約束の場所は君のために
(2)ふたりとひとり





 僕は相変わらず教習所に通っている。
「あ、落ちてる、落ちてる」
「え?」
「脱輪! 左の後ろのタイヤ。段差があるんだから、落ちたら普通気が付くよ」
「すいません」
「ああ、ダメダメ、そのまま進んじゃ。落ちたら、いったんバックして戻って、やり直し」
「.....」
「試験の時、脱輪に気が付いて、バックしてやり直したら減点で済むわけ。でも、そのまま行っちゃうと、その場で検定中止だからね」
「はい」
 脱輪はその時一回だけで、次に同じ所を通過するときは、うまくクリアすることが出来た。
「へえ、今度は落ちなかったね。うんうん、じゃあ、はんこ押したげるよ」
 悪いが僕は、まだ再履修したことはない。
 運動神経も勘も決して悪くはないのだ。
 ただ、少しばかり気が弱いので、横であれこれ言われると余計な緊張をしてしまう。だから、時々脱輪などの失敗をするのだ。
 失敗をするとまたあれこれ言われ、そのことが引き金でさらに固くなってしまう。
 さらに固くなってしまうけれど、だからといって同じ失敗をすることはまずない。ただ「口やかましいヤツだなあ」と思うだけだ。


「僕のこと軽蔑する?」
 僕はユキちゃんに訊いた。
「どうして? どうしてわたしが、高安君のこと軽蔑しなくちゃいけないの?」
「だって、こんな事になっただろ?」
 僕とユキちゃんはベンチで再会した後、結局二人して授業をさぼって、肌を重ねたのだった。
「いいじゃない。二人ともその気になったんだし。誰にも迷惑かけてないし」
 いや、僕が言いたいのはそういう事じゃないんだ。
 うわさ話の真偽を知ってからユキちゃんを抱いたことで、「わたしがそんな女だとわかったから、気軽に寝たんでしょ」と思われてやしないかと、僕は不安だったのだ。
 二人ともその気になったし、誰にも迷惑かけていない。僕はそれになんと答えていいかわからず、「そりゃまあ、そうなんだけど」と、間抜けなことを言った。
「だけど、って。私じゃ不満? 良くなかった?」
 ユキちゃんは僕の訊きたいことからわざと遠ざかるようなことばかり言ってるのかも知れない。
「不満なんてないよ。君は素敵だよ」
 心の中で赤面しながら、正直に喋った。
「わたしもキミのこと好きよ」
 好き、って、どういう好きなんだよ。
 世間の恋人達が持つ恋愛感情の「好き」なのかどうか、僕にはさっぱり判断が出来なかった。


 それから僕たちはほとんど会話を交わさずに別れたのだけれど、ユキちゃんはずっと上機嫌のようだった。
 にこやかだったとか、鼻歌を歌っていたとか、そんな明かな上機嫌ではなかったけれど、表情がおだやかだった。
 右と左に別れるとき、僕は「また、逢える?」と、訊いた。
 ユキちゃんは「もちろん。また、やろうね」と、言った。


 ユキちゃんの最後の言葉がまた僕を思考の泥沼に突き落とした。
 また、やろうね、だって?
 ユキちゃんにとっての僕が、そんな軽口を叩けるほどの間柄にまでなっているのか、それとも、僕とのそういう時間を過ごすのが良いと言っているのか。
 昔のうわさ話の話題なんかせずにユキちゃんを抱いていたら、こんなに思い悩むこともなかったのにと、少し後悔した。
 けれど、うわさ話の話題がなかったら、僕はユキちゃんを抱いたりしなかったろう。
 そのことが、僕を思い悩ませる一番の原因であることに気づいた。


