進んだ。 |
僕の晩餐は始まった。大げさなようだが、精神の高揚は、まさしく晩餐だった。 今日、テントに帰り着いてからは、本当に食べることだけに集中していたのだ。これが晩餐でなくてなんだろう。 肉と魚のボリューム、サラダの口当たり、のどごしの良さ。スープはまあここまでになればまずまずだな。そして何といってもバナナチップの甘さ。 そして、意外なことに、予想以上に早くおなかがいっぱいになってしまった。ほとんど半分以上残っている。どうもバナナチップのせいらしかった。唾液と胃液を吸い、膨らんで、満腹感をもたらすのだった。 僕は、缶詰をストーブの上からおろし、寝転がって、音楽の割合が多そうな番組をチューニングしてラジオを聴きながら、時々残ったものを摘んでいた。 あと3日。全体地図はおおよそ頭の中に入っている。あと2泊3日だな、と思った。 ハイテンションでこのたびを乗り切るには、3日が限界だろう。明日は早く起きてひたすらに進もう。そして、残りの距離を半分にして、あと二日を過ごそう。それぐらいでちょうど良さそうだ。重量が少し減ったし、身体も充分休まったと思う。進むことに神経を注げば、食事の粗末さは気にならない。 よし、今日はもう寝よう。 そう決意したとき、テントの外から女の声が聞こえた。 エクスキューズミー、と言ったようだ。 この国の言葉ではなく、英語であるところからみると、外国人のようだ。しかも、若そうな声。彼女も同様にテントの旅人なのだろう。 僕は内側のテントからごそごそ這い出し、外側のテントから顔をつきだした。 「あら?」と、彼女は言った。日焼けで肌はぼろぼろだけれど、とびっきりの好みのタイプ。整いすぎず、かといって崩れてもおらず、全体的に小振りな顔に、派手さの全くないかわいらしさ。 「コリアン? それとも日本人? まさかね」 と、彼女は言った。 「そのせりふ、そのまんま返すよ」と、僕が言うと、彼女は歓声を上げた。 |
もう、新たな出会いはいらない。何となくそう感じていたけれど、不自由なく言葉が通じる相手ならば別だ。いや、言葉が通じるだけではダメだと思う。日本語をしゃべれる外国人ではやはり感覚が違うのだ。日本の風土や習慣が染みついた、そういう相手とでなければならない。彼女と出会った瞬間に感じたことである。今まで気がつかなかったけれど、ぼくはかなり日本を懐かしく思い始めていたのだろう。 そう彼女に告げると、わたしもそう、といった。僕より強者で、もう旅に出て半年になるという。そして、2日遅れで、僕と同じ宿を出発し、バックパッキングの身軽さと、温泉往復の道草で、彼女は僕に追いついてきたのだ。しかも追いつくことが目的だったという。 同じ宿に泊まり、僕の旅のコースを知り、日本語で喋りたいばかりに、追いかけてきたというのだ。速いペースで長めに歩き、テントや小屋を見つけたら一つ一つ訪ねたという。温泉に寄り道している間に、追い越されなくて良かった。僕がそういうと、神様のお導きよ、といった。 「日本人の君は、どういう神様を信じているの?」 「いわゆる日本的な神様。神も仏もないというときの、何でもいいから、すがれそうなもの」 「その神様なら、万能なんだ」 そう言って、僕たちは笑いあった。 「随分贅沢に食べ散らかしてるのね」 彼女は僕のテントの中をのぞき込み、こう言った。僕は事の成り行きを説明した。 「じゃあ、残り物をもらってもいいわけね」 「かまわない」 僕のテントに向かい合うように、彼女のテントを立てた。彼女は僕のように荷物をテントの中に押し込まず、外に置きっぱなしにした。そうすることで、彼女のテントの中で、僕たち二人が歓談し、そして彼女が食事をするくらいのスペースは保たれるのだった。僕のように、2重テントにしない代わり、彼女は外にフライシートを貼った。 フライとテントを担ぐのだから、それ以外の荷物を極力抑えなくてはいけない。彼女の食料は、日本で言うカロリーメイト、乾パン、あるいはスニッカーズのようなものだけらしかった。 僕は宿で泊まるのを基本にしていたが、彼女は野営の道具は日本から持ってきており、かなりの宿泊をテントでしていると言った。お金がないのだという。ない、といっても、3年間したOLをやめての旅立ちだから、それなりに資金はためてあるのだろうが、長期放浪旅行をするためには一日の経費を低く抑えなくてはならない。そのための貧乏旅行だろう。 しかし収入が閉ざされてるのだから、貧乏旅行には違いない。 |
