語り部は由美
大学1年生 淫ら(11)





 終点のひとつ手前の駅。私たちを乗せた通勤快速は停まった。終着駅はいくつもの鉄道路線が交錯するターミナルであると同時に商業ビルやオフィスビルが立ち並ぶ代表的な「都心」だが、そのひとつ手前のこの駅は、その都心から通じる繁華な通りの終端部に位置していた。
 こういった場所は一般的に猥雑である。
 古くからの住宅地がある一方で、ひとつかふたつ筋を違えれば夜通し輝かせてきたネオンが朝の光の中でわびしく見える通りもある。そこには男が遊ぶための場所もあれば、男女がしけこむ部屋もあった。
 痴漢はそれらの状況を熟知していたのだろう。わたしの手を引いてさっさとホテル街に向かう。
 私にとっては途中下車になるが、通学定期を持っていたから途中経路での乗り降りは自由だ。痴漢も定期券を改札口に通していた。毎日の通勤ルートなのだろう。ということは時間に融通のきく会社につとめているのだろうか。まさか毎日この路線で痴漢をするためだけに定期券を購入したりなどしないはずだ。
 いったいわたしは何を心配しているのだろうとおかしくなった。
 痴漢は犯罪だ。犯罪者の心配などしてどうなるというのだ。おまけに私はその犯罪者に喜んでこの身を委ねようとしている。

 いつだったろうか。ごく最近のことである。同じ授業を受けている市原妙子から相談を持ちかけられた。セックスに関することである。
「あたし、まだ処女なのよね」
「は、はあ?」
 唐突なその台詞に、私は戸惑いを覚えた。この子はいったい何を言おうとしているのだろう。
 この年齢で未だバージンなのってどうなんだろう。早く捨てたほうがいいと思うし、捨てたいと思っている。
 とどのつまりはそんな相談だった。
 彼女はわたしの所属するサークルが、表向き活動内容はハードで硬派でありながら、実は部員同士はほとんど乱交状態である、というのをどこかで聞きつけてきたらしかった。
「色んなオトコと寝てるんでしょ?」
「ま、まあそうだけど」
「あたしも、そのサークルに入ろうかなあ」
 このときわたしはごくありきたりの返事しか出来なかった。
「わたしはこんなになっちゃったけど、だけど誰とでも寝るわけじゃないのよ。たとえ遊びだって『この人なら』と思える人でなければ身を委ねない。それに、何でもかんでも捨てればいいってもんじゃないと思うの。特に初めてなら、大切にしなくちゃ。本当に好きな人にあげないと。処女をささげる相手は一生に一人なのよ」
「わかってるわ、そんなこと。だけど、処女だからとかそうでないからとか、セックスするのに違いはないでしょう?」
 確かにそのとおりだ。
「最初に大切な人にあげたからって、二人目以降は適当でいいっていうのなら、その方が不謹慎だわ」
「うん、わたしは不謹慎だよ、ことセックスに関しては。それはわかってる」
「ごめん。あなたを責めてるんじゃないの。逆なのよ。初めてを特別視することのほうがおかしいって言ってるの」
「そういう理屈は通るかもしれないけど、初めては特別だと思うわ」
「じゃあ、あなたの初めてってどんなだった?」
「うーんと、それは…」
 どうだったんだろう。
 彼のことは好きだったし抵抗もなかったけれど、心の底から愛し合っていたといえるかどうか。むしろ好奇心の方が大きかった。それに、今から思えばあの時に「本当の愛ってなに?」とか、「この人にあげて後悔しない?」とか、そんなことは考えなかった。
 キスからはじまってどんどんエスカレートする行為にわたしは濡れまくり、常にその先を期待していた。
 若かったからだろう。あれこれ考えることなく、どんどん走っていった。
 人は年齢とともに色々考えるようになる。臆病にもなる。失いたくないものが増えてくる。
 妙子は平均からすれば若干地味かもしれないけれど、決して魅力がないわけではない。男が全く相手にしないとは思えなかったし、彼女を好きになる男だって当然いたはずだ。ただ相思相愛になれる機会が訪れなかったか、恋人はいたとしてもセックスする関係にまで進まなかったかのどちらかだろう。
 例えば彼女がわたしと同じように中学時代に処女を失くしていたら、もっと気軽に身体を開いていたかもしれない。その相手は恋人だったかもしれないし、そうではないかもしれない。セックスをしたときはそうでなかったとしても、それがきっかけで付き合い始めるというのもよくあることだ。身体から始まる恋愛だってあるのだから。
 そう思うと、今彼女が処女であることで悶々としているのは、処女だからなのだ。なんだか禅問答しているみたいだけれど。
「相手を問わずさっさと捨てちゃうのも、悪くないかもね」と、わたしは思わず言ってしまった。
「そうよね。やっぱりそうよね」
「でも、なんか違うような気もするなあ」と、わたしは付け加えた。
 処女を捨てたからって、恋愛に弾みをつけることにはならないと思ったからだ。
「この人ならセックスしたい」って思える相手の基準が、処女のときと失ってからでは異なるかもしれない。けれど、だからって恋に縁遠い女の子がいきなりそうでなくなるなんてこともないだろう。それに、恋に縁遠くたってなんら問題ない。いずれ現れるであろうそういう人としっかりと仲を築けばいいのだ。
「あなたは、もてるものね。こんなことで悩んだりしないんでしょうけど」
 もてる?