 それから1週間がすぎた。
 たまたまなのだが、あのベンチに行く機会がその間ずっとなかった。
 昼休みあたりの時間帯にあのベンチへ行けば、多分ユキちゃんと逢うことになるだろうとは思っていた。避けていたわけではないのだが、次の授業の課題を忘れていたり、友達に昼食に誘われたり、教授に呼び出されたりして、ベンチへ行くことが出来なかったのだ。
 でも、ベンチへ行くための算段を積極的にはしなかった。
 そういう意味では避けていたのかも知れない。
 ユキちゃんに逢ったとして、どんな顔をして、何を喋ったらいいのだ?
 そんな想いが、積極的な行動にブレーキをかけた。
 もちろん、逢いたくないわけじゃない。
 しかも同じ学校の学生である。どこかで顔を合わすだろうと思っていた。
 だが、それすらなかった。
 逢えないことで、焦りはなかった。
 同じ学校の学生である。顔を合わさないわけがないのだ。
 だが学校へ行けば大好きな人に会えるという、ドキドキワクワクという感情は起こらなかった。
 むしろ何となくもの悲しい気持ちになる。
 自分からユキちゃんを捜そうという気にならないのは、そのせいかもしれなかった。
 そうして1週間がすぎたのだ。
 そして僕は、「同じ学校の学生だから、顔を合わさないわけがない」という想いとは別に、「このままずっと逢えないんじゃないか」という強迫観念にも似た感情に支配されはじめた。


 ずっと逢えない?
 一生逢えない?

 あり得ることだった。小さなキャンパスじゃない。入学から卒業まで、全く顔を合わさない学生同士なんてゴマンといるのだ。

 ずっと逢えない?
 一生逢えない?


 絶望的な気持ちになった。
 僕の中で彼女が大きな位置を占めていることにきがついた。
 でも、僕たちは、お互い住んでいるところも電話番号も知らない。
 なぜそんなことも教え合わずに別れてしまったのだろう?
 彼女の「また、やろうね」はリップサービスで、彼女にとっての僕は「誰とでも寝る女目当ての一人」でしかなかったのだろうか。
 結果として、それならそれでいい。
 でも、結果を知るためにも、もう一度何とか逢わなくてわ。
 そして僕は気が付いたのだ。
 卒業生名簿!
 僕とユキちゃんは同じ高校の同級生なのだ。
 どんな顔をして逢えばいい? 何を喋ればいい?
 そんなことを考えていたのが嘘のように、僕は素早く卒業生名簿を引っぱり出し、電話をかけた。
 だがその電話は通じなかった。
 その後転居しているようだった。
 最悪なことに、僕も転居している。おやじの転勤による引っ越しと同時に、僕は通学のために下宿暮らしをはじめたのだ。つまり、彼女も僕を卒業生名簿から捜し出すことは出来ないのだ。もっともそんなアクションを彼女が起こしているかどうか知る由もない。
 元の居住地から考えればユキちゃんだって下宿だろう。そして元の電話番号につながらないということは、やはり家族もどこかへ引っ越しているに違いない。
 空気がしぼんだ風船のような気分になった僕は、ベッドの上に倒れ込んだ。
 やがて僕は、どうでもいい気分になってきた。
 このまま逢えない? そして僕は、うわさ話につられた男の一人だった。
 それで終わるなら、それも悪くないような気がした。
 そもそもユキちゃんが僕のことを想っているかどうかなんてわからないのだ。
 いつしか僕はそのまま眠っていた。


「同じ学校の学生だから、顔を合わさないわけないよな〜なんて、ちょっと油断しちゃったかもね。逢えて良かった〜。久しぶりだね。って、たった1週間ぐらいかな? 電話番号くらい交換しとかなきゃダメね。」
 次の日、ユキちゃんは僕を見つけて駆け寄ると、それだけまくし立てた。
 言い終えるとホッとしたように、ほんの一瞬だけど僕の胸に頬を当てた。
 そして、「ごめんね、さっきの話、キャンセル。急に用事が出来ちゃった」と、少し離れた所で僕たちを見ていた二人の女性に手を振った。
 僕は女性3人がこっちに向かって歩いてくるその中に、ユキちゃんがいることに気が付いたのだけれど、友達が一緒であれば声をかけようかどうしようか躊躇したのだった。
 その僕を見つけて、ユキちゃんの方から駆け寄ってきてくれたのだ。
 昨日ああだこうだと考え込んだアレは何だったのだと、僕はアホらしくなった。
 友達との何らかの約束をキャンセルしたユキちゃんは、「今日、これから、予定ある?」と、僕に訊いた。
「いや、特に」
「高安君も、寮か下宿でしょ? まさか自宅から通ってないよね」
「下宿だけど」
「じゃあ、晩御飯作ってあげる。一緒に食べようよ」
「キミのうちで?」
「私も下宿だから、遠慮しなくて良いよ。狭いワンルームだけど。いや?」
「そんなことないけど」
「けど、なによ。キミはけどが多い」
「ごめん」
「で、どうするの? 来るの? 来ないの?」
「行きます」
 僕は思わず、ですます調で答えていた。
 チャキチャキした口調に圧倒されていたのだ。完全に彼女のペースだ。
 そしてユキちゃんは、それまでの調子とはうって変わって、目元と口元を緩ませながら、しっとりとした声で「泊まっていってね」と言った。
 僕は彼女を引き寄せ、生まれて初めて人前でキスをした。
 僕自身どうしてそんな行動をとったのかわからないけれど、そうせずにはおれなかった。
 そしてそんな軽はずみな行動が、後で波紋を起こすとは、僕は全く予想もしていなかった。