一通り食事を終えると、彼女はたばこに火をつけ、ようやく自己紹介らしきことをはじめた。それで、このようなことがわかったのだ。 ただし名前は名乗らず、アッキーと呼んでほしいと言った。 「吸う?」と、アッキーはたばこを一本差し出した。 「そうだな、もらおうかな」 「吸わない人なの?」 「いや、旅行しているうちにだんだん吸わなくなった。」 「禁煙してるの? それとも節約のため?」 「たばこを探して買うのが、だんだん面倒くさくなってきて、そのうち吸わなくなっていた」 日本のように、宿にも路上にも自動販売機があり、なんていう国がそんなにざらにあるわけではない。この国のように、タバコ屋そのものが無く、色々な種類の店がテンで勝手に許可を得て売っているところもあるし、路上で売り子から買う以外の方法がついにわからなかった国もある。そんな違いを楽しむのも旅だろうし、それは心得ているつもりなのだけれど、ことたばこを買うということに関しては、状況を楽しむ前に、面倒くさいと思ってしまったのだ。 アッキーのくれたタバコはきつかった。一本吸い終えるとクラクラした。 「きついでしょ」 「久しぶりに吸ったせいもあるし、クラクラしてきた」と、僕は言った。 「ヤバイ成分は入ってないから、大丈夫よ。」 「わざわざきついのを吸ってるの?」 アッキーはそうだと言った。旅先で知り合った男の子に勧められてタバコを覚え、その時のがきつかったから、今更軽いタバコでは、吸った気がしないと言う。 「どうもその時は、ヤバイのだったらしいんだけど」 「で、ヤバイ状況になってしまった?」 「そんなこともあるわよ。」と、何事もなかったようにアッキーはさらりと言った。 僕は、そういうところへは近づかないように、とか、危険を感じたらすぐ逃げるように、とか、そういう当たり前のことを言って彼女をとがめる気にすらならなかった。アッキーの家族や友達には悪いけれど、そうしていつ終わるともしれない旅をして、どこかで野垂れ死ぬのも彼女の人生だ、そんな風にさへ思う。僕は終わりのある旅しかできない。 恋人、なんてのもいないのだろう。愛した人はいるだろう、愛されたこともあるだろう、けれど、恋人、ということになるとアッキーに関する限り、かつてはいたのだろうけれど、いつの頃からかそういう関係を築かないようにしていたに違いない。 でも、僕と彼女は基本的には同じタイプの人間だと思う。アッキーほど綺麗さっぱり過去を割り切れないだけだ。じゃあ、彼女は何故そうなのか。僕には少しわかる。今まで生きてきて培ってきた色々なしがらみを断ち切ってしまいたいような、そして未来なんて考えたくないような、何か大きな出来事があったのだ。それはあまりにも辛く哀しいことだったのかもしれないし、全く逆で、とてつもなく愉快で享楽的だったのかもしれない。そんな世界を見せられたらまず刹那的になってしまう。僕や彼女のように弱い人間は。でも、多くの場合、人はそれを乗り越える。または現実にひっぱたかれるのだ。 乗り越えることもできない、しかもつい、現実という手がビンタをとばすのをよけてしまう、そういう奴は、旅に出るしかない。 二人で色々な話をしながら、残った食事をぽつりぽつりと摘み、ようやく残飯ゼロになった。 アッキーは外にあった荷物を自分のテントに放り込み、当たり前のように僕のテントにやってきた。 こうして見知らぬ男に抱かれることが、アッキーにとっての、旅の日常のように思える。 愛したらダメだ、この娘を愛したらダメだ、そう自分に言い聞かせながら、もう少しでいいから一緒にいたいなと思った。 眠る前に、僕は言った。「今日僕が行って来た温泉に、君も行く?」 「行ってみたいけれど、本当にいいの? また行程が遅れるでしょ?」 「いいんだ」と、僕は答えた。 急ぐ旅ではないし、日本には絵はがきを送ってあるし。 じゃあ、つれていって、とつぶやいたとき、もうアッキーは寝息を立てていた。 |