 そうだろうか。セックスをするかしないかは別として、男にチヤホヤされている女なんて、周りにいくらでもいる。
「すごく輝いているし。男を知ると体質変わるっていうでしょ? すごく女らしくなるって。そうなりたいのよ」
「そんなの俗説よ」
「肌の光沢も違うし、フェロモン出まくってるし、やたらと色っぽいし、明るいし」
 そこまで言われると、なんだよそれ、と言いたくなる。褒め言葉ではあるが、半ば嫉妬まじりなのだから、素直に喜べない。それにフェロモン出まくりはないだろう。
「あのね。確かにわたしは他の子より露出多いと思うよ。化粧だってそこそこ上手だと思うし、男をその気にさせる雰囲気作りだってまずまずだと思う。だけど、のほほんとセックスしてるわけじゃない。自分が淫乱だって宣言してるみたいだからこんなこと言いたくないけど、だけど色んなイイオトコとセックスしたいからそういう風にはしてるわ。それってある意味、自分を磨くとか、さまざまな工夫をするとか、そういうことよ。別に悲壮な決意で修行してるわけじゃないし、好きでやってることだけど、それでも努力は努力に違いないの」
「そういうことが出来るアナタが羨ましいの。アナタみたいな超ミニとか履けないもん」
「いや、あのね、えっと」
 いったいわたしはこの子と何の討論をしているんだ?
「だから、あたしも弾みをつけたいの。そのきっかけにしたいの。男も知らなくて、その男の気を引くようなこと、できると思う?」
 妙子の理屈はなんだかわけがわからなく思えてきた。
 どうしてそういう方向に進むのだろう?
 ようはこの子はセックスがしたいだけなのかもしれない。思考がどこかで妙な枝分かれをしてしまっている。それは処女であることの焦りからくるものかもしれない。
「わかったわ」
 わたしは観念した。
「うちのサークルは別に途中入部に制限は設けてなかったと思う。今度紹介したげる」
「うん」
「だけど、覚悟しといたほうがいいわ」
「出来てるわ。全員にまわされるんでしょう? 望むところよ」
「ううん、違う。うちのサークルは確かに誰とでもセックスするけど、無理強いはしないの。嫌がっている女の子を抱いたりしない」
「じゃあ、どういう覚悟よ」
「途中で辞める女の子はいるけど、途中から入る子はいないってことよ。だって、そういうサークルだってみんな知ってるもの。知らないのは新入生だけ。だから、辞めずに残っている女の子は、誰とでも平気で寝るような子だって思われるし、まして途中で入部なんてしたら、まわりからは『それ目的の淫乱女』って目で見られるわ。たいていの男はそういう女を恋人にしたいとは思わないんじゃない? セックス目的の男は近づいて来るかもしれないけど。つまりちゃんとした恋人は、この大学とは縁遠いところでさがさなくちゃいけないってことよね」

 そういう目で見られる。
 その一言で妙子は黙り込んでしまった。
 結局のところ、表向きは「綺麗な自分」でいたかったのだ。
 わたしは最後に妙子に「やっぱり、そういうのは大切にしたほうがいいよ」と、常識的な台詞を残した。
 そんなわたしが、痴漢という外道な行為に感じてしまい、その男と和姦しようとラブホテルに向かっている。
 駅から出てしばらくは手を引かれるようにして男の一歩あとをついていく状態だったが、いつのまにかわたしは男の横に並んでいた。
 男の手から汗がにじんできていた。
 手には力が入っている。
 いまさら逃がしてなるものかと握り締めているのだろうか。
 わたしはあらためて男の顔を見た。というより、男の顔に視線を向けて「そういえばまともに彼の顔を見るのはこれがはじめてね」と思った。
 若くて男前だった。
 痴漢と言うと中年の脂ぎったおっさんをつい連想してしまう。こんな男がどうして痴漢なんてするのだろうと不思議になった。
 年齢の頃は25前後だろうか。スラックスに開襟シャツ。学生には見えないが、一般的な社会人とも違う。スーツを着ていないからだろうか。