 僕たちはスーパーマーケットで買い物をした。
 たった一度の晩餐の為だけの、ささやかな買い物だった。
 わずかな仕送りとアルバイトで支えられた僕たちの日常では、ささやかではあったけれど贅沢な買い物だった。
 これは高いとか、これはお買い得とか、そんなことを言い合った。
 彼女と一緒に食事をするというと、イマジネーションの貧困な僕はつい、ホテルの最上階のレストランでその後貧困と粗食にあえぐ姿を想像しながら一時の見栄を張る、何てことを思ったりしていたが、こんなディナーの姿があることに少し感動した。
 料理は全てユキちゃんが作った。
 コンロがひとつと、電子レンジ。それだけの台所で、いくつかのメニューを作り上げた。
 全ての料理が暖かだった。
 これは自分でやってみたらわかることだけど、限られた調理器具でいくつかのメニューを同時に作り、しかもほぼ同時に仕上がるようにするには、全て段取りが物言う。
「お酒も買っとけば良かったね」と、僕は言った。
「で、ローソクとバラの花を食卓に飾るの? いいのいいの、そんなもの。こうしてるだけで充分」と、ユキちゃんが笑った。
「ちょっと意外かも知れない」
「何が意外なのよ。いい? 何が大切で何が大切でないか、とか、よく考えないとダメなのよ。外見が豪華なものに限って、じつは心の中は北風が吹いてたりするの。本当の満足感とか、気持ちの良さっていうのは、そういうところとは別の所にあるのよ。わかる?」
 ユキちゃんは説教口調で言い、それから「なんてね」と、舌を出した。
 食事の後、僕は先にバスを使わせてもらった。
 ユニットバスなので、同じ室内に便器や洗面所がある。洗面所の上の小さな台には歯ブラシやコップが載っている。タオルかけにタオルがかかっている。
 それから、シャンプーやリンスやボディーソープもある。トイレットペーパーもある。
 要するに、人前に立つ前のユキちゃんの姿がそこにある。
 そんなことにときめいてしまう僕は、どこかおかしくなっているのかも知れない。
 僕がバスタオルを巻いてバスルームから出ると、既にユキちゃんは食事の片づけを終えていた。
「わたしも、お風呂入ろっと。ちゃんと待っててね。帰っちゃダメよ」
「当然だろ」
「すぐ済むから」
 でも、実際にはすぐには済まなかった。
 ユキちゃんが「やっぱり一緒に入ろうか?」と言い、僕が「そうする」と答えたからだ。