朝は驚愕とともにやってきた。テントの外に出ると、もうひとつテントがたっていた。合計3つ。いつ、立てられたのかわからない。わかったのは、そのテントの主が誰かと言うことだ。巨漢髭面の男が、既に目を覚ましていたアッキーと喋っている。 「おはよう。こちらデイビルさん。」 デイビルは、がらがらの低い声で「モーニン」と言った。デイビルというより、デビルである。 「一緒に温泉に行かないかって誘ったんだけど、昨日温泉からここに夜遅く辿り着いたんだって」 「 ヘトヘトだ。どこにも行きたくない。だが、頼みを聞いてくれたら、荷物番はしてやる。盗賊が来たって、撃退してやる。喧嘩なら負けない」 確かに喧嘩は強そうだけれど、ヘトヘトなんじゃないのか? それにやはり盗賊なんていないだろう。まあ、いなくてもいい。きっと彼なら作り話で盗賊を撃退したと吹聴するに違いない。その時は本気で聴いてやりたいと思う。 それに、アッキーの誘いに乗ってこなかったのもありがたい。今日はアッキーと二人で過ごしたい。 「で、頼みって?」 「食料を無くした、とってきてほしい。」 温泉で荷物をほどいたときに、再びパッキングするのを忘れたらしい。しかも、新たに買った食料さへも置いてきたという。 「処分されてるかもしれないから、その時は適当に買ってきてくれないか、金を預けておく。ほしいものがあったらこれで仕入れてきてもいいぜ。でも、ベンツとかピカソとか、そういう高いものはダメだ。食えるものにしてくれ。もちろんおまえらが食うんだ。俺も食う。食うためだったら惜しまない」 それはどうやら本気らしく、結構な金額を渡された。デイビルは、今はこんな身なりをしているが、きちんとしたビジネスマンで、休暇を楽しんでいるんだ、と説明した。 「少しネコババしてやろうね」と、アッキーが耳打ちする。 「すてきな提案だ。」と、僕は言った。 今日一日、これを食べていてくれと、僕はデイビルに食料を渡し、アッキーと二人で温泉に向かった。 温泉では、まずデイビルの忘れ物について訪ねたが、やはり処分されているようだった。山から下りて、いらなくなった食料を放置していく人が後を絶たないらしく、忘れ物と見分けがつかないのだそうだ。もっとも食べ物忘れてませんかと訊かれたのは初めてだが、ということだった。 食料品店なら20分も歩けばあると言うことなので、先に温泉にはいることにした。 明るい日差しで見るアッキーは、プロポーションは素敵だったけれど、肌はお世辞にも美しいとは言えなかった。それでも僕は愛しいと思った。 アッキーは顎まで湯につけている。僕も同じように湯に身を沈めて、後ろから彼女を抱きかかえた。 「まだ体臭が残ってるでしょ?」 「それも含めて好きだ」 「好きになったらダメ。わかってるんでしょ?」 「わかってる」 きっと奇妙な会話なのだろうけれど、回りに日本語の分かる人はまずいないはずだ。 僕は湯船の縁の段差になっているところに腰を下ろし、その上に彼女が座った。 「入れていいよ。」と、アッキー。 「まさか」と、ぼく。 「大丈夫、わかんないって。」 確かに湯は透明じゃないから、回りからはわからないだろう。でも、僕が言いたかったのはそういう意味じゃない。 でも、僕は簡単にアッキーの中に入ることが出来た。 |
僕はとても哀しくなった。 アッキーは「ふにゃ」と、言って、目を閉じた。いい湯だ、とご満悦にいっている年寄りのような表情に見えた。 そして僕たちは、教えられた食料品店で買い出しをし、テント村へ戻った。 そう、まさしくそこはテント村だった。 さらに滞在者が増えて、テントは合計5つ。中央には火が炊かれていた。それを男三人が囲んでいた。 デイビルが号令をかけて、薪を拾い、魚まで釣ったといった。 そして、これからドームを作ろうという。アッキーのフライシートを見て思いついたらしい。それぞれが、フライシートやらグランドシートまで持ち出して、ロープとペグを総動員して、2時間後にそれらしい形になったから不思議である。