 はっきりとした輪郭の二重の瞳、中世的な細い鼻筋、意志の強さと野性味を持ちながらもどこかあどけない唇。そして、全体からはどこかはかなげな雰囲気を漂わせていた。
 映画俳優なら、名脇役といったところか。主人公にはなれそうにない。それはカリスマとかオーラとか、そういった類のものが感じられないからだ。
「だから、痴漢なんかで女をものにするのかな?」
 ふとそんなことを思ってしまった。
 しかし脇役と言えども重要な役柄にはつくだろう。ストーリーの流れを変えるきっかけをいくつも持ち出しそうな、重要な役。
 嫌いなタイプじゃない。こんな男に甘くささやかれながら、台詞の優しさとは裏腹に激しく責められたいと思った。
「大丈夫?」と、顔を近づけてきた。
 似非の優しさ。
 もし気が進まないんだったらやめておこうか。今にもそう囁きそうなくせに、実際に「やめた」と言えばきっと急に怖い顔になるんだろう。
「早く行こうよ」と、わたしは言った。
「中途半端に感じさせられて、たまらないの」
 わたしはわざとそう言った。
 獲物は逃げないと確信した男は、ほっとしたように頬の筋肉をほころばせた。
 こういうところが、堂々と女をモノに出来ない、痴漢に頼らざるを得ない、この男の情けない部分なんだろうなとわたしは思った。こいつはもう俺の女なんだからと堂々と2〜3歩先を歩いていくような漢だったらきっと痴漢なんてしないんだろうな。
 ま、そんな情けないところがかわいいんだけどね。
 そしてわたしはこうも思った。
 早く行こうよ、中途半端に感じさせられてたまらないの。こんな台詞は妙子にはきっと言えないんだろうな。

 チェックインから挿入まではあっという間だった。
 扉の鍵を閉めるなりいきなり抱きすくめられ、まるでさっきの痴漢の続きのようにスカートの中に手を入れられた。
 混雑した電車と違って、自由に身体を動かせる。男はパンティの両脇に指をかけ、あっという間にひきおろした。
 どういう手順で脱いだのか、次の瞬間にはわたしの股間に男の熱い棒の先端があてがわれている。
 わたしの足元にはちいさくまるまったパンティーがあり、男のスラックスとトランクスも床の上だった。
 くん!
 生身が久しぶりにわたしの中を貫いた。
 
 白けるかもしれないと思ったが、コンドームの装着を要求した。これまでのように妊娠の不安に苛まれるのはごめんだった。これで男が白けてジ・エンドなら、それはそれでかまわないと思った。
「そ、そうだな」
 男はおどおどとわたしから離れ、ベッド脇の小箱から避妊具を取り出した。
 わたしはその間にベッドに移動して、身体を横たえた。
 装着を終えた男は、ベッドの上のわたしにのりかかり、正常位で挿入してきた。
 男は「お、お、いいぞ、とてもいいおまんこだ。締め付けてくる」と言った。
 ベッドの上で、お風呂の中で、そして最後はソファーの上で交わった。ソファーに座ったのはお互いにもう終わりにするつもりだったのだが、身体が触れているうちについまたその気になってしまったからだ。
 男はことあるごとに、「最高のおまんこ」だの「よく鍛えられているね」などと言った。
 台詞は時間とともにどんどん下司になっていった。「使い込まれているおまんこはいい」とか「何人男くわえ込んだの?」とか「初体験はいつ?」とか。
 わたしは面白がって「小学校5年生のときに、近所のおじさんに犯された」と言ってやった。
 小説か漫画か映画かビデオか知らないけれど、男はそんなエロ物語の中の出演者にでもなった気分なのだろう。ますます興奮しているようだった。
 備え付けのコンドームは二つしかなかった。
 この男は浴室で交わったときもいったんベッドルームに戻ってコンドームをつけてきた。
 そして、ソファーの上で三たびいい感じになると、フロントに電話をして追加を持ってこさせた。
 ゴムももうないし、中でだしてもいい?