 ユキちゃんにとって僕がなんなのか、という根本的な疑問が消えたわけではないのだけれど、それ以来僕たちは仲良くデートをしたり、食事をしたり、抱き合ったりしていた。
 そんな二人の時間は静かに流れた。
「静か」としか言いようがなかった。
 僕も今まで何度か女性と付き合ったことがあるけれど、そこにはどうしても煩わしさが介在した。彼女のために今度の日曜日は空けてあげないといけないとか、彼女を楽しませるために今度はどこでデートしたらいいだろうかとか、そういえば3日も電話していないからそろそろしとかないとまずいなとか、そんな煩わしさだ。
 あるいは、デートの時に急に僕が黙り込んでしまったりすると、いちいちのぞき込むようにして「どうしたの?」と訊かれたり、映画を見たあとは一通り感想や批評を言わなくちゃいけなかったり。
 相手にその気がないときに身体を求めたりしたら最悪だった。僕は何も強姦しようというのじゃない、普通に拒否すればそれですむはずなのに、身体が目的だの何だのぐちゃぐちゃ言われ、だったら勝手にしろと言いたい。
 高校生の幼いデートなんてそんなものかも知れないけれど、そういった煩わしさを一切感じさせないのがユキちゃんだった。
 それはとても居心地が良く、ユキちゃんにとってもそれは同じだろうと思ったりする。
 もちろんはしゃいだりゲラゲラ笑い合ったりするんだけど、全体として僕たちの時間は「静か」に流れたのだ。
 僕とユキちゃんがあのベンチで再会して、3週間ぐらいたっただろうか。
 木立佐緒里が僕を喫茶店に誘ってきた。彼女は学科が同じなのでいわばクラスメイトといえたが、それほど会話を交わしたことがない。
 タダでさえあまり気楽に異性と話をしないタイプの僕が、煩わしさを全て背負ったような美しさを持つ彼女に、自ら近づいたりはしない。
 その彼女が何の用で?
 そう思うと気が重い。
 僕たちは学校から少し離れた住宅街の中にある喫茶店に入った。
「で?」と、僕は言った。
 用件を済ましてさっさと席を立てと僕の勘は告げている。
 眺めているだけならその容姿は綺麗と言えたが、なにやら僕をいらだたせるものがあった。
「堺ユキ」と、彼女はユキちゃんの名前を、ただぶっきらぼうに、フルネームで告げた。背筋を伸ばして毅然とした態度で。
「で?」と、僕もぶっきらぼうに言った。
「付き合っているんですか?」
 それは難しい質問だ。僕とユキちゃんの関係は、はたから見れば恋人同士なのだろうけれど、相変わらず僕はその確信が持てない。
 どう答えようかと悩み、なんで彼女にそんなことを説明しなくちゃいけないんだ、そう思ったところで、「付き合ってるんですね」と、木立佐緒里は決めつけてしまった。
「知っているんですか?」
「何を?」
「あの子、高校生の時に、何をやっていたか?」
 木立が何を言おうとしているのか、おぼろげながらわかってきた。
「知ってる。同じ高校の出身だ」と、僕は言った。
 木立はそれで、少なからずショックを受けたようだった。
「知ってて、どうしてあんな子と付き合えるんですか?」
 失礼な言いぐさだと思った。席を立とうと思った。
 だが、木立の独演は続いた。
「あなたは知らないだろうけれど、わたし、ずっとあなたのことを見ていたんです。
 あなたは私なんか歯牙にもかけない様子だったけれど、それでも気持ちを変えることなんて出来ないじゃないですか。実らなくてもいい、思い続けるだけでもいい、そう思ってたんです。
 でも、見たんです。あなたとあの子がキスしてるところ。
 それで私は一度は諦めました。あなたもそんな人なんだって。だったら私の見込み違いだったって。
 だけど、それからもずっと付き合ってるじゃない。
 あの子、あなたのこと騙してるんだ。昔の自分を隠して、いい子になって、あなたのことを欺いてる。
 あんな子と付き合うのはやめて。私と付き合って欲しいとまでいわない、せめてあんな子と付き合うのはやめて欲しい。
 今日はそれを言いたかったんです。
 でも、あなたはあの子がどんな子だか知ってるなんて。
 知ってて、どうして付き合えるんですか?
 私なんかに振り向きもしない人が、あんな子を。どうして?」
 彼女が言い終わるのを待って、僕はひとつの質問をした。彼女がどんな思いで今まで喋ったかを無視するように、彼女の『どうして』には全く答えなかった。答える必要などないからだ。
「堺さんのうわさ話を、キミはどうして知ってる?」
 木立は何も答えなかった。
「誰かに話したか?」
 木立はそれにも答えなかった。
「キミも女ならわかるだろう。そんなうわさ話を流された女がどんな目で見られるか。そして、自分がその立場になったら、どんな気持ちがするか。」  木立は小さくうなずいた。うなずいたっきり、顔を上げなかった。
 僕はレシートを手にして、席を立った。


[続きを読む]
[目次へ戻る]