テント五つをなるべく接近して立て、上空部を覆い、さらにテントとテントの隙間をシート類で塞いで壁状にする。ぼくはゴミ袋を供出した。これを開いて、小さな隙間にガムテープで張り付けたり、上から垂らしてで入り口の扉にしたりした。 これで結構、風や寒さを防げるほか、閉じられた空間が出来上がるから不思議である。しかしどうせ急造のドームであるから、中で火を炊いても酸欠の心配はない。但し火事の心配はある。 どこからかアルコールが出てきて、たき火が消えかかった頃、アッキーがいうところのヤバイタバコも登場した。タバコを取り出した男と、アッキーがそれを吸った。僕も吸うことにした。デイビルともう一人の男は手を出さなかった。僕もアッキーもハイな状態だったので、気持ちよく飛ぶことが出来た。タバコの持ち主は、悪い飛び方をしたらしく、翌朝デイビルに叱られていた。そしてこのテント村では薬物禁止の決まりが出来た。ぼくは実はアッキーと破廉恥なことをしていた記憶がかすかにあるのだが、デイビルからのお咎めはなかった。きっと恋人同士だとでも思っているのだろう。 そして僕たちは何日間か、おそらく2週間前後だと思うけれど、そのテント村で過ごした。 ドームが出来た次の日に、この中央村に、新たに男が一人、翌日には女が二人加わり、ドームの改築が行われた。 そしてこのテント村が撤収されるまで、全てデイビルが指揮を執って金も出し、誰かが買い出しに出かけた。そして、何人もの新しい仲間が増えたり減ったりした。少し離れたところにテントを張り、普段は中央ドームにいて、夜だけ自分のテントに眠りに帰る者もいた。僕たちはそこをだれそれの離れとか別荘とか呼んだ。 ギターを持ってくる者がいれば、みんなで歌い、酒を持ってくる者がいれば、みんなで飲んだ。時々、誰かが魚を釣ってきた。どこで誰が釣っているのか、僕にはとうとうわからなかった。 いやなら集まりに加わらなくて良かったし、集まりの外にいる者に対しては干渉しなかった。 僕とアッキーは買い出しに関しては、二人セットで行動した。3回ほどそうして温泉に通ったが、そのうち一回はデイビルの計らいで外泊が認められた。あの温泉の2階は宿泊所だったのだ。 時々薬物を持ち込む者がいたが、既に「薬物禁止」の提示が、誰かの手によって提示されていた。 無視すれば、デイビルに取り上げられ、処分された。処分前のそれを、一度アッキーがくすねてきたことがある。僕とアッキーはそれを持って、天気のいい昼間、森の中に散歩に出かけて、また試してみた。 トリップからさめてから、アッキーがいった。 「これでしばらくやめておくわ。今度は悪酔いしそう」 そうかも知れない。愉快でハイな状態がそう長く続くわけがない。それにアッキーの場合、放浪が身に付いてるとはいえ、身体も心も限界のような気がした。僕がそばにいることで、最後の砦を越えずにすんだ、その程度なのだろう。僕にはそのことがよくわかった。 「気が済んだら、日本に帰った方がいいんじゃない?」 「しおどき、そんな気がする」と、アッキーも同意した。 この時のアッキーは、日本に家族も恋人もいる、普通の旅行者に見えた。 実際そうなのだろう。恋人がいるかどうかなんて、本人の気持ちによって大きく変わる。出会った頃のアッキーにはそういう人がいなかったのだ、彼女の意識の中では。 「リハビリなら、協力するよ」 「頼ってもいい?」 「どうぞ」 「でも、好きになったりしたら、ダメよ」 「わかってる。友達」 「セックスフレンドくらいなら、いいわよ」 「ごちそうさま」 僕たちはこんな会話を交わせるようにすらなっていた。旅は終わったのだ。 デイビルも同じようなことを感じていたのか、「明日、ここを撤収する」と、その夜みんなに告げた。 「いつまでもここに留まっていてはいけない。」 そして、僕とアッキーにだけそっとささやいた。「ここはお前たちの心のリハビリセンターでもあったんだよ」と言った。 |
次の日の朝、大勢の人間に取り囲まれ、大音響の中で僕たちは目が覚めた。 「我々は、国立公園森林警備隊の者だ。直ちにここを撤収し、同行願いたい」 何事が起こったのか一瞬わからなかったが、ようするに逮捕されてしまったのだった。 |