 そう聞かれたらきっとわたしはウンと言っていただろう。

 ホテルを出る前にわたしはもう一度シャワーを浴びた。いつ痴漢男がバスルームに乱入してくるかと思ったが、とうとう入ってこなかった。
 わたしが出るのを確認して、入れ違いに浴室に入った。
 痴漢なんてするくせに、妙に律儀だ。
 しかし彼の衣服は寝室においたままで、彼はスッポンポンのままバスタオルで身体を拭いながら戻ってきた。律儀にするなら脱衣場できちんと身づくろいを整えてくればいいのにと思ったが、彼の精神状態はわたしには手にとるようにわかった。
 要するに、彼にとってのわたしは「俺の女」なのだ。
 結婚した途端に家中を全裸で歩き回る夫と同じだ。
 エロスに身を浸すときはのめり込むけれど、そうでないときはきちんとしていて欲しいと感じたわたしは、「なんて普通の女なんだ」と思うと同時に、この人を恋人にすることはないだろうと思った。
 そして、この男のモノの小ささを初めて意識した。
 にもかかわらず挿入時にお互いがビンビンに感じていたのは、この男が言うとおり、「わたしの締まり具合」が格段に良かったからだろう。
 経験を重ねてどんな男にも対応できる身体になったのか、それともしばらく男から離れていたおかげでアソコがしぼんでしまったのか。
「また会ってくれる?」と、男は言った。
「電車で偶然会ったらね」と、わたしは答えた。
 嘘偽りのない本音だった。
 積極的にデートをしようという気にはならなかったが、偶然顔をあわせたときぐらいは肌を重ねてもいいと思ったからだ。
 
 1年生の授業が終わるまでに、この男とは5回ほど偶然電車の中で遭い、その度にセックスをした。偶然と思っていたのはわたしだけで、男は狙っていたのかもしれない。1時間目から授業がある日は、同じ電車の同じ車両に乗っていたのだから。
 ホテルに行くこともあったが、我慢できなくて、駅のトイレでしたこともある。不潔で匂いのする小さな部屋が、そのときのわたしのすべてだった。卑猥な落書きのある壁に体重をかけ、お尻だけを突き出して、彼を受け入れた。ワンピースは胸までまくりあげられて、露出したお腹が壁に触れて冷たかった。またある時は階段の裏でフェラチオをした。電車の中でズボンの上から触っているうちに汁がにじみ出てきて、その湿り気を指で感じると我慢できなくなったから。ひとときも早く彼のモノに触れたかったのだ。
 まるで都合のいいセックスフレンドのように、性欲が高まって我慢が出来なくなる頃になると、不思議と出会った。
 後期の授業は終わり、痴漢男との交わりも終わりを告げようとしていた。授業はなかったがその日は学生課に用事があり大学へ行った。この日を最後に来年度前期まで大学に行くことはない。学生課には夕方までに行けば構わないのだが、1時間目があるときと同じ電車に乗った。あの痴漢男に遭わないかなと期待していた。けれど、だめだった。
 このあたりが潮時なのだろう。
 連絡先は交換していないし、ヒントになるような会話もなかった。
 わたしが拒否したせいもあるが、お互いのことはあまり語らあわなかった。
「あの電車に乗ればいつでも会えるんでしょ? 連絡先なんて必要ないじゃない」
 2度目に連絡先を教えあおうと彼が提案した際、わたしはこう答えたのだった。
「仕事だから、一日何度も同じ電車に乗ることもあるし、全く乗らない日もある。時間帯も定まっていない」
「毎日だと身体がもたないし、そっちだって仕事に差し障るでしょう? 偶然に期待しようよ。その方がきっと楽しいし」
 わたしは適当に返事をしていた。
 そして、会話の矛先を方向転換させた。
「いつも、あんなことしてるの?」
「あんなことって?」
「痴漢よ、痴漢」
「まさか。痴漢でつかまって人生棒に振るなんてまっぴらだ」
「だけど、わたしにはしたじゃない」
「あれは痴漢じゃない。ナンパ」
「いきなり指突っ込むなんて、とんでもないナンパね」
「磁石はいきなりでもくっつきあうだろう? あれと同じさ。同じ電車の中にいるだけで俺はビンビンに感じたよ」
「馬鹿馬鹿しいわ」
「馬鹿馬鹿しくなんかないぜ。俺達、セックスの相性、バッチリだろう?」
「そうね」と、わたしは答えた。
 まさか「あなたの大きさに合わせてわたしの優秀なアソコが伸縮してるの」などとは言えない。
「仕事って、何をしているの?」
「詮索は無しにしよう。俺も、君がどこの女子大生かなんて訊かない」
 よく言うよ。わたしがプライバシーの伝授を拒否したから、それにあわせているに過ぎないことは容易に想像できた。
 カッコつけているだけなのだ。
 
 しかし、学生課に行ったその日、最後の逢瀬が期待通りにならなかったことで、わたしは久しぶりに性欲を覚えた。したいと思った。
 ほとんど会えることを期待していたわたしの身体は、性器が敏感に反応していた。汁を溢れさせていた。
 帰りの電車の中で「誰でもいいから痴漢してくれないかな?」とまで思ったが、こんな空いた電車の中ではそれは期待できなかった。
 そのかわりに男の子が声をかけてくれた。
 同級の天利直也。
 顔と名前は一致する。けれど、ほとんど会話を交わしたことはなかった。
 それはお互い積極的に声を掛け合わなかったからであって、悪い印象を持っていたのではなかった。用事のあるときは言葉をやりとりするが、むしろそれはすごく自然体で、「やあ」「よお」といった感じだった。それまで会話がなかったのはたまたまそういう機会がないままにちょっと時間が流れてしまっただけのように思えるのだった。けれどもわたしたちは用事が終わるとまた言葉を交わさない仲に戻ってしまう。この1年間ずっとそうだった。
 わたしの持つ彼の印象は「静かな男」。大声を張り上げたり下品な笑い声を教室に響かせたりは決してしない。でも、存在感があった。
 静かな、存在感。
 教室のどこかに彼はいつもいた。わたしはいつも彼の存在を目の隅で確認していた。
 目立たないけれど、そこにいる。いることがわかれば、その存在感は大きい。だけど、静か。
 一種の安心感のようなもの。
 それはまったくのわたしの自己満足だった。
 彼の存在感はわたしの意識の中だけのことで、他のクラスメイトにとってはさほど目立つ存在ではなかったような気がする。
 電車の中で、少し離れた席に彼がいた。
 向こうもわたしのことに気がついた。
 会話の話題もないけれど、いつも同じ教室にいる存在であることはわかっている。無視するのもおかしいとおもったのだろう。天利君からこちらにやってきてくれた。わたしはホッとした。このままお互い席も移らず、会話も交わさず、ただ時々相手の存在を目の隅で確認する、そんな時間は苦痛だったし、ましてこれで新学期を迎えてしまったら気まずい。
(もっとも彼はそれでも平気だっただろうけれど)
 わたしはお茶に誘われた。実はキミのこといつも見ていたんだと告白された。
 お茶はともかく、「いつも見ていたんだ」と打ち明けられて、わたしはあまり驚かなかった。驚かない自分に驚いた。
 見られていた。わたしはそれをどこかでキャッチしていたのだろう。だから彼の存在をしっかりと認識していたのだ。
 そりゃあそうだろう。一方的にわたしが彼の存在を時々確認したからといって、そうそう目線が交錯するわけがない。
 お互いが相手を気にして初めて、視線は交わるのだ。
 そうだった。わたしが彼を見たときはたいてい彼もこっちを見ていたっけ。
「こんな女でいいの?」
「さあ。自分の目が確かなことを祈るだけさ」
 それだけの会話で、二人の仲は成立してしまった。
 わたしは彼と寝た。すぐにわたしの身体には火がつき、燃え上がった。
 産婦人科に行き、リングも入れてもらった。夏以来不順だった生理がきちんと戻ってきた。彼の存在でわたしのバランスが取り戻されたのだ。
 わたし達は春休みの間、なるべくたくさんの時間を一緒に過ごそうと約束した。